色を描く #1
*
高校三年生、秋。
受験生、という肩書がついて、学校生活が大きく変化してからもう半年以上が過ぎた。放課後、何も考えずにグラウンドを駆け抜けていられた時間はとっくの昔に終わりを告げて、今は課外授業と言う名のもと、毎日のように教室の椅子に縛られている。
……退屈だ。
川島千種は、そんなことを思いながら黒板を眺めていた。
「安里先生、もう時間です」
クラス委員の男子が言った。課外授業なので、授業の最初と最後にチャイムが鳴らない。そのため、予定終了時間を過ぎている時には、誰かがこうして指摘する。
「あー、了解。じゃあ今日はここまで。なんか聞きたいことあったら適当にしといて」
そんな雑な言葉を残して安里先生と呼ばれた男性は教壇を降りて、教室を出ていく。この先生は質問があれば受け付ける、とは絶対に言わない。むしろ、聞きに来るなと言っているようなことしか言わない。すると、教室には苦笑ともつかない騒めきで溢れた。
「安里先生って、ほんといつもやる気なさそうに課外やるよね」
「わかる。まぁうちらもやる気あるかって言われたらないけど」
近くの席の女の子たちがそんな風に話しているのが聞こえた。自分も課外を退屈だと思っている側なので、それには内心で頷いた。まあそんなことは置いておいて、課外が終われば後は自由だ。さすがに遊び呆けるわけにはいかないけれど、授業より各々で放置された方が勉強しやすいと感じている自分にとっては、課外が終わってくれると少し解放された気分になる。
荷物をまとめて適当に別れの挨拶を投げて、千種はあるクラスへと向かった。3年にもなれば、どのクラスにもある程度顔見知りができるので、他クラスの教室に入ることにも抵抗がなくなる。自分のクラスと同じように遠慮なく教室に入り、そこにいる友人の名前を呼んだ。
「杏璃」
友人はその声で机に向けていた顔を上げた。
「あ、千種おつかれ」
と、そこへ割って入る声があった。
「お疲れ様ー、川島さん」
千種は相変わらずこいつは、と思いつつも割って入った声の主に返事をした。
「あんたにお疲れ言われる筋合いはない、神城樹」
わざわざフルネームで相手の名前を言ったのは、今この瞬間、千種が神城に苛立ちを覚えたためだ。その心情を知ってか知らずか、彼は苦笑を浮かべて言った。
「ひどいな、同じクラスなのに」
「同じだから言ってんでしょうが。あんただってさっき同じ課外受けてたくせに」
そう言ってやると、まあそうだけど、と不満そうに口を尖らせた。高校3年生の男子生徒がやるような表情には思えないが、彼の場合は似合っているから余計に腹立たしい。
「お前にだけは言われたくない。あたしから杏璃奪っておいてさらに上から目線でそんなこと言われるとか耐えられない」
「奪ってもないし成績は川島さんの方が上だし上からなんてつもりは」
「余裕綽々ってその態度がムカつくって言ってんの」
「はいはい、そこまで。樹も千種も会うたびに殺伐とするのやめて」
杏璃にそう窘められて、口論を止める。そこまでがこの3人の様式美なのだ。
「ごめんねー、毎回剣呑なこと言って」
「いいよ、私だって千種の立場だったら樹のこと目の敵にするし、本人に言ってスッキリしたい気持ちもわかるし。こんなのに気遣って千種がしんどい思いする方がやだ」
「ねえ仮にも彼氏目の前にしてそんなこと言う? 俺凹むよ?」
「言うわ、千種と樹だったら千種の方がずっと大事」
杏璃はそう言うと千種に抱き着く。千種も優越感に浸りながら抱きしめ返してやった。
「ざまあみろ」
勝ち誇った顔で言ってやれば、負け惜しみのように
「……こ、これから頑張るし」
と神城が呟き、その声音があんまりにも情けなくて3人で笑った。
*
この日千種が杏璃のもとを訪れたのは、ただ遊びに来たわけではなく、久しぶりに部活に顔を出そうと前から決めていたからだ(まあ、神城の邪魔は目的のひとつだったが)。神城も杏璃を待つついでだし、とバスケ部のいる体育館へ行ったようだ。
