第248話 三人で対話

「慧兄ちゃん」


 さっきまできつい表情で麻衣子を睨みつけていた佳乃が、いかにも甘ったれた笑顔を浮かべて身を乗り出した。前屈みになった佳乃の胸元は、かなりの角度で谷間が丸見えで、淡いピンクのレースのブラがチラ見えしている。明らかに慧に見せる気満々の佳乃に、麻衣子はチラリと慧を見た。

 慧は不機嫌そうな表情を崩さず、特に佳乃の胸元に視線を向けることもなく、注文をとりに来た店員にアイスコーヒーを頼んだ。店員の方が佳乃の胸が気になるらしく、チラチラと見てはまだ少ししか減っていない水を汲み足してから引っ込んだ。

 そしてその様子に満足そうな佳乃のことを、少しイタイなと思う麻衣子だった。


「誰が熟女好きだよ。んな訳ねぇだろ」

「だよね! 慧兄ちゃんはおばさんなんか好きじゃ」

「ガキは論外。おまえに話してないから黙ってろ。ってか、無関係の奴はどっか消えろ」


 慧は佳乃の言葉を遮って黙らせると、身体ごと麻衣子の方へ向きをかえた。


「で、おまえはなに意味不明イミフな発言してんの」

「だって、慧君の前の人とか大学の先生とか年齢上の人だったから」

「あれは……たまたまだ。人の性癖みたいに言うな。それにそんな昔の話を今更」

「昔じゃないよ……」


 結婚前とはいえ、浮気された方は記憶が鮮明だ。背中の爪痕とか、声だけの動画(より想像の余地があってきつかった)とか、いまだに夢に見て胃がギュッとなった。


「ならおまえだって」

「え? 私は慧君みたいなことは……」

「おまえの幼馴染み、奈良とかいう男。あいつは浮気だよな。身体の関係はわかんないけど。それに大学ん時のバイト先の客とか。……あと、会社の後輩! 」

「は? 」

「見たからな。手つないで蕎麦屋に行ったろ」

「見た? いつ? 」

「このバカが寝ていた俺にイタズラした次の日だよ」

「なんで……? 」

「なんでって、たまたま! ……飯食いにだな。んなことはどうでもいいだろが」


 わざわざバスに乗って電車に乗り継いで? 家から出ることも面倒くさがるのに?


「なんだ、その女も色々してんじゃん。ならさ、慧兄ちゃんじゃなくてもいいよね」

「迎えにきてくれたの? 」

「悪いかよ」

「手つないでとか、浮気じゃん。それって昨日部屋に連れ込んだ男でしょ」

「松永君は私が食欲なかったの気にしてくれただけだから。それに連れ込んだ訳じゃないわ」

「ウワァッ、あんな時間に男女個室に二人っきりなんて、絶対になんかしてるでしょうに。だいたい好意もないのに差し入れなんかしないでしょ。奥さん好きです。止めて私には夫が〜とか言いながら盛り上がったに決まってるわ」


 勝手に話に割り込んだ佳乃は、麻衣子と松永を不倫関係にしたくてしょうがないようで、一人昼ドラ劇場を楽しそうに語っている。


「で、そいつとヤッたって報告の呼び出しかよ」

「そんな訳ないでしょ! 」

「でもまぁこいつの言う通り、好意はあるわな」

「あるあるある。ない訳ないじゃん。さっさと別れた方がいいって」


 好きとは言われてはいないが、「気になる相手」とは言われたんだから、向こうからの好意は0ではないと思う。

 では麻衣子は?

 松永のことは後輩ながら頼り甲斐のある人という印象だ。お喋りではないが会話の引き出しが多くて、気負いなく話せる相手で、大きな体格は威圧感ではなく安心感がある。弱っている麻衣子を慰めるふりをして手を出してくることもなく、慧と話し合えと背中を押してくれる誠実な人だ。


