消失の先に #1



 *


 恋に半減期があるとしたら、それは一体どれほどの短さなのだろう。


 *


「ただいま」

 午後六時を過ぎた頃。一般的に夕方と呼ばれるこの時間帯に藤沢桂ふじさわかつらが大学から帰宅すると、母の声と他人の声が出迎えた。

「おかえりなさい」

「桂おかえりー」

 声の主である他人は桂の幼馴染腐れ縁で、でもその人に帰宅を出迎えられるという状況にうんざりもした。この状況が揃った時に自分の身に何が起こるかを、もう十二分に知っているからだ。

 ため息を吐きながら靴を脱いでリビングへ行くと、桂の予想通り、お菓子や乾きものを並べたローテーブルの傍で母と幼馴染が隣り合って座り、ビール缶を片手に談笑していた。幼馴染は桂の姿を認めるや否や、

「おかえりー、待ってたよー!」

 と言って桂に飛びついてきた。

 待ってこの人めちゃくちゃ酒臭いんだけど。いつから飲んでるの、ねえ。

椎名しいなさん、また別れたの?」

 呆れて本音を零しつつ引っぺがすと、幼馴染こと椎名が反論する。

「またって何、またって! 確かに別れたけど!」

「そう言われたくないんなら直すか、せめて嘘でもいいから否定しろよ……」

 桂がげんなりしながらそう言うと、彼女はふいとそっぽを向いて、缶ビールを呷った。都合の悪いことや突かれて痛いことを指摘されると、無視を決め込むのが椎名のやり方なのだ。

 桂は、これ以上は深追いしてもなにもならない、と判断し、話題を変えるためにとテーブルの足元に視線を移した。すると、空の酎ハイ缶が三本、大きめのビール缶が二本転がっているのが見えた。なるほど結構飲んでいたらしい、それはあの酒臭さにもなろうものだ。

「強くもないのに早くから飲んだら帰れなくなるからやめろって何度言ったらわかるの? ていうか仕事は?」

「終わらせてきました~。ここ最近残業続きだったから、その埋め合わせで早く上がっただけです~」

「ああよかった社会的には終わってなかった」

「失礼な!」

「ちゃんと社会人なら、せめて飲んだ後自力で家に帰れる量にして。今日だってどうせ酔い潰れてここで寝てくんでしょ」

 すでにあれだけ飲んでいるので、多分今日ももう彼女は家には帰らない。というか、帰れない。それが分かるようになってしまった自分が悲しい。

「いいじゃん別に、藤沢家の同意は得てるんだし」

「僕は許可出した覚え、ないんだけど」

 夕方から酒を飲んで酔うにしても、後処理まで自分でこなしてくれる程度の酔いで収まるのならこちらとしては何の問題もないのだが、彼女はだいたい酔いつぶれて藤沢家で寝落ちする。だから必然的に片づけはこちらで行うことになるのに、それを誰も咎めないどころか、話し相手として酒盛りに付き合ってやるわけだから、まったくこの家の人間はこの人に対してめちゃくちゃ甘い。

「だって反対したの桂だけじゃん。おじさんもおばさんもいいよって言ってくれてるし、民主主義的にはもう同意だよ」

「その民主主義には少数意見の尊重っていう概念があるのを知ってますか?」

「あーもううるさい! ほらそこ座る!」

「はいはい、着替えてくるからちょっと待って」

 ……まぁ、ここで突き放せない桂も大概、彼女には甘いのだが。


 *


「で? 今回は何日もったの?」

 部屋着に着替え、先ほどまで母がいた場所、椎名の隣に座った。椎名がここで酒を呷るのは、基本的に恋人と破局した時で、だから先ほどの「また別れたの」だ。だからそれについて詳細を聞いてみると、彼女は指折り数え始めた。

「うーんと……、二週間?」

「まあまあもったね」

 ひどいときは三日で別れたとか吐かすのがこの人だ。それを思えば長い方に入る。

「なんで続かないかなぁ」

「好きじゃなくなったのに続ける気ないもーん」

 桂がその短さに呆れると、彼女はあっけらかんと自分の主義主張を言い放った。彼女が恋人と別れる時の理由はだいたいこれだ。毎度こんなふわっとした理由で別れてくるので、あまりに相手が不憫である。

「そんなすぐ別れるんなら、そもそも付き合わなきゃいいのに」

「誰かを好きになったことも付き合ったこともないひとに言われたくないですー」

「確かに交際経験はないけど、椎名さんの恋愛は碌でもない人がやるそれだってのは分かる」

 少なくとも、桂の周りにはそこまでサイクルの早い人間はいない。数日であっけなく消えるほど確証のない『好き』であるならばそもそも付き合おうとしないか、付き合った以上、『好き』の有無とは関係なく、多少は関係を続ける努力をしているように見える。

