第243話 慧は見た
杏里の家に泊まります。
麻衣子から届いたライン、気がついたのは電気のついていない家に帰ってからだった。
とにかく追いつくかと、睡眠不足運動不足の身体に鞭打って走った。こんなに走ったのはいつぶりだって、マジで思い出せないくらい……いや、薬学部んときにあったか? 思い出したくもねぇけど。体調は今日が一番悪いのは確かだ。睡眠不足の上に飲酒して、さらに爆走とか、あいつは俺を殺したいのか?
座ったら寝ちまうことが確かだから、電車の中でも気力で立ってた。マナー違反だって知ってるが、電車の中でも数回麻衣子にTELした。出やがらなかったけどな。
急行を下り、マンションまでも走った。頭はグルグルするし、吐き気をもよおすし、マジ最低!
さすがに八階まで階段を駆け上がる体力はないから、エレベーターが下りてくるのをイライラしながら待った。家に帰れば麻衣子はいると思っていたし、くだらねぇ勘違いすんじゃねぇよってヘッドロックでもかましてやろうかと思っていた。もちろんそのまま押さえ込んで好き勝手弄り倒して……なんて妄想は、玄関を開けた途端霧散した。
明かりの消えた玄関、静まりかえった廊下、誰もいないリビング。一人では広すぎる寝室。
ブーッブーッとバイブの音がして、ズボンのポケットからスマホを取り出すと、麻衣子からのラインの着信が。
「意味わかんね」
杏里の家に泊まる? 満身創痍の俺にさらにどうしろっつうんだよ。
慧はベッドにダイブした。身体は睡眠を欲していたし、走ったせいでさらに回った酒は頭をガンガンに揺らしている。正解は今すぐ起き上がって麻衣子を迎えに行く。そして麻衣子に弁明して勘違いを解くこと。今まで慧が麻衣子にしてきた不誠実な行為(いわゆる浮気)を考えれば、猶予がないことは確かなのに、数回許された経験から慧は不正解を導き出した。
明日、麻衣子が帰ってからでいっか。
慧はラインに返信することもなく、自分の欲求に負けて瞼を閉じた。そして泥のように眠った。
★★★
慧が目が覚めた時はすでにGW明けの火曜日の朝になっていた。寝不足は解消され、酔いも覚めてはいたが、今度は逆に寝過ぎで頭痛がした。
スマホを見るが、着信もラインもなんも無印だった。慧は舌打ちすると、とりあえずシャワーに向かう。洋服を脱ぎ散らかし、熱めのシャワーで目を完璧に覚まし、パンツ一丁でキッチンへ向かう。昨日はほとんど食事をしていなかったから、空腹は限界だった。いつもなら先に出勤する麻衣子が用意してくれている朝食も、当たり前だが存在しない。適当に食パンをかじりながらクローゼットから洋服をあさる。
白衣を着るからスーツでなきゃいけないこともないが、Yシャツにネクタイ、スラックスはきちんとした物を着用しないといけない。
いつもなら、一セット揃えて置いてあるのに。
慧の面倒くさがりを増長して甘やかしているのは麻衣子の愛情の結果なんだが、慧はすっかりそれが当たり前となっていて、自分がどれだけ尽くされていたかなど考えもしなかった。
適当に洋服を選び、冷蔵庫からアイスコーヒーを出して一口飲んでから出勤した。
仕事はまぁまぁ変わり映えはしなかった。当直組から申し送りを受け、自分の担当する科の処方箋をさばいていく。午後は入院患者の薬説明や在庫確認をし、当直組に申し送りをして一日の仕事が終わった。
「慧、あの後大丈夫だったか」
更衣室を出たところで、白衣姿の兄の彬が声をかけてきた。
「何が? 」
「麻衣子ちゃんだよ。なんか、佳乃がとんでもないことしたらしいじゃん。あの、女の子大好きな母親がさすがに怒ってたぞ」
母親の美沙子は、昔から女の子が欲しかったと息子二人の前で公言してしまうほどに娘(いないけど)愛が半端なかった。息子しか生まれなかった反動か、とにかく女の子には優しく甘やかそうとする。息子嫁、特に人当たりもよく従順な麻衣子は息子以上にお気に入りだ。
そんな美沙子だったから、自分の幼馴染みの娘のことも、娘がいたらこんな洋服を着せたかったとか、あんなことしたかったなど、自分の欲求のままに昔から甘やかし放題だった。
佳乃が可愛いからとか好ましいとかじゃなく、自分が欲しかった女の子だから、ただそれだけでだ。佳乃にしてみたら、自分は慧の母親に溺愛されていて何でも許されると勘違いしてもしょうがなかったかもしれない。
「まだ会ってないからわかんね」
「は? 会ってないって? 」
「昨日、妹んとこ泊まり行ったみたいだから」
「ええっ?! ヤバくないかそれ。おまえ、迎えに行かなかったの? 」
「ハァ? 昨日夜勤だったんだぞ。なのに意味わかんねぇよ。まず寝るだろ」
「おいおいおい、まず迎えに行けよ。すぐに謝れよ」
「何でだよ、別に俺はなんもしてねぇっつうの」
彬は残念な子を見るような視線を慧に向け、盛大なため息をついた。
「とにかく、麻衣子ちゃんの仕事先にでも迎えに行って、少しは誠意を見せたらどうだ」
「めんどい。帰る」
慧は彬を押しのけて病院を後にした。スマホゲームをしながら帰宅し、まだ誰もいない我が家の鍵を開ける。この時間に麻衣子が帰っていないのはいつも通りだ。寝室でラフな部屋着に着替え、しばらくゴロゴロしながらゲームをしたりテレビを見たりした。
麻衣子の帰りが遅いときは、夕飯が作ってあったり、一人で食べててとラインがきたりする。でも今日は何も連絡はない。夕飯を食べるには少し遅い時間、慧はやっと重い腰を上げた。冷蔵庫には食材は入っているが、料理をするスキルは持ち合わせていない。そのまま食べれそうなのは野菜くらいだが、そんなものバリバリ食べて満足できる質でもない。
「飯食いに行くか」
誰が聞いている訳でもないのに、外出する言い訳を口に出してみる。
ポケットに財布とスマホだけ入れてマンションを出た。プラプラ歩いて、ちょうどきたバスに乗る。歩いて行ける距離にコンビニもファストフード店もあるというのにだ。駅前で下りると、駅の周りにある店をグルッと見て回ったが、入りたいと思う店はない。
「まぁ、もうちょい足をのばすのもありだよな」
だから、誰も聞いてないし、誰に聞かせたいのかもわからない。慧は独り言を言いながら駅に向かった。電車に乗っている間、珍しくゲームもせずに待ち受け画面をジッと眺め、麻衣子の会社のある駅で下りた。
「飯屋、飯屋」
明らかに足は麻衣子の会社の方向へ向かっていた。途中立ち食い蕎麦屋があったから、天丼を食べた。早くて美味いなと思いながら店を出、食後の運動だと駅に戻らずにさらに先に進む。あともう少しで麻衣子の会社だというところで、麻衣子の会社からデカくてゴツい男が出てきたのが見えた。
パッと見て、前に麻衣子を送ってきた後輩だとわかり、慧は無意識に建物の陰に隠れていた。嫁を迎えに来たとか思われたら、あまりにカッコ悪過ぎる。たまたま、食事をしに来ただけなんだから。
すると、後輩(名前は忘れた)の後ろから麻衣子も歩いてくるのが見えた。しかも、後輩は麻衣子の手を握っている。(本当は手首をつかんで引っ張っていた)
は? 意味わかんねーんだけど。
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