 そんな相手に好意を持たない方が嘘だろう。


 でも……。


「気になるかならないかって言えば気になるよ。でも、だからって慧君と離婚してまで松永君とどうにかなろうとは思わないよ。なんていうか……もうこれは遺伝かな」

「は? 」

「それもどうなんだよ」


 麻衣子と慧だけは話が通じたようで、佳乃だけ話の繋がりが分からずにキョトンとしている。


 女にだらしない……訳じゃないけれど流されやすい父親と、そんなダメンズな父親をなんだかんだ受け入れてしまう母親。

 つまりは、頼り甲斐のあるできた男より、どうにも手のかかるしょうがない男を放って置けない性分なんだろう。母娘揃って。


 女にだらしないのは許せないけど、慧だって隙きを見て浮気してやろうと目論んでる訳じゃない。他人よりも性のハードルが低いのは確かだけど。

 松永は麻衣子がいなくても生活できるだろうが、慧は麻衣子が数日いないだけで部屋がゴミ溜めになるくらいにはどうしようもない男だ。どちらがより麻衣子を必要かといえば確実に慧だろう。


 つまりは、松永に惹かれる気持ちはあるが、それ以上に慧を放って置けないのだ。

 家に帰るまで、離婚もありかもと思っていた。我慢する必要がないんだと思うことで、昨日までのグジグジした気分が晴れた気もしていた。でも今日家に帰ってみて、短期間で凄まじく荒れた部屋を見て、自分のことを何一つしようとしないことに対する怒りは湧いてこず、逆に実は少しホッとしたのだ。慧には自分が必要だと思えたから。

 離婚をするという選択肢も、離婚をしないという選択肢も、どちらもありなんだ。


「慧君はどうしたい? 私と別れてこの娘と結婚する? 」

「ハアッ?! 」


 心底嫌だと、声音にも表情にも出ている。明らかに分かりやすいのに、佳乃は胸の前で手を組み、キラキラした瞳で慧を見上げている。


「結婚前はともかく……だ、俺は100%無実だろが。なんで離婚になんだよ」


 前半はかなり小さい声でボソボソと、後半はイライラとしたように慧は言った。


 佳乃に対しては無実。美沙子からのメールで事のあらましは聞いていて、最初はそんな馬鹿な話があるかって信じられなかった。でも、思い出したくもないあの場面が何回も頭の中でリピートされる度に違和感も感じていた。

 慧との行為において、何百回とあの体位はしてきた。それ以外もまぁ色々と。総体的に、慧はアグレッシブなタイプだ。慧の細マッチョな筋肉は、運動や筋トレの賜物ではなく、セックスに特化した筋肉なのである。(麻衣子の引き締まった体型も同様であるのだが)そんな慧が、あんな緩慢な動きを受容しているか? 90%否である。


 あんな感じやこんな感じだよね。


 思わず慧との夫婦生活をまざまざと思い出してしまい、そんなピンク色の思考を追い出すようにわざとさめた表情を作る。


「二度あることは三度あるって言うじゃない? なら、三度あったことは四度あるかもだし、もっとあるかもじゃない? 慧君、結婚したからって何か変わるタイプでもないし、基本性質は変わらないよね。多分、私、次は無理だ。耐えられる気がしない。それに次に浮気したら別れるって、前の時に言ったよ」

「だからしてないだろが。爆睡してたら勝手にこいつが跨って人のチ○コに擦りつけてオナってただけ。俺は被害者」

「慧君……、もう少しオブラートに包もうか。お義母さんからメールで内容は聞いてるけど」

「じゃあなんで帰ってこないんだよ」


 面倒くせぇなという態度の慧に、麻衣子は小さくため息を吐く。


「慧君からは何も聞いてないからね。あれは誤解されてもしょうがないよね? 慧君は前科ありまくりだし。第一、前に浮気しないって約束した後に大学の先生としたじゃない。だから信頼はしてないの」


 慧は頭をガシガシかいた。


「あれは(セックス)してないだろが。ちょっとあれだよ、気の迷いって……あれだよ」

「あれじゃわかんない。そうよ、気の迷い。大学の先生には気持ちが入ってたよね。何をしたのかしてないのか知らないけど、完璧な浮気だったよね」

「なんだよ、一発殴られてやっただろ。あれでチャラっておまえ言ったじゃん」

「それについてはチャラかもしれないけど、慧君の信頼度は底辺も底辺なの! 」


 いつもたいした会話にもならないのに、珍しく慧も言い返してくるものだから、麻衣子もどんどんヒートアップしていく。

 目の前の佳乃を無視して、向かい合って麻衣子は慧に今までの不満をぶつけていき、慧は慧で慧なりの言い訳をしてあっという間に時間が過ぎていった。

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