聖夜と告白

 *

 12月23日。クリスマスの直前の祝日だからということもあるのだろう、華やかな街の中を、たくさんの人たちが幸せそうに通り抜けていく。そんな明るい雰囲気にはとてもそぐわない、重苦しい空気を纏う場所に柊はいた。やたらと存在感を放つ扉をくぐれば、すれ違う人皆から「お帰りなさいませ」と形ばかりの声をかけられる。

 …まあ、これも彼らの仕事なのだから仕方がないが、正直言うと、すごく疲れる。

 長い廊下を歩き、柊はある部屋の前で立ち止まった。ひとつ深呼吸をして扉を開く。部屋の中にいた人物は、すぐにこちらに気づいて顔を上げた。

「お帰り、柊」

「…ただいま、父さん」

 —本邸に、帰ってきたのだ。

 *

 栗田家現当主でもある柊の父は、一族が経営する会社を取り仕切るのに、1年じゅうどこかしこかを走り回っている多忙な人だ。しかし、この時期になると社員総出で休めと説得し無理やり休暇を取らされるので、クリスマスの3日前くらいから年末年始は家にいる。その時に合わせて、普段は第2邸で暮らす柊も含めて本邸に集まり、家族で過ごすという慣習がいつからか出来上がっていた。

「あー、早く帰りたい…」

 父への挨拶を適当に切り上げて部屋に引き籠った柊は、誰もいない部屋に向かって呟いた。いつもここへ来るときは、送迎だけはしてもらうが、基本的に1人で来るようにしている。というのも、こちらでの世話は柊が頼まなくても本邸で世話人を立ててくれるし、そういう人がいなくても一通りの生活はできるように家事を身につけているので、1人で来ようが特に問題はないからだ。それに、1人で来ればちょうど第2邸に勤めている人たちにまとまった休暇を出すことができるので、そういう面でも柊は1人で訪れるようにしていた。

「葵さん、何してるかな…」

 誰もいないのをいいことに、彼女の名前を口にする。口にした瞬間、少しばかり後悔した。

「…もう会いたい、とかガキか俺は…」

 見送られたのは今日の朝。まだ1日と経っていないし、本邸滞在はまだ日にちがある。こんなんで大丈夫なのか。大丈夫じゃないな。湧き上がった会いたい気持ちを誤魔化すためにも、夕食まで昼寝をしようと決めて柊は綺麗に整えられたベッドに潜り込んだ。

 *

「柊、久しぶりね。元気にしてた?」

「まあそれなりには。継母さんも、元気そうでよかった」

 夕食の時間になり、ダイニングへ向かう途中でちょうど継母と出くわした。普段は離れて暮らしているけれど、特別仲が悪いというわけではない。ただ“一緒に暮らす”ことができないだけなのだ。だから、こういう短期滞在は特に何も感じないし、会話だって至って普通の雑談である。

「春香は?元気?」

「ええ、とても。…あら、噂をすれば」

 継母と話していると、後方から何やら足音がした。音は幾許も経たずにこちらに着いて、音と同時に背中にどすんと衝撃が走る。

「お兄ちゃん!」

「おー、春香、大きくなったなー」

 背中に飛びついてきたのは、妹の春香だ。父と継母の子なので、片親しか血は繋がっていないが、たまにしか帰らない兄をこうして歓迎してくれる。年齢は柊とひと回りも離れているのだが、その差が却って良かったのかもしれない。

「へへー。もうちょっとでクラスのせのじゅん、1番後ろになるんだー」

「え、マジで?すげ」

「お兄ちゃんくらい大きくなりたい!」

「やめとけやめとけ、こんなに大きくなってもいいことないから」

「なんでー」

「いつかわかるよ。ほら、ご飯行こう」

「はーい」

 そんな会話を交わしながら、3人でダイニングへ向かう。兄妹の後ろで継母が何やら複雑そうな表情でそれを見守っていた事には、柊は気がつかなかった。

 *

「柊、ちょっといいか」

 夕食が終わり、ダイニングを後にしようとしていたところを、父に呼び止められた。

「なに、どうしたの父さん」

「ちょっと話があるんだ、部屋まで来てくれ」

「いいけど」

 了承はしたが、一体何なのだと柊は思った。ただの世間話なら夕食中にもしているのだし、父の部屋まで移動するということは改まった話か、余程他の人に聞かれたくない話かなのだろうが、思い当たる節が何一つとしてない。

