色を描く #2
しかし、翌日。化学の授業の終礼で、安里先生はこう言った。
「川島さんは、このあと化学準備室に来てください」
「……は?」
先生は理由も告げずさっさと教室を後にしていき、代わりに友人が千種のもとへやってきた。
「千種なんかしたの?」
そう訊かれるが、千種自身にも心当たりがまるでない。
「何もしてないよ」
千種は今日日直でもないし、教科係でもないので雑務を押し付けられる立場ではない。呼び出される理由があるとすれば、授業とは全く関係ない部分だが、それで呼び出されるのも訳が分からない。
「……とりあえず行ってくるわ」
「ついてく?」
友人はそう申し出てくれたが、断った。化学準備室は教室からは遠いし、昨日のことが呼び出しの理由だったとしたら、知られるのは嫌だったからだ。
「んー、遠いし申し訳ないからいいよ。ありがとね」
「そっか。行ってら~」
友人は普通に送り出してくれた。
「失礼します」
ノックをして準備室のドアを開けると、呼び出した側は優雅にソファでコーヒーを飲んでいた。
「お、来たか」
「何なんですか、呼び出しなんて」
すると、先生はあれ、と事務机の上を指さした。
「忘れ物」
「あ、タオル」
それは千種が毎日学校に持っていくフェイスタオルだった。確かに昨日、鞄から洗濯に出した覚えはなかったが、ここに忘れていっていたことには今の今まで気が付かなかった。
「ありがとうございます、タオル忘れてたなんて気づかなかった」
「気をつけろよ」
千種はタオルを手に取った。と、そこに、沈黙が流れる。
「……もしかして、これだけですか?」
それだけで呼び出されたとしたら、かなり拍子抜けなのだけれども。
「それだけだが?」
先生はあっさり頷く。
「だったら呼び出さなくたって、教室でも事足りるのでは……」
「そんなことしたらクラス中がお前を問い質すんじゃないかね」
そのことには言われてから気がついた。確かに、生徒の私物を担任でも部活でかかわりのあったわけでもない先生から届けられたら、周りからしてみればどういうことなのか、多少は気になる。加えて、この先生は生徒と関わるのが面倒くさいという気持ちを全開にして教壇に立っているから、余計不思議がられるだろう。
「……それはお気遣いありがとうございます」
それならあのタイミングで個人呼び出しも、仲の良い人たちからは何なのかと訊かれる羽目にはなるのだけれども、という不満もありつつ、気を遣ってくれたらしいことには感謝の意を述べた。友人以外からも尋問を受けるより精神的負担が軽いのは事実だ。
「顔と台詞が一致してねえぞ」
「どんな顔してますか」
「すげえ嫌そう」
「そんなつもりは」
千種は一応否定した。本当に嫌がっていないのかと言われればそうではないが、ここでそうです嫌ですと認められるわけがない。すると、先生はまた想像もつかなかった言葉を投げてきた。
「まあ嫌がるかな、と思ってわざと全員の前で呼び出したんだけど」
「は?」
「別に俺から返す必要なんてなかったし。担任にこれ渡しといてくれ、って頼めばそれで済むし」
何だそれ。じゃあ最初からそうしといてくれれば。
「今生まれて初めて先生を殴りたいと思いました」
「お、少し猫が剥がれたな」
「だから猫なんか、」
「はいはい」
先生からは聞く耳を持たない適当な相槌が返ってきた。
「昨日といい今日といいすごい失礼な発言ばっかですよね先生」
思ったことを直截的に伝えたら、先生は感心した、と言わんばかりの顔をした。
「的外れ、とは言わないのな。まだ素直な方だ」
「まだって何ですかまだって。そもそも何と比較してるんですか」
「昔の知り合い。すんごい捻くれてた」
「だから捻くれてなんか、」
その否定の申し入れは途中でぶった切られた。
「って言いながらめちゃくちゃ不機嫌な顔してるから捻くれてるって言われるんだよ。悟られたくないならもっと上手くやれ」