「碌でもないとはなんだぁ!」

「あーもううるさい耳元で叫ぶな、酔っ払い!」


 結局彼女は吐き出したいことだけ喋り倒したところで、スイッチが切れたように寝落ちした。今回の顛末をまとめると一目惚れの直感が外れた、というあたりである。その理由はいかにも彼女らしく、むしろその直感だけで二週間でも交際を保ったことを褒めた方がいい気さえした。

「はー……」

 疲れた。ものすごく疲れた。別れるたびにこうして絡み酒してくること自体もやめてほしいが、これが基本的に二ヶ月と空かずにやってくるんだからほんとに勘弁してほしい。頼むから次の彼氏になる人はこんなのと長く付き合える人であってくれ、そしてできれば引き取ってくれ、ともう数えられないほど願った願い事を今回も唱えた。願い事は偶然叶うのを待つものではない。叶うまで願い続けるものだ。

「見た目は綺麗だから余計なんだよな、この人」

 幼馴染の贔屓目を抜きにしても、椎名は美人、と言ってもいい容姿をしている。そして、かなり外向型の性格なので、見た目のわりに『高嶺の花』感がまるでない。美人でとっつきやすいとなれば、必然的に人付き合いは広くなるうえ、(本人のスタンスこそアレだが)恋愛には意欲的だ。となると、別れてもすぐ次、が可能になってしまうのである。いっそのこと遊びだと割り切った人の男女付き合いの方がまだまともに見えるな、と桂はつくづく思うのだった。


 *


 とりあえず自力で起きることを願ってリビングに転がしておいて、藤沢家の面々は父の帰宅を合図に夕食を摂った。しかし、ここで起きる彼女ではないのもいつも通りで。

「客間にお布団用意したから、運んであげてくれる? あとこれ」

 夕食後、そう言って母が手渡してきたのは、クレンジング用品である。彼女はいつも化粧を落とさないまま寝落ちするので、代わりに桂が落としてやるのもいつからか習慣になっていた。化粧をしたまま寝るのは肌の負担になるのでよくないということも、いつの間にか自分の常識になっていた。おかしい、自分は化粧に微塵も興味がなかったはずなのに。

「椎名さーん。起きて、布団行って」

 一応声をかけてみるものの、全く起きる気配がない。自分で歩いてくれるだけで随分と楽になるのだが、起きないものは仕方がないので、肩に彼女の腕を担いで、引きずるように移動させる。これももう恒例行事だ。

「んっとに、この人は……」

 椎名を布団に放り投げ、仰向けにしたら、先程母から預かったコットンとクレンジングオイルで化粧を落とす。毎回、クレンジングで顔を触っている時ですら全く起きないので、ある意味すごいと感心するし、こんな無防備で生きていたら、いつか寝首をかかれて殺されても気が付かないのではとも思う。まったく困った腐れ縁である。

 化粧を落とし切った後は、オイルで皮脂も落ちていることを考慮して、化粧水で保湿をする。たぶん本当はもっといろいろと塗るものがあるのだろうが、ここでやるのは応急処置という位置づけなので、ここまでだ。それ以上を要求するなら起きて自分でやってほしい。

「ここで起きてくれれば洗顔させられるのに」

 母曰く、本当は洗顔もして、汚れを落としきってからケアする方がいいらしいのだが、流石に寝ている人を洗面台に運んであれこれするには自分の体力が足りない。寝ている人間を水場に連れて行くのも正直怖いし、びしょ濡れにしてしまって風邪を引かれても困る。

 こっちの苦労なんてつゆ知らず、のんきな顔で寝ている椎名を眺めながら、桂は先ほどの椎名の言葉を反芻していた。

「好きじゃなくなった、ねぇ……」

 恋愛感情での好き、という気持ちは、多分かなり大きなエネルギーを持っている。恋愛をするとバカになるとか、恋は盲目とか、先人たちが恋愛というものをそう捉えてきたように、恋愛という感情は周りが視界に入らないほど純粋に、その対象にのみ興味や情熱を注がせる。そんな、本人でもままならなくなることさえあるその感情の熱量が、ちょっとやそっとなわけがない。恋愛感情はそれほどの膨大なエネルギーを持っているのに、どうしてこんなに短期間で、あっけなく消えてしまうのだろう。

「……こんなにすぐ消えるなら、恋愛なんてしなくてもいいんじゃないのか?」

 少なくとも、フったフラれたがある度に他人を振り回さずにいられないのなら、そのエネルギーの大きさに本人が振り回されるなら、やめればいいのに。

「何が椎名さんを恋愛に駆り立てるのかね……」

 椎名の言う通り、恋愛感情で誰かを好きになったことがない桂だから、いくら考えたところで答えは出せない。それでも、考えずにはいられなかった。

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