「で、話って何?」

 父の部屋に着くなり、柊は本題を切り出した。何だか悪い予感しかしなかったから、さっさと聞き出してしまいたかった。…そして、悪い予感というのはよく当たるのが定石というもので。

「お前に、お見合いの話が来ているんだ」

 一瞬、思考回路がフリーズした。

 *

 父によると、とある取引先の方と接待を兼ねて食事に行った際に、それぞれの子供の話になったらしい。その時、取引先の方の子供が妙齢の女性であること、こちらもまだ学生とはいえ、家柄のある者ならお見合いをするにはおかしくない年齢だということで、お見合いの話が向こうから持ち上がったそうだ。そしてうっかり酒の勢いで了承してしまった、とのこと。

「勝手に息子売らないでくれる?」

「返す言葉もございません…」

 こんなにしょんぼりしている父親を見るのは、たぶんおそらくはじめてだ。

「…で、それに行けばいいってこと?」

 と言ってやると父がぱあっと目を輝かせて顔を上げる。

「行ってくれるか!よかった、断られたらどう詫びをしようかと…!」

「別に1回くらいならいいよ、どうせここにいたって暇だし」

 柊はそっけなく返事をした。正直なところを言えば、腐っても父親だから、変な意地を張って困らせるよりは素直に頼みを聞いてやりたいのだけれど、こっちにも事情はあるし聞き分け良くはい分かりました、とは言えない。

「じゃあお願いいたします、これ先方の釣書と日程の詳細ね、よろしく」

「はいはい」

 書類を受け取って、話これだけなら帰るよ、と言い置いて部屋を出ようとすると、父はさっきとは打って変わったけろっとした顔でこんなことをのたまった。

「そういえば柊、彼女いるんだって?」

「は!?何急に」

「そんだけ慌てるってことはいるのかー、そうか」

 しまった、と思ったがもう後の祭りである。

「いやあさっきな、あいつが“きっと柊にはもう付き合ってる人いるだろうから、お見合い受けてもらえないんじゃない?”とか言ってきてなあ。女の勘は怖いよなあー」

 あいつ、は継母のことだろうが、いつばれた。相手さえばれないなら彼女がいると知られたところで痛くも痒くも何ともないが、さっきの短い会話のなかのどこで。

「………」

「頼んだ側が言うのもなんだが誤解されないようになー」

「わかってるよ、余計なお世話」

「今度彼女連れてきてもええんやで?」

「絶っっっ対嫌だ、からかうつもりしかないでしょうあんた」

「つれないなー。まあいいや、話はこれだけだからどうぞお休みくださいまし」

 父親がひらひらと手を振るのを横目に、柊は呆れて部屋を後にした。

 *

 そして、二日後。12月25日。例のお見合い相手との面会の日である。相手の希望でなぜか今日に会うことになっていて、つまり柊の予定は最初から聞いていないに等しい。

「俺が帰省ばっくれてたらどうなってたんだこれ…」

 とぼやきつつ、柊は待ち合わせ場所であるとある高級ホテルのラウンジにいた。予定の時間は11時、今は10時半だ。今年のクリスマスは土曜日で、普段はビジネスマンで溢れているであろうラウンジにもカップルが目立つ。なんでよりによってこんな日に、彼女でもない知らない女性と待ち合わせなんてしなきゃならないんだと内心毒づいた。釣書を見たから顔と名前くらいは分かるが、それ以上を覚える気はなかった。