「上手くも何も、あたしのこと捻くれてるなんて言うの先生だけです。もう授業始まるんで失礼します」
あんまりにもこっちの話を聞かないで話を進められるので、千種は会話を無理やり切り上げた。これ以上続けても似たようなやりとりが続くだろう。
「減らず口だなぁ」
「勝手に言っててください」
*
それからというもの、千種は何かとこの先生に絡まれるようになった。絡まれるといってもわかりやすく呼び出されるとかでなく、誰に頼んでも差し支えないような雑務をランダム指定と見せかけて千種を多めに指定される形で、友人以外からは怪しまれない程度に、しかし確実に接点が増えた。
「……これだから頭が切れる人間はずるいんだ」
十二月の終わり、終業式も間近。当然ながら廊下に暖房もない上、化学準備室は一階なので底冷えもする。加えて、センター試験まで一ヶ月を切っていて、なんだかんだで自分のいるクラスが一番国公立への進学を期待される人の集まりであることから、先生たちからの期待という名のプレッシャーをひしひしと感じる頃。そんな時にこうも小間使いをさせられては虫の居所も悪くなるというもので。
「……ムカつく」
どうせ誰にも聞かれないからと、彼に対して抱いている素直な感情を口にした。
何かを気に入られたのか、はたまた猫を引っぺがしたいだけなのかは知らないが、やたらちょっかいをかけられているこの現状に千種はとにかく苛立っていた。……いたはずなのに、最近どうもそれだけではないっぽいことも薄々気づいていた。
安里先生の言う「捻くれてる」だとか、「猫を被っている」というのは、学校での千種の態度を実は一番的確に表している言葉でもある。
なるべく波風を立てないように、とにかく余計な揉め事の種は蒔かないように意識して学校生活を過ごしてきた。そのためならば自分の感情は押し殺し、どんなことに対しても客観的な視点でいられるように、俯瞰して、最善策を探す。そういうやり方で今の居場所を築いた。その弊害として、自分の感情や本音の出し方が、もう千種本人にも分からなくなっている。だから、八方美人、猫を被っていると言われても仕方ないし、本音で違うことを思っていてもそれを素直に出せないので、本音を見抜かれていると、捻くれている人になる。
本音を出せないことは、もう長年この処世術で生きてきた自分にとって、そこまで苦ではない。それよりも、建前を本音と取られて、その建前が崩れないように整合性を取りつつ自然であるように振る舞う方が面倒くさい。しかし、千種を「捻くれている」と称する人は本音と建前を履き違えてはいないので、散々いじられて苛立ちはするが、苛立ったら気の済むまで反論できるし、そこで諸々が発散されるので少し気が晴れる。
……つまるところ、この時間も悪くない、と思い始めてしまったのだ。そしておそらく、千種がそう感じるまでがあの先生の狙いだったのだろうから、結局ムカつく、に収束はするのだが。
「失礼します」
前回あたりからいちいちノックをして返答を待つのが煩わしくて、予告なしに引き戸を開けるようになった。
「おー。そこのプリント運んどいて。ついでに返却してくれると助かる」
部屋にいる方もいる方で、だんだんこっちの扱いが雑になってきている。今ではこちらに顔を向けることもなく、ただ用件を投げてくる。
「なんで教科係でもないのにあたしを呼びつけるんですか」
前に一度そう聞いたら、それはそれは楽しそうに先生はこう宣った。
「その不機嫌MAXの顔が面白いから」
まるで「楽しいから」と玩具で遊ぶ子どものような理由だが、上手い返しも思いつかなかったため、諦めて従うことにした。教師が生徒で遊ぶのはどうかと思う。
「最近突っかかってこないのな」
「面倒くさいので。だいたい、センターまでもう一ヶ月ないのに勉強以外にリソース割けるほど余裕ぶっこいていられる頭ではないので」
