色を描く #3

 センター試験と各大学の試験は、始まるまでは長いものだと思っていたが、終わってみればあっという間だった。三月初旬、千種も無事に進学先が決まり、杏璃や神城などよく顔を合わせていた面々も進路は確保できていたので、比較的穏やかな心持ちで卒業式までの日を過ごしていた。

「にしてもなんでこの高校、卒業式こんな遅いの」

「知りませんよそんなの。ていうか、普通あたしが先生にそれを聞くと思うんですが」

 そして千種は化学準備室にいた。三年生は自由登校で、授業もないのだから雑用もないはずなのに、なぜここにいるかというと、杏璃のクラスで杏璃たちと他愛ない話をしていたらこの人がやってきて、ちょっと話があると引っこ抜かれたからである。ちなみに着いてすぐ「話って何ですか」と訊いたら、「特にない」と言われた。意味が分からない。

「世の中の高校の卒業式って基本三月前半だろ、なのに二十日って。大学かここは」

「だから聞かれても困りますって。だいたい先生が卒業するわけでもないのになんで愚痴るんですか。どうせ春休みも仕事あるんですし関係ないでしょう」

「あと卒業するだけで暇だからって三年生にやたら絡まれて面倒くさいんだよ」

「その理屈で言うと私がここにいるのは何なんですか。生徒の相手は面倒くさいんじゃないんですか」

「虫よけ?」

「は」

 思いもよらない返答に、間抜けな声が口から漏れた。というか虫よけって、何気にいろんな人に失礼な発言では。

「誰か別の人間がいれば、よっぽど用事のある人間以外来ないから」

「そんな理由で生徒の残り少ない高校生活を邪魔するんですか」

「だと思うならここで俺の下らない話に付き合ってないですぐ帰れば?」

「権力って言葉をご存知ですか安里先生?」

 ここでの立場はどう考えても先生が上で、先生に呼ばれてここに来たのに帰ります、とは言い出せるわけがない。

「知ってるが、俺は権力振りかざした覚えがないからその反論は意味を成さない」

「それパワハラですよ、しかも無自覚の性質の悪いやつ」

「パワハラというよりアカハラだろ」

「うわぁ自分が責められてると微塵も思ってない、当事者のくせに第三者視点から突っ込み入れてる」

 千種の苦言を丸ごと無視して、それにしても、と先生は言った。

「あと少しで川島も卒業となると、俺は誰で遊べばいいんだ」

「生徒で遊ばないでください」

 この突っ込みももちろん無視。人の発言をここまでガンスルーして話を続けられるのもある意味すごい。

「川島がこんな面白い人間だとは思わなかった」

「だから話を聞いてください」

「聞いてはいるぞ、聞き入れる気はないが」

 確実にこれは教師が学校内で生徒に堂々と言う台詞ではない。

「もういいですあたしが馬鹿でした」

「あ、拗ねた」

「拗ねてないです」

「しかし、秋頃と比べるとだいぶ素直になったなぁ」

「誰のせいですか誰の」

「俺は何もしてないぞ、素直になれとは一度も言ってないからな」

 確かにそうは言われていない。猫を剥がした方が面白い、とは言われたが。だが、それも大きく取れば素直になったらどうか、という打診だと思うのだが。

「そういうの屁理屈って言うと思うんです」

「お前も大概だけどな」

 と、そのとき、部屋のドアがものすごい勢いで開いた。

「安里先生ぇー!」

 確認もなにもなしに入ってきたのは、杏璃とクラスが同じで、彼女が苦手そうにしていた生徒だった。……たしか、御田さんという名前だったはず。あとから、彼女の取り巻きらしい生徒も何人か部屋に入ってきた。

「うわっ」

 先生は素でそんなことを言った。この人ほんとに教師なのか?

「……あれ? 川島さんだ」

 御田はこちらに気づくとそう言う。まあ、当たり前だろう。

「なにか用事だったぁ?」

 微妙に締まらない話し方が千種を苛立たせた。少なくとも千種はこういう話し方をする人が苦手だし、どうでもいいが、この歳でその語尾は痛いからやめた方がいいぞ、と思う。きっと、やる相手は選んでいるんだろうが。