 そうして待つこと30分。予定の11時を回り、腕時計のアラームが鳴ると同時に「すみません」と声をかけられた。顔を上げると、そこにいたのは。

「お久しぶりです。…といっても2日ぶりですが」

「…なんで、ここにいるの、…葵さん」

 ここには来るはずのない、柊の彼女だった。

 *

「ちょっと父さん、どういうことなのこれ!?」

『あー、その様子じゃちゃんと待ち人に会えたのか』

 とりあえずラウンジを後にし、抗議をしようと電話をかけると、電話口ではっはっは、と豪快に笑われた。

「いや笑ってないで説明しろよ!」

『実はなあ、清さんから聞いてたんだよお前らのこと。あ、俺は賛成してるから余計な心配はしなくていいぞ』

 寝耳に水、だった。

「…まじで」

『まじまじ、まあ知ってるのは俺だけだが。母さんや春香には伝えてない』

「…」

『で、せっかくならドッキリを仕掛けようと思ってな』

 曰く、お見合いの話があったりしたのは本当だけど、きちんと断ったうえで今回のドッキリの材料にしたとのこと。

『嘘を吐くには事実を少し混ぜた方が信憑性が増すからな。覚えておくといい』

「嘘のつき方教える父親って親としてどうなの」

『駄目だろうな!まあ俺が駄目な父親なのはお前が一番分かってるだろ』

「まあね、よそで作った子供を家に連れて来ちゃうくらいだしね」

『もうちょいオブラートに包んでくれないかなこれでも反省してるんだから』

「知らん、事実は事実だ」

『手厳しい子に育ってしまって父さんは悲しいです…』

「どの口が言うか、おもっきし声震えてんじゃん笑ってんじゃん」

『ばれたか。まあいい、今日は目いっぱい楽しんできな。なんなら帰ってこなくてもいいし』

「堂々と言うことなのそれ?」

『清さんにも葵をよろしく頼むと言われたからな。うちに連れて来たくなったら俺からあいつらには話しておくしいつでもどうぞ?』

「…気が向いたらね」

 そこまで話して電話を切る。すぐ横で会話を聞いていた葵さんは、おかしそうに笑っていた。

「…もしかして、葵さんもうちの父に話が行ってる事、知ってた?」

「はい。一昨日祖父に聞かされました」

 第2邸では二人の仲は全員が知るところであるし、特に清さんと葵さんの間では何度も話し合いがあって今の関係があるから、話が行っている可能性は十分にあったのだが、その可能性を今まで考えたことがなかった。

「してやられた、ってことか…」

「愉快なお父さんですよね、旦那様にこんなことを言うのも失礼かもしれないですけど」

「あーいいよ、あんな人に気を遣わなくて」

「そうはいきませんよ、あくまでも私たちはあの方に雇われているのですから」

「それはそうだけど」

「それよりも!わたし柊さんを連れて行きたいところがあるんです」

「へっ?」

「行きましょう!」

 言うなり葵は柊の手を取り、走り出すように街に飛び出した。

 *

「どこへ行くの?」

 昼ごはんもそこそこに、二人が乗り込んだのは一本の電車。その車内で柊は葵に訊いてみた。あらかじめ買ってあったらしい切符に書かれた料金とこの電車の行先から、なんとなく葵が行きたいところの予想はついているけれど、その場所にはわざわざクリスマスに見に行くようなものはなかったはずだ。しかし、彼女は悪戯を仕掛ける子供のような、きらきらした笑顔で口に人差し指を当ててこう言う。

「まだ秘密です」

「そう言われたら人間は余計気になるって知ってるでしょうに」

「こういうのは驚きが重要ですからね、ネタバレは楽しくありませんよ?」

「分かってはいるけどさ、港に何があるっていうの」

 そう、今乗っているのは埠頭行の電車なのだ。運賃も終点の埠頭まで。

「それは着いてからのお楽しみです」

 結局、どう訊いても葵はそれ以上教えてくれなかった。

 *

 埠頭に着いたのは午後二時を少し回った頃。

 ここには数えるほどしか来たことはないが、様子は至って普通で、特に何があるとも思えない。強いて言えばちょっと歩くと水族館と、そこからさらにちょっと行くと軍港があるけれど、それだけだ。

