第235話 日常からの……
旅行から帰り、麻衣子は通常生活に戻っていた。
朝早く起きて、朝食と慧と自分のお弁当を作る。寝っぱなしの慧を起こすことなく、そっと家を出る。とにかく仕事をこなし、終バス間近で家に帰る。
家に帰ると、慧は寝ているかゲームをしているか……。部屋を簡単に片付け、洗い物をし、簡単な夕飯を作って食べる。日にちを跨いで風呂に入り、ベッドに入ると慧と会話代わりのSexをして寝落ちする。
これが今までの麻衣子と学生の慧の日常だった。
明日からは慧は松田病院に就職することになっていた。昼食は実家で食べるからと、明日からは慧のお弁当は作らなくてよいと言われた。夕飯も、麻衣子の帰りが遅いから実家で食べてくるらしい。さらに、週に一日は夜勤もあるらしく、金曜日は帰ってこないと言われた。
実家に就職するのだから、実家べったりになるのは仕方がないと思う。慧の実家に思うところもない。良くしてもらっていると感謝もしていた。
旅行に行くまでは、何も考えていなかったのに……。
「明日から……仕事だね」
「だな」
「緊張……してる? 」
「別に」
「う……ん、朝御飯……しか食べてもらえなくなるね」
「朝も別に家に寄ればなんかあるから別にいいぞ」
「やだ。……奥さんらしい……ことしたい……よ」
「ばーか。らしいって、嫁だろが」
この会話はベッドの中で行われており、いわゆる夫婦の営みの真っ只中である。
「……なるべく夕飯作れる時間に帰るようにするから、慧君も……おうちでお夕飯食べて……欲しい」
「無理しないでいい。飯なんか何処で食っても同じだろが」
慧的には、仕事の忙しい麻衣子を気づかったつもりだった。それなら家事を分担するなりすればいいのだろうが、麻衣子の家に入り浸るようになってから、同棲結婚をして今に至るまで、家事なんかしたことはなく、全て麻衣子に任せてきた。
麻衣子の眉がへの字に垂れる。
感じているだけの顔ではなく、何かに耐えているような表情をしているが、慧はヤることに夢中で気がつかない。
家でご飯を食べて欲しい。できればお昼もお弁当を持って行って欲しい。仕事が終わったら真っ直ぐ帰ってきて欲しい。
だって、慧の実家にはあの娘がいる。
若さが眩しかった。怖いもの知らずで、猪突猛進な感じが麻衣子の不安を煽る。妹的なノリで慧の懐にグイグイ入り込み、いくら女として見られないと言っていても、健康的な肢体を目の前にすればどう転ぶかわからない。だって慧だから。
「慧君? 」
ナニが終わって、慧は健やかに寝息をたてていた。麻衣子を抱き枕にしようと、足をからめてくる。
麻衣子も慧に抱きつくようにして目を閉じた。しかし、なかなか寝付けなかった。
★★★
慧が就職してから一ヶ月弱、もうすぐGWだけれど、入院施設のある病院に休みはなく、土日も新人は積極的にシフトが入れられていたから、この一ヶ月麻衣子と慧の休みは重ならなかった。
慣れない仕事のせいか、麻衣子が帰ると慧は寝ていることが多く、朝食のほんの数十分だけが二人の時間だ。
Sexもなかなかする時間がなくて、二人の会話は極限に少なかった。
「慧君、今日は早く帰れるんだけど」
「マジで? ……あぁ、今日は遅番だ。なら、うちにこいよ」
うち……。
慧の家はここじゃないのかな?
麻衣子は朝食を食べながら、ほんの小さな言葉が刺のように心に刺さる。
「でも急に……」
「あぁ、大丈夫大丈夫。今日は佳乃の誕生日なんだよ。楓も来て腕をふるうって言ってたから、うまいもん食えるぜ」
「佳乃さん……の」
「俺、九時上がりだから先に家行ってろよ。言っとくから」
「うん……わかった」
二人で過ごしたいだけだったのに……。
二人で家を出て、別れてお互いの仕事場に向かう。
とにかく仕事をこなし、気がついたらお昼も食べないで動き回っていた。仕事に集中していた訳じゃないのに、大きなミスもなかったしイレギュラーな仕事も入らなかったから、予定通りいつもよりは早く仕事が終わってしまった。
「松田さん、お疲れ様っす」
「お疲れ様」
今年入社した新人の
「今日は珍しく定時上がりっすね」
「そうね。やっと初めての店舗の目処がついて、明日から試験的に店舗販売開始するからね。明日の為に鋭気を養わないと」
ネット販売メインだったC.Tブランドも、顧客のニーズに合わせて若者向けの下着をメインに扱う店舗進出を決め、その営業初日が明日だった。社員兼モデルの麻衣子は、(通常業務プラス)研修の末半年間店舗のマネージャーとして接客サポートに入ることになっていた。
その間、麻衣子の仕事は同僚に引き継がれ、その同僚は松永の新人研修も行っていた為、ついさっきまで三人一チームとして仕事を回していた。
「久しぶりに家でゆっくり飯食えますね」
駅までの道を並んで歩く。
「そう……ね」
「なんか、疲れて……落ち込んでます? 」
「そんなこと……ないかな」
「嫌なこと我慢してる顔してる」
麻衣子はそんなに表情に出ているだろうかと両手で頬を覆い隠す。
「松田さんは目に出やすいから、頬っぺた隠してもダメですよ。で、何があったんすか? 」
「何も……。今日は夫が遅番で、夕飯夫のうちに行くことになってて……。行くのは嫌じゃないのよ。でも、ほらやっぱり自分ちじゃないから気を使うこともあるし。明日のことを考えると、家でゆっくりしたいかな……ってだけで」
麻衣子の口調がどんどん尻窄みになっていく。
「仲が悪くなくても、義実家ってのは気を使いますもんね。って、俺結婚してないどころか彼女もいないっすけど」
ボリボリ頭をかきながら言う松永を見て、麻衣子はフッと笑みを浮かべる。
年下に見えないオヤジ臭い雰囲気に、なんとなく親しみ易さを感じた。
「まぁ、無理はしないに限るっす。仕事でプライベートで無理してたら、いつか壊れちゃうから」
「……うん、そうだね。今日は家に帰ろうかな」
麻衣子はスマホを取り出して松田実家の電話番号をタップした。
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