第245話 慧と佳乃

 たった数日麻衣子が帰ってこなかっただけで、マンションの一室はゴミ溜めと化していた。

 洋服は脱ぎっぱなしで洗濯などされることはなく、弁当の入れ物は食べかけが放置され、コップは出しっぱなし、スナック菓子の袋が床に落ちていた。

 さすがに異臭がしてくると、ゴミくらいは捨てないとな……と思うが、ゴミをまとめるのも面倒くさい。

 八重に来てもらおうかとも思ったが、母親の美沙子が「まいちゃんに謝って帰ってきてもらいなさい! 」と、許可がおりなかった。


 麻衣子に謝る?


 なんで俺が謝んないといけねぇんだよ! 勝手に佳乃が俺に跨がっていただけで、俺は被害者じゃねぇか! しかもだ、家に帰らずに若い男とおてて繋いで深夜に歩いていたのはあいつの方だ。俺が謝る意味がわかんね。あいつが帰りたいってなら、しょうがないから帰ってきてもいいけどな!


 ピンポーンとチャイムがなり、慧はビクッと身体を揺らした。そして珍しくっ素早い動きで玄関へ走り、勢い良くドアを開けた。

 ドアの向こうには、驚いた顔の佳乃が立っていた。


「なんだ、おまえか」


 誰だと思っていたのか、明らかに不機嫌全開な表情になった慧は、無言でドアを閉めようとした。


「ちょっ……ちょっと待ってよ」


 ドアに足を挟まれ、さすがに力付くで閉める訳にもいかず、慧はため息を吐いてドアを開け直した。


「なんだよ、おまえに用はねぇよ」


 別に昔から佳乃を可愛がった記憶はない。今までは眼中になかったから、まとわりつかれても放置していただけで、今は積極的にウザイ相手と認識しているから、口調も態度も悪くなるというものだ。


「私、慧兄ちゃんに謝ろうと思って」


 殊勝にうつむく佳乃に、心底どうでもいいという視線を投げかける。


「あのひといないんでしょ?私、お詫びにご飯作ろうかって、食材持ってきたの」

「あ"ぁ"」

「掃除とかもするよ」


 中に入ろうとする佳乃に、慧は手で遮った。


「いらねぇよ。飯も食った」

「私、慧兄ちゃんの為なら何でもするから」

「だからいらねぇって。寄るな、絡むな、鬱陶しい! 」

「ひ……酷い。私、慧兄ちゃんの為に! 」


 佳乃がボロボロと泣き出し、しゃがみこんでしまう。普通の男なら、慌てて慰めるのかもしれない。絆されて、部屋に招き入れて、そして……なんてこともあり得たかもしれない。

 残念ながら(?)慧は、安定のクズっぷりを発揮した。


「グズグズ泣くな、気持ちわりーな。化粧が落ちて見れたもんじゃねーぞ」


 心底嫌そうに顔を歪める慧を見て、佳乃は泣き落としは効果なしとピタリと涙を止めた。超ウォータープルーフを使用している佳乃は、化粧崩れなんかしていない自信満々で、涙で濡れた瞳で慧に笑いかけた。