「ふむ、まだ少し時間がありますね」

 と葵が言った。

「時間?」

「はい。わたしが見せたいものは、もう少ししないと見られないんです。そこの水族館にでも行きませんか?」

「いいけど、随分楽しそうだね」

「だって初めて2人でこんなに遠出しましたもん、浮かれますよ」

 そこまでで葵は一度言葉を区切り、表情を曇らせた。

「…もしかして、お嫌でしたか?」

「いや、そうじゃなくて!はしゃいでるのが珍しいなってだけで!…俺も、嬉しいよ、こうやって遠出できて」

 慌てて弁明すると、葵は「それならよかったです」と安心したように笑う。

「…それじゃ、いこっか、水族館」

「はい」

 *

 水族館を出たのは5時を回った頃で、すっかりあたりは暗くなっていた。

「よし、もう見られるはずなので行きましょうか」

「おお、やっとだね」

「暗くならないと見られないんですよ」

 言いながら葵に案内されつつ進む。どうやら軍港の見える方へと向かっている。そうしてしばらく歩いていると、港が見えてきた。

「あ」

 思わず、声が出てしまった。

「…綺麗でしょう?」

「…うん」

 そこにあったのは、何隻かの大きな船だった。しかし、ただ停泊しているのではなく、電飾で飾られていたのだ。どうやら米軍の護衛艦らしい。

「電灯艦飾、って言って、軍が祝祭日や軍にまつわる記念日にこうして艦艇を飾ってお祝いするものなんです。ちなみに昼は満艦飾と呼んで、旗が飾ってあるのが見られます。2日前なら天皇誕生日なので海自の方もやってたんですけど」

「…詳しいね?」

「実は祖父がこういうのが好きで、一緒に連れまわされてるうちに覚えちゃいました」

「清さんが…」

「あ、ひいてます?ドン引きです?」

「いや、ただ驚いてるだけ…」

「迂闊に祖父にこの手の話題振るとアレなので気をつけてくださいね」

「はあ…」

「まあそれはともかくとして、今日見せたかったのはこれです。普段あんなに冷たく無機質に佇む軍艦がこんなにも綺麗になるってことを、見て欲しくて。…私にとって、柊さんは私の世界に色を付けてくれたひとだから」

 一呼吸おいて、葵は続ける。

「私は幼い時から祖父と二人暮らしで、とにかくしっかりしなきゃとそれだけしか考えてこなかったから、正直、色恋に現を抜かす人が理解できなかった。なんでそんな不安定な関係の上に立ちたがるのだろうって。そんな感情に振り回されているのだろうって。…でも今は、そんな事思えない。だって、こんなに温かいものなんだって、知ってしまったから」

 きゅ、と握られた手に力が入る。

「それを知ったおかげで、私はいま、こんなにも幸せで、楽しい。それを伝えたくて、今日ここに連れて来ました」

「…それなら、俺もそうだよ」

「え?」

「俺にとっても、葵さんは光みたいな存在だなってこと。広くて暗い檻のようにしか思えなかったあの家が、いつの間にか、帰るのが楽しみな場所になってた。雨の日に、あまり寂しいと思わなくなった。…葵さんがいるから、ただそれだけで」

 我ながら単純だとは思うが、事実なので仕方がない。

「こんな俺と出会ってくれて、好きになってくれて、ありがとう」

「…それを言うなら、私もです」

「じゃあ、お互い様だ」

 そう言って軽く笑ってみせると、彼女もつられてくすくす笑う。ああ、愛しい、と柊は思った。

「…このまま一緒にそっち帰りたい」

「ダメですよ、ちゃんとご家族とも過ごさないと。待ってますから」

 ね?と優しく宥められる。今の自分は駄々をこねる子供のそのもので、大学の友人なんかに見られた日にはドン引きされる自信がある。それでも今は、こんな風に駄々をこねたい、要は甘えたい気分だった。

「あと1週間とかやだ無理帰る」

「…もう、仕方ない人ですね」

 ちゅ、という音とともに唇に柔らかいものが触れる。

「あと1週間、ちゃんと我慢して帰ってきたら、続きしましょう?…私だって、寂しいんですよ」

 困ったような、愛しいような、そんな顔で葵は微笑む。

「…はーい」

「がんばってください」

「その前に、充電させて」

 顔を近づけると、葵は「仕方ないなあ」と言いたげな顔で、それでも嬉しそうに目を閉じる。それを確認してから、柊は甘い彼女を心ゆくまで味わった。

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