第247話 佳乃襲来

 一晩寝て、スッキリとしない頭で目覚めた。いや、肉体的にはスッキリしている。家事も一人分ならたいしたことないし、何より通勤がないというのは疲労度が全然違う。


 一人になったら、会社の近くに住むのもアリだな。


 離婚したい訳じゃないが、そういう選択肢もあるのかと想い至った今、麻衣子は肩の力が抜けたような気分でいた。松永の存在も大きかったかもしれない。年下の後輩なのに頼りになる存在で、相談した訳じゃないけど、はからずも麻衣子の悩み(今までの慧のアレやコレヤ)を知られて、誰にも言えなかったモヤモヤが軽くなったように思えた。

 松永の好意も、どこまでが本気かわからないが素直に嬉しかった。嫌われるよりは好かれた方が良いのは当たり前だろう。だからって、慧と別れて松永と……とは全く思ってないが、相談できる相手がいるのといないのでは、気持ちの持ちようがかわる。


 ただ、慧との今までとこれからのことだけを考えると、どうしてもドロドロとしたものが拭えないのだ。


 平気で他の女に触れさせる慧が嫌だ。

 セックスの垣根が低い慧も嫌だ。

 慧にとっては麻衣子は都合のいい女というだけで、惰性で付き合って結婚してしまったようにしか思えない。


 元来、慧は会話が少ない。少ないというかほぼない。無口とか寡黙とかいうのではなく、会話すら面倒くさいタイプだ。そんな慧から愛情を感じ取れるかと言えば、全く全然これっぽっちも感じられない。この八年間皆無ではなかったけど。

 慧の会話といえば肉体言語セックスで、その中でも「好きだ」とか「愛してる」とか聞いたことがあっただろうか? 一回くらいは……あったようななかったような。


 せめて慧から意思表示があれば……、いや口ばっか好き好き言って裏で浮気する男とか最低かも。いや、浮気に罪悪感を感じないこと自体最低なのか。


 あれ、私の旦那さんって最低なの?


 麻衣子は簡単に朝食を作って食べ、部屋の掃除をし、とりあえず今日でプレハブを出て家に帰る予定だからと、私物などを纏めていく。

 隅々まで綺麗にして、気がついたらお昼の少し前だった。

 慧と約束していたのは五時だが、先に一度家に帰って荷物を置いてから行こうと、プレハブに鍵をかけて紙袋に詰めた荷物を抱えて会社を出た。

 電車もバスもすいていて、座って帰ることができた。公園前で降りて昼間だから公園を突っ切って帰る。

 公園では、幸せそうな家族が芝生にテントをはったり、敷物の上でお弁当を広げたりしていた。向こうでは、ボール遊びをしたり、バトミントンをしたりしている。


 平和な風景。

 今まで、一度も経験したことはないけど、ずっと憧れてはいた。

 そこにいる家族を自分達に置き換えて想像してみて、麻衣子は苦笑いを浮かべた。


 全然現実味がない。

 もし万が一ここまで来てくれたとしても、きっと最初から最後まで敷物の上でゴロゴロとスマホをいじって終わるんだろうな。


 マンションに帰り、部屋の鍵を開けて玄関に入った途端、麻衣子はア然とした。

 靴は脱ぎ散らかされ、廊下には何故かタオルやら洋服やらが散乱し、リビングダイニングに入れば、コンビニ弁当やカップラーメンなどが食べたそのままに放置されていた。

 キッチンはかろうじてキレイだったが、きっとお湯を沸かすくらいしかしなかったからだろう。流しにはコップが数個洗わずに置かれていた。


「慧君らしいなぁ……」


 麻衣子は黙々と掃除を始めた。お昼も食べずに家事をやり、そこそこ片付けが終わった時点で着替をして化粧を直してからマンションを出た。

 約束の喫茶店についたのは、四時五十分。まだ慧は来ていない。

 窓際の席に座り、アイスティーを頼んで慧を待った。


 カランカランとドアの開く音がし、麻衣子が入口に目を向けると佳乃が入ってきたところだった。麻衣子はすぐに視線をそらしたが、佳乃は麻衣子を見つけると、麻衣子の座っているテーブルに足早に近づいてきて、了承も得ずに麻衣子の目の前に座ってしまう。


「私、コーラで」


 注文まで勝手にとった佳乃は、無遠慮に麻衣子に視線を寄越す。


「昨日、あんたの電話がかかってきた時、私、慧兄ちゃんといたの」

「そう……ですか」

「ね、あんたさ、家出たんでしょ? 何でノコノコ帰ってくるの? 慧兄ちゃんのことは私がちゃんとするから、あんたはあんたの男といいことしてればいいじゃん」

「は? 」


 あんたの男って何?