「昔から、慧兄ちゃんってそうだよね」

「ハアッ?! 」

「酷いこと言いながら、実は気を使ってくれてるみたいな」

「ハアァァァッ?! 」


 慧が本当にこの女蹴り出してやろうかと思った時、エレベーターの音が鳴り人が下りてきた。カツカツと近寄ってきて、かなり近い距離で顔を合わせることになる。


「今晩は……? 」


 座り込んでいる佳乃と仏頂面の慧に、困惑顔の愛理が挨拶する。


「ども」

「あの……、そちらの方は大丈夫ですか? 具合でもお悪いとか? 」

「あー、放置で。とにかくおまえ、そこ退けよ。ドア閉めらんねぇだろが」

「中、入れてくれるの?! 」

「ぜってーヤダ! 」

「なんでよ! あの女、慧兄ちゃん見限ったんでしょ。私がかわりに慧兄ちゃんのお世話するってば」

「見限る? ざけんな! おまえが意味不明なことすっからだろうが」

「意味不明じゃないもん! 私は昔から慧兄ちゃんだけだから。それを横からかっ攫って行ったのはあの女じゃんか」

「それが意味不明なんだよ」


 共同の廊下でギャーギャー言い争いを始めた慧と佳乃に、なんとなく麻衣子の家出の原因を悟った愛理は、このまま廊下で騒ぐのも近所迷惑だと判断した。


「あの、差し出がましいとは思うんですけど、もしよろしかったらうちにいらっしゃいませんか。やっぱり麻衣子さ……奥様がいらっしゃらない時に女性を部屋に上げるのはどうかと思いますし。でも話し合いも必要なんじゃ……。それに第三者がいた方が冷静に話せることもあるでしょうし」

「こいつが既に第三者なんだけど。まぁいいや、あんたんち行くぞ。ほら、おまえも立てって」


 慧は佳乃を引きずって隣の愛理の家に向かった。愛理の両親はすでに寝ているとかで、リビングに通されて慧と佳乃は対面に座った。


「お茶いれてきますね」

「悪いな」


 リビングダイニングだから、愛理がお茶や茶菓子の用意をしているのは目の端に映る。


「おまえさ、俺だけとか昔から好きだったみたいなこと言ってっけど、実際は会ったのなんか数回だよな。一年に一回っきゃ泊まり行かないんだから。しかも、十年くらいは行ってねぇし」

「でも、慧兄ちゃんが初恋で、ずっと好きで、美沙子おばちゃまだってお嫁に来てって言ってくれてたし」

「そりゃガキの時の話だろが。しかも今は追い出されてんじゃん」

「慧兄ちゃんが私のこと好きになってくれたら、また元に戻れると思うし」

「だから、なんねぇよ。どこにおまえを好きになる要因があんだよ」

「え? 全部? 」


 慧は大きなため息をついた。

 お茶を持ってきてくれた愛理は、お誕生日席に椅子を移動して腰掛け、見守る体勢をとる。


「確かにおまえは麻衣子より若ぇな。でもそんだけだ。顔も素顔は麻衣子のが地味かもしんねぇけど、あいつはなんつうか味があんだよ。一緒にいて邪魔じゃねぇ。おまえは顔も存在もうぜーんだよ。身体だって、おまえあいつの横に素っ裸で並んでみ。マジで死にたくなるぞ」

「私だってスタイルはいいんだから」

「おまえの裸じゃ勃たねぇな。あと五年してみ、ただのデカパイは垂れるだけだ」


 佳乃を貶して麻衣子を褒めているんだろうが、慧の言い方が最低なせいか、佳乃よりも麻衣子が好きだということが全く伝わってこない。


「慧さん、慧さんは麻衣子さんのことが好きだから、一緒にいるし結婚したんですよね」

「嫌いな奴とは結婚しねぇだろ」

「麻衣子さんとこの……」

「佳乃な」

「佳乃ちゃんを比べたら、好きなのは……? 」


 愛理は慧に「麻衣子が好きだ」と言わせようと頑張った。

 君より好きな人がいるから、君のことは受け入れられない、ごめんね……くらい言えないものだろうか?

 なぜに顔がうざいとか、デカパイは垂れるとか、子供の喧嘩じゃあるまいし……。


「俺、こーゆーワガママで自分に自信タップリな女って嫌えなんだよな。ギャーギャーうるせーし、マジでいらねーっつの。まだガキの時はガキだからで許されたっつうか、眼中になかったからどーでも良かったけど、好きとか言われても迷惑以外のなにもんでもねぇわ」


 心底面倒くさいというふうにボソボソ吐き出す慧の言葉は、独り言のようでいてしっかり聞こえてしまっている。慧としては聞かせる気満々でつぶやいているのだが。


「慧さん、もう少しオブラートに包んで。さすがに佳乃ちゃんがかわいそ……」

「何それ! 何それ! 何それ! 今の私のこと知らないくせに! 」

「いや、知りたくねぇし」

「食わず嫌いだから! 」

「食う必要を感じないし、食ったら腹くだすな、絶対」


 自分勝手、他人の言うことを聞かないという点ではこの二人はよく似ている。夜遅く、家主が寝ている家でギャーギャー騒げる常識のなさも似ているかもしれない。慧は極力音量を下げてはいるが、ただ声を張るのが面倒なだけだったりする。


