第244話 プレハブ三日目

 家に帰らずプレハブに泊まって三回目の夜を迎えてしまった。

 結局その間、慧との会話は電話もメールもない。一応毎日会社に泊まるむねは伝えてあるが、それに既読はつくものの、何故帰ってこないのかとかもなければ、慧本人からあの出来事の弁明すら一切ない。


 さすがに三日も離れていれば、良い意味でも悪い意味でも多少は麻衣子もクールダウンしていた。


 麻衣子がベッドの上でボーッとしていると、プレハブのドアが三回ノックされた。


「はい? 」

「俺……武田だけど」


 武田? 武田って誰? 


 少し考えて、社長の名字だと気がつく。いつも愛理が下の名前で呼ぶものだから、忠太郎さんもしくは社長としかインプットされていなかった。麻衣子は慌てて鍵を開けた。


「すみません、お待たせしたした」

「いや、別に。中、いいか? 」

「どうぞ……というかすみません」


 社長の好意に甘える形で居座ってしまっているのは麻衣子で、どうぞも何も自分の部屋ではないのだから。

 社長はドアを開けたまま中に入ると、床にあぐらをかいて座った。


「どうだ? 落ち着いて……ないか。まだ」

「まだ少し……」

「夫婦喧嘩って愛理に聞いたけど、松田でも旦那となら言い合ったりするんだな。松田は流されやす……いや人の意見に合わせて動くタイプだし、究極自分が我慢して事をおさめるだろ」

「流されやすそうって言おうとしました? 」


 ジトッと睨むと、忠太郎は爽やかに笑い飛ばした。


「まぁ、そういう部分もなきにしもあらず……だろ」

「全否定はしませんけど」

「そんな松田がさ、家出するくらい旦那と喧嘩するってのが意外だったっていうか。本当に喧嘩して出てきたのか? 喧嘩するくらい言い合ったか?」

「喧嘩は……してません」


 喧嘩にはなっていない。第一、話すらまともにしていないのだから。


「旦那は? ここにいることは? 」

「ラインで知らせてあります」

「なんて? 」

「何も……」


 しばらくの沈黙の後、忠太郎がおもむろに口を開いた。


「人に話すことで頭ン中が整理できたり、違う目線で考えられたりすることもあると思うんだが、もし差し支えなければ俺に話してみないか? もちろん他言しない。愛理にもな」

「そんなにややこしい話でもないんですけど……」


(酔った勢いで関係をもってしまった)慧との出会いからポツポツと話し始めた。直近の佳乃のことまで話し終えた後、忠太郎は自分のコメカミをグリグリと押していた。


「君さ、何でそんな男と結婚した訳?」

「何で……ですかね」


 慧のことが好きだから、だから結婚した筈だった。今までのことだって、自分の気持ちに折り合いをつけてきたつもりだったけれど……全く消化なんかできてなかったんだなと、忠太郎に話してみて初めて気がついた。


「まぁさ、他人がどうこう言えないし、松田の旦那には旦那なりの言い訳もあるんだろうし、とりあえずまずはちゃんと話し合ったほうがいい」

「私もそう思って……ます」

「まぁ、ここは別に好きに使ってもらっていいし、もし第三者を交えて旦那と話したほうがよさそうなら、うちの弁護士を紹介してもいい」


 弁護士……、離婚を心配されてるんだと気がついた。

 他人が見たら離婚案件なのかと思うと、逆に気持ちが軽くなった。もちろん慧と離婚など今の今まで考えたことはないし、これからもそんなつもりはないが、最終的にそういう選択肢もある、これ以上我慢する必要はないんだと、いままでモヤモヤ溜まっていたものが流れていった気がした。


「夫と話してみます。明日、家に戻ろうと思います」

「うん、もしまた喧嘩になったらここに戻ってきてもいいし、しばらくここの鍵を持っていたらいい。いらなくなったら愛理に返してくれればいいから」

「ありがとうございます」


 忠太郎は「ちゃんと鍵閉めろよ」と言ってプレハブを出ていった。


 慧と付き合って六年。結婚して二年。その中で慧の浮気の回数を考えると、多いのか少ないのか、他に付き合った経験がない麻衣子にはわからなかった。付き合う前のはカウントしないとしても(それでも半同棲状態だった時なんだから、浮気なんじゃないかって思うけど)、慧が自分意外の女性に触れたって想像するだけで胃がギュッとなる。

 自分だって慧意外の人に気持ちが揺れたことはないかっていうと、そんなことはなかったけど、でもやっぱり最終的には慧を選んでいた。


 慧が麻衣子の唯一だから?


 もし慧と付き合う前に数人彼氏がいたりして、色んな男性を見て知っていたら、もしかしたらすぐに慧とは別れていたかもしれない。というか、付き合ってすらなかった?


 麻衣子は自分の考えに自分で驚いてしまう。


 そうか、離婚もありか。


 麻衣子はスマホを取り出した。やはりなんの連絡もないスマホのロック画面を解除して、慧の番号をタップして電話をかける。数コール待ってから慧が電話に出た。


「もしもし」

『ああ』

「麻衣子だけど」

『わかってる』


 すぐに電話に出たし、スマホゲームの邪魔をしてしまったんだろう。慧の定番のぶっきらぼうさに麻衣子の顔に苦笑が浮かぶ。

 家出中の妻から電話なんだから、もう少し反応があってもいいんじゃないんだろうか?


「明日、話したいんだけど……」

『明日は仕事だ』

「あぁ……なら、何時頃終わる? 」

『……五時過ぎ』

「じゃあ……病院の近くに」


 喫茶店があったよねと言おうとして、ドアが控えめにノックされたため、麻衣子は「ちょっとゴメン」と慧に断りを入れてからドアを開けた。

 てっきり、忠太郎が言い忘れたことでもあって戻ってきたのかと思ったのだが、ドアの向こうにはコンビニ袋を持った松永が立っていた。


「松永君? あ、ちょっと、ちょっと待ってね」


 麻衣子は松永に背を向けると、スマホに向かって早口で「病院の近くの喫茶店で待ってるから終わったら連絡ください」とだけ言って、慧の返事を待たずに電話を切った。


「すいません、間が悪かったっすかね」

「ううん、大丈夫。どうしたの? 」


 松永は、コンビニの袋を持ち上げて見せた。


「この間ご馳走になったから、ちょっとした差し入れっす」

「ご馳走って言うほどたいした値段じゃなかったじゃない」


 袋の中には、お弁当やおにぎり、お菓子やつまみ、ビールやら缶酎ハイやらがごっそり入っていた。どう見ても、こっちの方が値段がいってそうだ。


「松永君は夕飯は? 」

「まだっす」

「じゃあ、私はこんなに食べれないから」

「食べて帰ってもいいっすか」

「……えぇ、そうね。どうぞ上がって」


 食べれない分は持って帰って……と続けようて思ったのだが、持って帰るのも荷物になるかと、松永の言うことにうなづいた。松永をプレハブの中へ入れる為に身体をずらすと、松永は「お邪魔しまっす」と中へ入ってきた。

 少し天井が低く狭いプレハブに大きな松永と二人、圧迫感があるなと息苦しさを感じた麻衣子だった。

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