「今日の課外なんだった?」
杏璃の所属するクラスは文系なので、課外授業の頻度や内容は結構違う。
「化学」
「……えーと、先生誰だっけ」
「安里先生。いっつもやる気なさそうな感じの」
「あ、わかった多分。前生物の課外に来たことある」
そんなことを話しながらグラウンドに出ると、マネージャーをしている後輩の女の子がこちらに気づいてくれた。
「あ、仁科先輩、川島先輩! こんにちは!」
「こんにちは、久しぶり。邪魔しに来ました」
千種がそう返すと、後輩は全力で首を横に振った。
「いえいえそんな邪魔なんて! いつもアドバイス下さるじゃないですか、あれすごく助かってます!」
「あれアドバイスというより好きに言ってるだけだから真に受けない方がいいよ。あたしも杏璃も自己流だったから」
「それでも先輩からコメントをいただけるってやっぱり士気があがるので! 遠慮なく言っていただきたいです!」
と、そこへ陸上部の顧問がやってきた。
「お、川島に仁科じゃないか。勉強は順調なのか?」
「微妙なので息抜きに来ました」
「そうか、まあ適当に見てってやってくれ」
それだけ言うと顧問は短距離の練習をしている方角へと歩いていった。
「……これ、私らに長距離見ろっていうこと?」
「ですかね……?」
杏璃がそう呟くと、後輩ちゃんが苦笑いでそんなフォローを入れてくれた。いい子だ。
千種も杏璃も長距離出身なので、何か有益なことが言えるとしたら長距離の子達に向けてだけになるが、2人とも感覚と自分なりのやり方に重きを置いてやってきて、また部長などの役職を担ったわけでもないので、人の練習を見て何を目的としているのか、今はその目的へ向かうのに何が足りなくて何が間違いかを指摘する能力というのはほとんどない。どれくらいないかといえば、先生ってすごいんだなぁ、と引退後外から部活を眺めて初めて気がついた程度だ。
「まあ、今日は羽根伸ばすって決めたことだし付き合うかー」
杏璃はそう言ってグラウンドに視線をやった。
「そうだね」
千種もその視線の後を追った。1年前はあの中にいたのに、随分遠くまで来たような、そんな気持ちだった。
*
部活終了までいるわけにはいかないのである程度後輩たちの練習を見届け、帰ろうとした時、千種は自分の忘れ物に気がついた。
「あ、ポーチ忘れた」
「ポーチ?」
「うん、音楽ポーチ」
千種は音楽プレーヤーやイヤホンをポーチに入れて持ち歩いている。校内で携帯の電源を入れることを禁ずる校則のあるこの高校では、スマホを音楽プレーヤーとして使用していると校内で聴けないというのと、単純にスマホの音質では満足できないということで、多少だがお金をかけて揃えた環境でもあった。だから「明日でいいや」という選択肢はもちろんなく。
「取り行ってくるから今日はここで。またね」
「うん、また明日」
駐輪場へ向かう杏璃を見送り、千種は自分の教室へ引き返した。
「そういえばさー」
ドアを開けようと手を掛けると、クラスメイトである女子の声が聞こえ、手が止まった。多少話したことこそあれど、合わないな、と思ったので大して仲良くはしていないが。
「三組の篠井くんフラれたらしいねー」
篠井。その名前の人間とは一度だけ話したことがある。そこで残念なことに話の流れも見えてしまった。
「川島さんだっけ?」
「そう」
ほんとこういう話はすぐ回るよな、と千種は内心呆れかえった。そんな話する暇あるなら、英単語の一つでも覚えればいいのに。まあでも、フったフラれた程度の話なら、そういう話に敏感そうな彼女たちには日常茶飯事のように入っているはずだ。どうせすぐ興味をなくすし、自分が話題から消えてから入れば気まずくないかな、と思ってタイミングを窺っていたら、話が予想しない方向にまわりはじめた。
「でも篠井くんフるとか何様だよって感じしない?」
「たしかに」
……は?