 ああ言えばこう言うみたいな言い合いを繰り返している二人を少し呆れた面持ちで見ていた愛理は、慧のポケットで着信しているスマホに気がついた。


「慧さん、電話きてません? 」

「あァ? 」


 慧はスマホを取り出すと、久しぶりに麻衣子からの着信だった。


『もしもし』

「ああ」

『麻衣子だけど』

「わかってる」


 回りに佳乃も愛理もいる状態で、慧はいつも以上にぶっきらぼうに答えてしまう。


『明日、話したいんだけど……』


 話ってなんだ、今すぐ帰ってこいよ……と言いたいのをグッと堪える。


「明日は仕事だ」

『あぁ……なら、何時頃終わる? 』

「……五時過ぎ」

『じゃあ……病院の近くに…………ちょっとゴメン』


 いきなり会話が途切れ、麻衣子が移動している音とドアを開ける音が聞こえてきた。


『〈松永君? あ、ちょっと、ちょっと待ってね〉…………病院の近くの喫茶店で待ってるから終わったら連絡ください』


 松永君?!

 あいつか?! 


 麻衣子の手を握って歩いていたゴツイ男が頭に浮かぶ。名前を覚えていないが、あいつに違いないと確信する。

 通話の切れたスマホをジッと見ていると、佳乃がクスクス笑いだした。


「なんだ、あの女も色々あるんじゃん。もしかして、家に帰ってこないのって、男の家を泊まり歩いてるからなんじゃないの。私は慧兄ちゃんにずっと一途だよ。よそ見なんか絶対しないけど」

「麻衣子さんは会社の仮眠室に泊まってます。変なこと言わないでください」

「なんであんたがそんなこと言いきれるのよ」

「麻衣子の会社の社長がこの人の彼氏なんだよ」

「麻衣子さんが旦那さんと喧嘩したから家にいたくないと聞いて、忠太郎さんにプレハブ……仮眠室の使用をお願いしたのは私です。慧さんごめんなさい。でも、クールダウンする時間も必要だと思ったんです」

「じゃあそこに男引きずり込んだんだ」


 佳乃のクスクス笑いが、慧の苛々をさらに爆発させた。


「ハアァァァッ?! テメエと同じレベルで麻衣子を語んな! 寝てる男の上で腰振って乳揉ませるような売女が一途? 笑かすな! ブヨブヨ気持ちわりーもん触らせやがって、手が腐るだろが」

「ちょっと慧さん? 」

「あのな、おまえがやったのはレイプ未遂!! 俺が訴えたらおまえは犯罪者なの。麻衣子って目撃者もいんだから。犯罪者の分際で、ゴチャゴチャうるせーんだよ! 」


 それを慧が言うか(麻衣子との初めてに同意があったかなかったかというと……)ということは、誰も知らないから突っ込めない。

 麻衣子に詳しくは聞いていなかったが、なんとなく状況を理解した愛理は、つい自分の過去の出来事を思い出してしまった。前彼の浮気現場に遭遇してしまった時のことを。


「佳乃ちゃん、同意のない行為は絶対に駄目。どうしてストレートに告白しなかったの? 」

「だって、慧兄ちゃんには子供にしか見てもらえないし、大人なんだって意識してもらえれば好きになってもらえるって思ったんだもん」

「なんねぇよ。大人だろうが子供だろうが関係ねぇ」

「どうすれば好きになってくれるのよ」

「あん時も言ったろ。おまえは麻衣子じゃないから無理」

「それって……麻衣子さん以外好きになれないってことですか? 熱烈な愛の告白ですね」


 慧は黙りを決め込み、眉をひそめて不機嫌な様子ではあったが、愛理は気がついてしまった。慧の耳が真っ赤になっていることに。


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