第249話 収束?

「それで結局どうすんのよ?! いつ離婚するの! 」

「別れねぇし!! 」

「別れないわよ……今のところは」


 佳乃のヒステリックな叫びに、同じ意味でも微妙ニュアンスの異なる返事をした慧と麻衣子は、お互いの顔を見合わせた。


「これから先、慧君がやらかすようなら離婚すると思うけど、今のところはしません。まぁ、私も気持ちが揺れたことが全くないかって聞かれるとなくはないし。それも浮気といえば浮気だと思うから。もしこれから慧君以外の人に惹かれたとして、その人のことが慧君よりも好きだなってなったとしたら、ちゃんと言うし。好きな人ができたから離婚してくださいってね」

「いや、ぜってーしねぇし」


 不機嫌極まりない様子を隠さずに、慧は行儀悪く音をたててアイスコーヒーを啜った。


「私はいつまでも待ってるから! あんたなんかには絶対に負けないわ」


 佳乃は麻衣子をキッと睨むと、勢いよく立ち上がり、ズンズンと店を出ていってしまった。


「……いや、全部負けてんだろ。アッ! 」

「どうしたの? 」


 ボソリとつぶやいたかと思うと、慧はいきなり大声を出した。


「あいつ、金払わないで行きやがった」

「まぁ、しょうがないよね。慧君払ってね」

「なんで俺が……」


 麻衣子が払うのも違うと思ったのか、慧は渋々伝票を持って立ち上がった。


「帰るぞ」

「うん」


 慧がお会計を済ませて表に出ると、珍しく慧から手をつないできた。

 いつも自分のペースで歩く慧が、手をつないでいるせいか麻衣子の速度で歩いてくれる。


「……あいつのことはどうすんだよ」

「あいつ? 」


 駅につき、急行待ちしている時に今まで黙っていた慧がいきなり口を開いた。改札を通る時に離された手は、今はまたしっかりつかまれている。今までこういう雰囲気がほぼなかったから、嬉しいというより戸惑ってしまう。これはどちらかというと家出防止の連行に近いのでは? と、苦笑気味の麻衣子だ。


「会社の」

「松永君? 別にどうもしないけど」


 好きと言われた訳じゃない。会社の同僚として気になる、お姉さんみたいで気になる、……異性として気になる。色んな「気になる」があるだろうが、松永の気持ちがどこにあるかはわからない。でも異性として意識されている気がする。烏滸がましいかもしれないけれど。


「でも、心配はしてくれただろうから、報告はするかな」

「なんて? 」

「佳乃さんのことは解決したって」


 三分遅れでやってきた急行に乗り、ドアに側に二人で立った。電車の中で逃げ場もないというのに、慧は麻衣子の手を握ったまま、不満そうに鼻を鳴らす。


って何だよ」

「あー、他には離婚は保留とか? 」

「保留の意味がわかんねぇよ」

「だってさ、佳乃さんのあの様子だと絶対に諦めてないよね。慧君がついフラフラって手を出しちゃうかもしれないし、彼女以外の人が出てくるかもしれないじゃない? 今回のことではっきりわかったんだよね。私ってけっこう執念深いって言うか、昔のこと根に持っちゃうタイプなんだよね。いつも思ってる訳じゃないけどさ、今回みたいに疑わしい時、どうしても思い出しちゃうの。するとさ、嫌な気持ちが何倍にもなっちゃう。だから、きっと次は我慢できなくなるよ」

「おまえ、それ狡くね? 」

「狡い? どこが? 」


 慧は大きなため息を吐く。


「あいつ、おまえに気があんだろ。離婚保留とか、待ってれば離婚するかもって期待させるつもりかよ。それともおまえがあいつをキープしときたい訳? 」


 次に浮気をしたら離婚だよと匂わせたつもりが、慧は違うように受け取ったらしい。


「違うよ! そんなこと考えてない。でも……そうだね、そこはちゃんと話をする」


 慧が強く麻衣子の手を握り、麻衣子もわずかに握り返した。

 そのまま最寄り駅につき、バスではなく歩いてマンションへ戻る。マンションの前の公園にふと目をやると、マンションの入口が見えるベンチに松永が座っていた。ランニング姿で、たまたまそこにいたのか、麻衣子を待っていたのかわからない。


「松永……君」


 松永は麻衣子に気がつくと、立ち上がってこちらへやってきた。視線は真っ直ぐに麻衣子と慧を見ている。


「松田さんにちょっと話があるんですが」

「どっちの松田さん」


 単調な口調で言う慧の表情を伺うが、特に苛立ちや不満は感じられなかった。


「松田麻衣子さんっす」

「そ。じゃあ、先に部屋に帰ってるから」


 慧の手がスルリとほどかれ、慧は麻衣子を置いてマンションへ入ってしまった。慧が何を思って麻衣子の手を離したのか、麻衣子は慧の後ろ姿をジッと見つめた。


「話、いいっすか」

「うん」


 麻衣子は、一定の距離を保って松永の後をついて公園に入った。ベンチに座ると、松永は隣にある自販機でミルクティーを買ってくれた。自分にはアイスコーヒーを買い、プルタブを開けると一気に飲み干した。


「元サヤですか」

「……うん。やっぱりね、旦那さんのことが好きだから」


 慧に狡いと言われたからではなく、素直な気持ちを口にする。松永に惹かれる気持ちがない訳じゃないが、その気持ちはまだ恋愛には届いていない。恋愛にするつもりもない。


 松永は麻衣子をジッと見つめていたが、一歩下がってニカッと笑った。


「松田さんがそれで良いなら良かったっす。じゃ、俺ランニングの途中なんで、また会社で」

「うん、会社で」


 あっさりとした会話のみで松永は走って行ってしまった。

 麻衣子はハアッと詰めていた息を吐き、思った以上に自分が緊張していたのを知る。年下の筈の松永だが、アレコレ問い正すことなくすっぱり気持ちを切り替えたその背中に、大人の男性を感じた。本当に心底良い男だった。


 松永の姿が見えなくなってから、麻衣子はマンションへ足を向ける。エレベーターに乗り八階で下りると、家の玄関の扉に寄りかかるようにして立っている慧が目に入った。


 心配……だったのかな?


 目をつぶり腕を組んで立っていた慧が、エレベーターの到着に気づいてエレベーターに目を向けた。目があった麻衣子が小走りで慧に駆け寄ると、目の前まで来た麻衣子の腕を掴み、慧は麻衣子を引き寄せた。


「……お帰り」

「ただいま」


 無言で部屋に入り、靴を揃える暇もなく寝室に連行された麻衣子は、その日は夕飯をとることもなく寝室から出ることもできなかった。







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