千種は耳を疑った。何様ってなんだ。なんなら今のお前らの方が何様だよって話だ。他人に自分の人間関係の構築について口を出される謂れはない。
「あんなイケメンに告白されておきながらごめんなさいとか、うちなら絶対言えないわ」
確かに篠井はイケメンの部類に入っている、とは思う。だが、それと告白を受けるかは別次元の話ではなかろうか。
「鏡見てみろって感じじゃない? せっかくあんなに顔のいい人から言われて断るとかよっぽど美人以外むしろやっちゃダメだって」
ああそうだ、学校というコミュニティでは顔面偏差値が高いほどヒエラルキーが上だ。特に女子はそれが顕著で、彼女たちの理論は、「ヒエラルキー上位の人間からの好意を素直に受け取らないと、学校生活が息苦しくなる」という経験則に基づいている。しかし千種はまったくそういう考えを持っていないし、たとえヒエラルキー上位に歯向かっても自分の立場が崩れないように振る舞ってきた。合わない、と思った勘は正しかったわけだ。
「それか、あれ? 好きになった人としか付き合わないとか、そういうアレ?」
「あー、あり得そう。まだ誰とも付き合ったことないんなら、夢見てそう」
「結婚できない典型じゃん」
「ちょっと、いくら本人がいないからって言いすぎ!」
いますけど。ここに本人いますけど。思いっきり聞こえてますけど。学校内、それも相手の所属するクラスの教室で堂々とこんな話をするなんて、本人に聞かれる可能性は考えないのか。脳内お花畑か。
しかしここで教室に入ると多分お互い幸せにはなれないことは分かるので、手持無沙汰にドアの前に突っ立っていると、背後から声がした。
「何してんの、自分の教室の前で」
「……安里先生」
これはまた意外な人物の登場だな、と千種は思った。
「安里先生こそ、なんでここにいるんですか」
「ただの散歩」
「先生が校内を散歩するとか聞いたことないですよ」
「今まで聞かなかっただけだろ。普通に散歩くらいするわ、人間だから。それより」
どうして教室に入らないのか。もう一度問われる。
「忘れ物取りに来たら陰口を言われているところに遭遇して、どうにもできず突っ立ってただけです」
そんな会話をしているうちに、教室から聞こえる声は全く別の話題で盛り上がっていた。
あとから思えば、どうしてこのとき、こんなことを口にしたのか分からないけれど。
「……安里先生」
「なんだ」
「付き合うって、なんなんですか」
「……は?」
*
唐突な問いにただならぬ事態だと思ったのか、安里先生は千種を連れて化学準備室へと移動した。たまに掃除当番で入ることがあったその部屋は、薬品庫にインスタント食品が混入していたり、なぜか生活家電が置いてあったり、極めつけは人ひとり寝転がれるソファがあったりと、誰かが暮らしていると言われても驚かない空間である。
「何飲みたい?コーヒーかお茶くらいしか出せんけど」
「……お茶で」
先生はやたら勝手知ったる様子で湯を沸かし始めた。もしかしてこの人が暮らしているのか。と思ったところで、先生がこう言った。
「入り浸ってるだけで、家には毎日帰ってるからな」
「声に」
「出てはないけど失礼なこと考えてんな、とは読める顔してた」
「……すみません」
あまり考えが表情に出るタイプではないはずなのに、なぜ先生は分かったのだろう。
しかし先生はお構いなしに、そして直球で本題に入った。
「で、どうした。突然あんな血迷い事を教師に向かって言うなんて」
血迷い事。確かにそうだ。受験生だという肩書きを抜きにしても、普通は大して話したこともない先生にそんなことは聞かない。
「私、このまえある人の告白をお断りしたんです」
「へえ」
どうでもいい、という空気を全面に押し出した相槌だった。
「そのことがなんか気に食わない人がいるらしくて、『断るなんて何様だ』って言われているのを聞いてしまって。でも、あたしは興味もない人からの告白を受け取れるほど器の広い人間ではないし。断るな、ってことは、裏を返せばとりあえず付き合ってみろ、ってことになるじゃないですか」
「まあそうだな」
「そう考えたら、付き合うって何なんだろうって」
「川島、誰かと付き合ったことないんだな」
「悪いですか」
「いや、意外だな、と思っただけ」
……今『意外』って言ったこの人?ていうか、なんで授業で会うだけの先生にそんな部分で意外って言われるんだ?