千種は成績が悪いわけではないが、特別良いわけでもない。得意としている教科でだって平均より少し上にいる程度で、化学も特別優秀ではないことはこの男も知っているはずだ。
「頭はいいと思うぞ。勉強ができる方向には向いてないだけで」
なんだろうこのものすごく嬉しくない『頭はいい』は。
「それ貶してますよね? ってか、結局頭悪いって言ってますよね?」
「面倒くさい言うたくせに、さっき」
聞き流すにはあまりに虫の居所が悪い発言だったので結局突っかかると、向こうもいちいち細かいところを指摘してくる。
「だからって目の前で貶されて腹立たないわけが」
「はいはい。それ持ってっといてな」
お決まりの面倒くさそうな相槌で躱された。千種が苛立ってこの男になにか言うときは大体こんな調子である。こうなるともう何を言っても流されるし、それでも噛みつき続けるのは千種も面倒くさいのでやらない。
「わかりました。失礼します」
「おう」
千種は言い渡された用件の物を手にして化学準備室を後にした。
*
「おかえりー。またなんか頼まれたの」
「うん」
荷物を抱えて教室に戻ると、友人にそんな言葉を投げられた。
「なんか最近多くない?どうした?」
「どうしたもこうしたも、向こうが勝手にあたし指名してくるんだから知らないよ」
「そうなの?」
「うん。だって別に、分からないところ聞いたことあるわけでもないし。聞いたところで受け付けてくれない気はするけど」
「へー。なんか気に入られでもしたのかな」
「先生に聞いて。あたしは知らない」
心当たりはあるが、それはさすがに友人には言えないのでしらばっくれた。友人もあっさり引き下がった。
「そこまでするほどの興味はない」
「さいですか」
「それよりさ、さっきの問題わかった?熱化学式の」
「あー、あれ。たぶん」
「ほんと?教えてー」
「いいよー、代わりにこれ配るの手伝って」
「おっけ」
*
「千種ー、帰ろー」
「はーい。ちょい待ち」
その日の放課後、杏璃が千種のクラスにやってきた。たまには気晴らしをしようと、学校近くのアイスクリーム屋にアイスを食べに行こう、と数日前に話をしていたのだ。なお、意地でも杏璃についてきそうな人は「この寒いのにアイスは無理」と、今回は不参加である。
「なんかもう嫌になるね。学校でも家でもずっと勉強しろって空気で」
「んー、まあ仕方ないよ。受験生ってそういうもんだし」
「なぜそう千種はいつもあっさりしてられるの……」
「だって受験生って事実は変わらないし、明日になったら劇的に頭が良くなるわけじゃないし、人生諦めも大事かなって」
「達観しすぎ……」
「達観してるわけではないんだけどなぁ」
そんな会話を交わしながら自転車置き場に向かっていると、向こうから見知った顔がやってきた。先に反応したのは杏璃だった。
「あ、安里先生こんにちはー」
「おー」
相変わらずやる気ないのなこの人は。生徒の挨拶くらい普通に返せばいいのに。
「久しぶりに見たな、その取り合わせ」
「え、久しぶりって?」
杏璃の目はどこでこの組み合わせを見ていたの?と言いたそうである。確かにクラスが一緒になったことはないので、無理もない。
「仁科、部室棟のすぐそばに化学準備室あるの知ってる?」
「今初めて化学準備室がこの学校にあることを知りました」
「あ、そう」
「てことは、わたしと千種が部活が一緒だったって知ってるんですね」
「おう」
「納得しました」
杏璃はころころ笑った。本人は可愛いと言われるのが未だに苦手だそうだから言わないけど、こういうところが可愛いんだよねこの子。
「ところで、なんで先生はこんなところにいるんです?」
この先生は部活の顧問をしていないので外を出歩く必然性はないことは知っている。千種がそう突っ込むと、先生はいつかと同じ答えを返した。
「ただの散歩」