「いや別に。じゃあ安里先生、失礼します」

 出ていこうとすると、先生に呼び止められた。

「川島が先客だったんだから、別にこんな無礼な奴らに気を遣わんでもいいぞ」

 よっぽど相手をしたくないらしい。まあ、気持ちはわからんでもない。だが、ここで留まるのは不自然が過ぎる。

「いえ、もう用事は終わりましたし。失礼します」

 千種は振り返らずに化学準備室を後にした。背後から聞こえる姦しい声が、ひどく耳に障った。


 *


 帰宅後スマホの電源を入れると、ロック画面に大量の通知が並んだ。普段こんなことはないので何だろう、と思って文字を認識したとき、最初に覚えた感情は、怒りだった。

「……何、これ」

 通知の主はメッセージアプリで、送り主は杏璃がほとんどだった。その内容が問題だった。

『御田さんが、うちのクラスLINEにこの写真上げてたんだけど』

 上げてた写真、の中身は、化学準備室にいる千種と安里先生をどこかで隠し撮りしたものだった。

『それで、一緒に書いてたのがこれで』

 その下に、杏璃のスマホ画面のスクショがあった。彼女の書き込みは、たった一言。

【なんか怪しくない?】

 ただそれだけ、その光景を見た感想でしかない。しかし、彼女のこの一言をきっかけに、そういえば、と彼女の取り巻きらしい人がこう書き込んでいる。

【二組の人に聞いたけど、係でもなんでもないのに結構呼び出されてたらしいよ。何でだろうね?】

 彼女たちがどう話を持っていきたいかが、嫌でも分かるものだった。幸いそのLINE上では、ここに乗っかるのはあまりに下品と思われているのかそれ以上のことはなかったが、明日から好奇の目に曝されるのは確実だろう。これを見た人たちが、千種と先生の関係が実際はどうなのか、ということを見極めるために。

『教えてくれてありがとう』

 千種はとりあえず杏璃に返信を打った。に、しても。

「最後の最後でこんな居心地の悪いことになるとはなぁ……」

 どうして他人に色恋の匂いがすると徹底的に調べ上げて晒しておもちゃにしたがるのか。こういうことをしたがる人間ほど、自分がやられて不快にもならず怒りもせず喜べるかといえば、確実にノーだろう。ダブルスタンダードもいいところである。

「どうしような、明日から……」

 卒業式まであと少しだし、自由登校だから学校に行かなくても問題はない。だが、ここで卒業式のその日まで登校しないでいても、噂に尾ひれがついて訳の分からない話に展開していくのも何となく予想はつく。

「……行くしかない、か」

 でも、もうあの部屋には行かれないだろう。状況を整理して、最初にやってきたのは寂しいな、という感情だった。


 *


 それから、千種は毎日欠かさず学校へ行った。けれど、三年生の教室はどこに行っても変な視線がついて回ったので、かなり疲労がたまっていった。杏璃に「死んだ目してるよ」と言われた日もあった。それでも、あの噂を否定するためには、身を以て示す、それ以外の手法がないと思った。そんな日々を二週間ほど過ごした。

「明日で終わる……」

 夕方、誰もいなくなった教室で机に突っ伏しながら千種は呟いた。あれから、安里先生には一度も会っていないし、あの部屋に行くこともなかった。そのおかげか、「なんだ御田さんたちの憶測か」という空気になったので、沈静化はできたようだった。

「でもこの終わり方は後味が悪い……」

 この微妙な感じのまま卒業は、なんだか蟠りが残るけれども、こちらから用事がない以上呼ばれないと会いに行く理由を作れない。やっとあの話も沈静化したのに、また火をつけるようなことをしたくもない。

 そんなことを思いながら、なんとなく帰る気になれずだらけていると、閉まっていた教室のドアが開いた。勝手に開くわけがないのだから、誰かがやってきたということだ。

「あ、まだいた」

 そんな声とともに教室に入ってきたのは、さっきちょうど頭の中に浮かんでいた人。

「……安里先生?」

「なんだその化け物を見たような目は。俺が傷つく」

 驚きで変な顔をしていた気はするが、さすがにそんなひどい目をした覚えはない。

「だって、みんなも帰ったようなこんな時間に教室に用事なんてないでしょう」

「用事はないな。ただの散歩だから」

「こんな日にも散歩ですか」

「お前こそ、こんな日のこんな時間まで何してるんだ。校舎との別れを惜しむにも明日があるし、明日の準備とかあるんじゃないのか」

「準備なんてないですよ。いつもどおり制服を着ていつも通り登校すればいいだけですもん」

「ああそう」

 相変わらず相槌が適当である。でも、このやりとりも久しぶりなのでちょっとだけ楽しいと思っている自分がいた。

「そろそろ昇降口の鍵も閉まるんだし早く帰れよ」

「言われなくてもそこまで長居しません」

「はいはい、じゃあまた明日」

 そう言って先生は教室を出ていった。散歩の続きに出たのだろう。

「びっくりした……」

 まさか会えると思っていなかったし、この偶然のおかげで抱いていた蟠りが少しだけ解けたような、そんな気がする。でも、どうしてたったこれだけで、ここまで自分が安心しているのかは、よくわからなかった。


 *


 俺と彼女に変な噂が立っていることは、仁科と神城が教えてくれた。そして、そういう話があるから、沈静化するまでは彼女に構わないでほしい、彼女のために、とのことだった。納得はしたから、それから一切こっちからの接触を断った。向こうも、この状況でわざわざ俺に接触を図ろうとしなかった。よく考えれば、きっかけはいつもこっちだったのだから、彼女は前に戻って清々した、とでも思っていたのかもしれない。

 けれど、偶然会ったあの時の表情は、会えなくなって清々した、と思っている相手にするものではなかった。本人は気づいていない気がするが、それは確実に特別な感情を抱いた相手にするもので、自分は彼女に、その「特別な感情」をもう持っていた。ずっと蓋をして、どうにもする気がなかったそれの、蓋が開いた瞬間だった。

「……あーあ」

 揶揄い始めたころには落ちる気なんてなかったのに。


 *

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