戸惑う千種をよそに、先生は「ほれ」と紙コップに入った緑茶を渡してきた。よくある使い切りティーバッグで淹れたような味だった。
「で、付き合うって何なんでしょう」
改めて訊いてみたら、さあな、とあっさり躱された。
「何なんでしょうと言われても、体験してみろ、としか言えねえなあ。その感じじゃ、まだまともに人を好きになったこともないだろうし」
「……それも図星ですけど、なんかその言われ方は腹が立ちます」
まるで、誰かを好きになったことのない自分が、遅れていると言われているようで。
「そう卑屈になるな、こういうのは人と比べるもんじゃない」
「卑屈にさせたのは今の先生の一言ですけどね!」
カチンときて声を荒らげると、先生は楽しそうに笑って言った。それが余計に腹立たしい。
「こっちはそんな意味微塵も含ませなかったのに、勝手に卑屈に取ったのはお前だろ。意外とめんどくさい性格してるのな」
「授業でしか顔合わせないような先生に性格が意外とか言われる筋合いないんですけど! あたしの何を知ってるんですか!」
「確かに何も知らんが、見てきたからなあ。川島、ここの窓覗いてみ」
ブラインドが降ろされている窓へ手招きされる。言われた通り窓を覗くと、そこには。
「……渡り廊下、ここからこんなに近かったんだ」
校舎と部室棟を繋ぐ廊下が目の前にあった。今年の春まで、毎日のように通っていた場所だ。見てきた、というのはここから見えていた、ということなのだろう。
「……え、覗いてたんですか?」
だとしたらちょっと、いやだいぶ気持ち悪い。と、千種のそんな心情も見透かされていたらしく、先生は呆れたように盛大なため息をついた。
「んなわけあるか。そこ通るやつらの会話が嫌でも聞こえてくるんだよ、この部屋にいると。で、特に騒がしかったのが仁科」
「あ」
それには心当たりがものすごくあった。たしかに杏璃は賑やかなキャラだし、ここを通るときは部活モードであることがほとんどだから、割とテンションが高い。それならば、騒がしいと思われても納得するほかない。
「そしたらその騒がしいのとよく一緒にいる奴らのことも、勝手に情報が入ってくる」
「それで、あたしのこと」
「そう。まさかこんな面倒くさいやつだとは思わなかった」
「面倒くさい人間で悪かったですね!」
あんまり蒸し返されるので逆ギレすると、先生はやっぱり楽しそうにこう言った。
「悪いとは言ってない。むしろ普段の猫かぶりよりそっちの方が面白くていいと思うが」
次は猫かぶりときた。さっきから予想外の言葉のオンパレードである。安里先生ってこんな人だったっけ? ていうか生徒とこんな下らない話をするような人だったんだ?
「猫なんかかぶってないです、今が異常なだけです。……ご回答ありがとうございました、何も解決しませんでしたが!」
一方的に言い置いて、千種は化学準備室を後にした。
「かぶってるように見えるけどな、猫」
と呟かれた言葉は、聞かなかったことにして。
*
「……青いなあ」
乱暴に閉められたドアを見つめながら、なんともなしにそう口に乗せた。
『付き合うって、何ですか』
自分も、そんなことを考えていたころがあったな、と思いながら。
*
それから再び教室に戻ると、あの彼女たちはもういなくて、無事に目的の忘れ物も回収出来た。が、それにしても。
「……あんな人だとは思わなかった」
教壇に立つ姿とあまりにも違いすぎて、いまだに処理が追いついていない。本当に同じ人なのだろうか。しかも。
「面倒くさいとか猫かぶってるとか、あの人に言われる筋合いなんかない……」
たとえ渡り廊下での自分を見られていたにしろ、それだけで自分の性格を見抜かれるはずがない。一番気を許している杏璃でも正確なところは把握できていないだろう。
「いいや、どうせ今日だけだろうし」
今日がイレギュラーだっただけで、明日からはまたほぼ接点のない生活に戻るはずだ。そう割り切って、千種はいつも放課後に勉強をする図書館へ向かった。
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