「散歩でこのクソ寒いのに外に出る必要ありますか」
「必要性は俺が決める」
「ああ言えばこう言う……」
「こっちが君らより何年長生きしてると思ってんだ」
「ただ歳上だからって威張る人は部下に嫌われますよ」
「お前こそ減らず口じゃねえか」
「生徒をお前呼ばわりしないでください」
「失礼しました川島さん」
ところで、と先生が話題を変えた。
「この取り合わせってことはどっか行くんか」
その問いには杏璃が答えた。
「これからアイス食べに行くんです」
「この寒いのによーやるなぁ」
「人間は美味しいもののためなら寒さだって我慢できる生き物なんですよ」
杏璃が得意げに言うと、先生は呆れたようなため息を吐いて言った。
「初めて聞いたわそんなの。まあ適度に楽しんでおいで」
「……そんなことしてないで勉強しろって言われるかと思ったのに」
予想もしていなかった、とばかりに杏璃は驚いた顔をした。まあ普通の先生ならこの時期にはあまり言わないことかもしれない。でもこの人が普通、の枠に全くもって嵌まらないことを千種はよく知っているので、杏璃のように驚きはしなかった。
「俺はそんな堅いこと言わない主義だから。自分だって受験生時代そこそこ羽目外して遊んでたし、それで浪人したのに浪人生の頃も遊んでたし」
「浪人したんですか」
意外、という声色で杏璃が言う。
「浪人生なんて大学入ってみたらそこらにゴロゴロいんぞ。珍しい目で見ると浪人生が傷つくから今のうちに直しとけ、自分がならんとも限らんのだし」
「あ、はい」
さりげなく偏見が入っていることを指摘されて、杏璃の表情はかなり真面目なものになった。高校まではみんな同い年で入学が当たり前だから、言われてもあまり実感はわかないけれども、それでも誰かに聞いて知っているといないとでは考え方が変わる。
「まあこの学校は生徒の留年とか滅多にないしピンと来ないのもわかるけどな。大学にも現役で入れようとちょっと頑張れば行けそうな偏差値の大学ゴリ押しするし」
「ゴリ押しって、先生がそれ言っちゃっていいんですか」
「俺は三年所属じゃないから」
「そういう問題ではなく」
学校の実績のために現役で入れる最善のところへ、という空気はなんとなく感じてはいたが、こうもはっきり口にされるとなんというか、士気に関わると言うか。
「それより、アイス食べに行くんだろ。こんなとこで油売ってないでさっさと行ったらどうだ」
「はーい、先生さようならー」
先生と別れて、杏璃が意外だ、という顔をしてこう言った。
「安里先生って、意外と普通に喋るんだね、生徒と」
「まあ、うん。授業だけだとわかんなかったけど、意外と」
「千種、先生と仲いいの?けっこう楽しそうに話してたけど」
「どうかなあ。最近よく雑用頼まれるようになって、それで話す機会は増えたけど、仲がいいわけではないと思う」
でも楽しそうに話していた自覚はさほどなかったので、周りからはそう見えるのか、気を付けなければ、と思った。目立ったことはしたくない。
「ふーん」
杏璃はそれだけ言って、それよりさ、と食べに行くアイスの話をし始めた。
*
「あんなに楽しそうに誰かと話す千種、初めて見たの」
『へえ、川島さんが?』
意外、といった声色で電話の向こうの人は言った。
「樹はこういう時どうしてる?」
『俺は、……そうだなぁ。向こうから何か言われない限りは黙って成り行きを見守るかな』
「相談されるまで待て、と」
『そういうこと。外野がどうこう言っても事がすんなり進むことはほぼないからね。まだ確証もないんでしょ?』
「……うん、確証はない。まだ直感の域を出てない感じ」
『それなら尚更、今はそのまま見守る方がいいんじゃない?どっちに転ぶか分かんないんだしさ』
「そっか、ありがと」
*
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