 佳乃はテーブルに置かれたコーラにストローをさすと、口の端をニンマリと上げてコーラを飲んだ。


「あの時間からさ、部屋に男引き込んどいて、なんにもなかったとか言わないよね。いいじゃん、不倫。突っ走ってくれて大歓迎だし」

「ごめんね、ちょっと言ってることがわからないわ。昨日って、別に後輩が差し入れしてくれただけで、別に何の関係もないから」

「んな訳ないじゃん。隠さなくていいって。慧兄ちゃんだってわかってるから」

「本当に違うのよ」


 電話口での松永との会話を聞かれたんだろうけど、あの時間、あの電話の向こうで慧と佳乃が一緒にいたのかと、モヤモヤが胸にたまる。


「あのマンション、そこそこ広いんだね。アイランドキッチンっていうの?対面式のキッチンとかいいじゃん。私、別に前嫁が使ってたから嫌だとかないし、専門もあそこからなら通いやすそうだし、あそこに住むのありだわ」


 心底意味がわからない。

 ジェネレーションギャップとは言いたくないが、その思考は同じ人類とすら思えなかった。離婚も視野にいれることも頭をよぎったものの、まだそういう選択肢もあるんだなってレベルで、勝手に前妻扱いしないで欲しい。しかも勝手に家に……あの家に入ったの?


 麻衣子の頭に疑問が浮かんだ。


 汚れた部屋、洗われてない食器、たまった洗濯物。究極、佳乃がそういうのに無頓着で片付けをしようと思わない人種として、自分のいた形跡だけを消す意味がわからない。この子なら、わざと残すんじゃないだろうか?

 たとえば、今つけている真っ赤なリップのついたグラスを置いておくとか、私物を落としていくとか、洗濯物の中にわざと下着とか紛れ込ませておくとか絶対にしそう。

 そういう物は一つもなかったし、シーツとかも洗濯してきたが事後の痕跡もなかった。ゴミの中に使用済みゴムもなかったと思う。ゴミ箱をあさった訳ではないが。


「佳乃さん、あなたがありでも慧君がありかどうかはわからないよね」

「はあ? 意味わかんないし。慧兄ちゃんが嫌がる訳ないじゃん。ピッチピチの十代と、アラサーのおばさんなんか比べる方がおかしくない? 」


 アラサー、四捨五入すれば確かにそうかもしれないが、まだちょっとアラサーの括りにされるのは抵抗がある。それに、よく考えてみようか。数いる今までの慧のセフレは知らないし、まぁ同級生もいたらしいから、どんな年齢層かは謎だけど、それなりに気持ちの入ったのは、主婦の清華と、大学の先生だと思う訳だ。つまり、慧は年上好きな気がする。(慧に言ったら全力で否定しそうだが、麻衣子は慧が熟女好きだと睨んでいた。もしくは円熟した厭らしい女性好き)


 ピチピチの十代よりはまだ自分の方が慧の好みに合うのでは?

 いや、この子にも手を出していたとしたら、雑食という可能性もあるか。雑食というより誰にでも節操なく手を出す悪食? 悪食の嫁とか嫌だな。


「多分だけど……慧君は熟女好きよ」

「は? 」

「いや、私もまだ熟女とかじゃないけどね。ほら、慧君って極度の面倒くさがりだから、何でもくみとってくれる年上が好きなんじゃないかなって。年が近いなら、後腐れないさっぱりしたタイプとかかな」


 恋愛のタイプじゃくてセフレの条件のような気もするが、外れてはいない気がした。


「熟女とか、おばさんに負ける意味がわかんない。適当なこと言わないでくんない」

「別にババア趣味はねぇぞ」


 いつの間に喫茶店に来たのか、慧が麻衣子の隣の席の椅子を引いて音をたてて座りながら言った。






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