第234話 佳乃VS麻衣子

「失礼します」


 外でいたしたせいか、部屋でまったりしていたところ、部屋の扉がノックされて返事する前に襖がガラリと開けられた。


「あ、あなた……」


 部屋に入ってきたのは、麻衣子を滝に案内してくれた楓という青年だった。


「あ、やっぱりあんたが慧さんの奥さんだったんだ」


 いきなり部屋に入ってきてニパッと笑った顔は、やはり十代の少年のように見えた。


「おまえ……誰? 」

「ひっで! 楓! 工藤楓、覚えてないんかよ」

「楓? 工藤……あぁ、料理長のとこの坊主。佳乃の金魚の糞」

「相変わらずひでぇな。久しぶりに会った弟分にそれかよ」


 唇を尖らす楓を見る慧の視線は珍しく柔らかかった。無遠慮に部屋に押し掛けてきた楓にもかかわらず、慧はちょいちょいと楓を手招きし、慧より少し高い身長を見上げた。


「おまえ、あんなにチビだったのに、何食ったらこんなにでかくなるんだよ」

「知んないよ。慧さんは小さくなったな」

「なんだと」


 楓の腹にグーパンチを入れる慧に、わざと大袈裟に痛がってみせる楓。その親しげな様子に、麻衣子は珍しい物を見たとばかりに目を瞬かせた。


「俺さ、今厨房で見習いしてんだ」

「マジでか? ぶきっちょのおまえが? 佳乃に泣かされっぱなしだったくせに厨房の見習い? 」

「きっちいけど、なんとかやってる。来月から、親父……料理長の知り合いの店に修行に行くんだ」

「へぇ、頑張ってんな」


 慧に誉められたのが嬉しかったのか、楓は照れくさそうにでも嬉しそうに笑った。


「でさ、実は修行先が東京なんだよね。慧さんの家からも近いとこでさ。で、ちょっと相談っていうか、聞きたいことがあって……」


 チラチラと麻衣子を見る楓に、男同士話したいこともあるかと、麻衣子は笑顔で立ち上がった。


「慧君、ちょっと大浴場に行ってきてもいいかな? 」

「あ、うちの場、美肌にいいんすよ。あと女性の冷え性とか」

「そうなんだ。じゃあ、ゆっくりつかってこないとね。楓君、ごゆっくり」


 さっき歩いたし、まだ肌寒いとはいえ汗をかいたので、流したいのは本当だった。

 着替えとお風呂セットを持って部屋を出た麻衣子は、露天風呂付きの大浴場に足を向けた。

 女の字が書いてある暖簾をくぐり脱衣場に入ると、中は誰も入っていないようだった。誰もいない脱衣場で素早く衣服を脱ぐと、手拭いを片手に大浴場に入る。

 大きな一枚ガラスの手前に内風があり、子供ならば泳いでしまいたくなるだろうくらい広かった。ガラスの外には岩の露天風呂があり、温かそうな湯気が上がっている。


 丁寧に身体を洗った麻衣子は、まずは内風呂につかった。外の景色を見ていると、木々の緑がサワサワと揺れていて気持ち良さそうに見えた。

 身体が十分温まった状態で、麻衣子は露天風呂への扉を開けた。

 寒さを感じる前に露天風呂に入ると、その解放感と木々の香りに麻衣子はゆっくり息を吸った。


 嫌なこと……、若さに嫉妬し、慧に向けられる好意に胸がざわついたことが、嘘のように静まっていく。


 新婚旅行……か。


 旅館は立派だし、非日常が溢れている。空気からして違う。

 でも、これが新婚旅行かと言われると、あまりに二人でいることに邪魔が入り過ぎやしないだろうか?

 慧の昔馴染みな場所だからしょうがないし、だからこそ急な予約もとれたんだとはわかっている。わかってはいても、せっかくの新婚旅行、もう少し糖度濃いめでもいいんじゃないか……と、すでに付き合ってから八年以上たつというのに、麻衣子はいまだに慧のことが好き過ぎて少しせつなくなる。


 露天風呂につかって目を閉じていると、扉が開く音がしたから入り口に目を向けた。


「あ、慧兄ちゃんの」

「麻衣子です」


 入ってきたのは佳乃だった。

 どこも隠すことなくズンズンと歩いてくると、やや乱暴に露天風呂につかる。お湯が跳ねて麻衣子にかかったが、佳乃は知らん顔で向かい側に移動した。

 岩風呂の縁に腰をかけ、麻衣子のことをジロジロ見てくる。


 その挑戦的な目付きと、若々しい裸体に、麻衣子は視線を反らしてさまう。かなり大きいのに重力に逆らって張りのあるバストや、引き締まったウエスト、魅力的なヒップライン。全てが若々しくて、自分にはない魅力を感じてしまう。

 全体的なバランスでいったら麻衣子の方がスタイルはいいし、肌の張りなども全然負けてはいないのだが、自分のことは等身大で見れないもので、麻衣子の自己評価はかなり低い。


「ふーん、素顔は地味なんだ」

「そんなに盛ってるつもりはないんだけど」


 麻衣子は自分がそんなに可愛いタイプではないと知っている。だからこそメイクにはかなり力を入れる。自然に見えるメイクは心掛けているし、一見ナチュラルに見えるかもしれないが、それはそれでメイクテクがいるのだ。


「慧兄ちゃん、騙されたんだぁ」

「騙してなんか……」


 自信のなさが表情に表れているのか、佳乃は満足そうにうつむく麻衣子を見下ろすように見る。


「私ね、四月から東京の短大に行くの。ほら、将来的にはこの旅館の女将やらなきゃいけないから、羽根を伸ばす最後のチャンスなの」

「……そう」


 何故そんな話を麻衣子にするのかわからないが、佳乃は楽しそうに話し出す。


「松田家に下宿することになってるからよろしくね。あと、松田のおじ様の病院でバイトもするから、慧兄ちゃんとは職場でも会えるの。今から楽しみで」


 慧は、大学を卒業したら家の病院の薬剤部に就職が決まっていた。

 病院と慧の実家は歩いて数分の距離にあり、休み時間などは家でゴロゴロできると、慧は実家を有効活用する気満々だった。

 麻衣子は残業が多いから、夕飯なんかも食べてから帰ろうかな等と、無遠慮な発言すらしていた。


「そんな話……」

「聞いてなかった? おば様とかとそんなに仲良くないんだ? 嫌われてるとか? 私のことは昔から娘みたいに思ってくれてるみたいで、小さい時は慧兄ちゃんのお嫁さんにおいでって言ってくれてたんだよね」

「嫌われてなんか……ないわよ」


 実際、慧の母親の紗栄子との関係は良好だ。かなり可愛がってもらっていると思っていたが、下宿の話は聞いていなかった。


「そう? おば様、私が慧兄ちゃんのこと大好きなの知ってるし、そんな私が下宿すること内緒にするくらいの仲なんでしょ? もしかして、後妻にって思われてるかも」


 後妻って、離婚もしてないしする予定すらないのだが。


「……」

「そんな訳で二年間松田家にお世話になります。よろしくね、麻衣子さん」


 これは宣戦布告になるのだろうか?


 言うだけ言って満足したのか、佳乃は風呂から上がり去って行った。

 取り残された麻衣子は、何も言い返すこともできずにいたことに気づき、ぎゅっと唇を噛んだ。

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