第232話 滝

 宿を出て、街へ出ようか山の小道を散策しようか悩む。

 宿の前の道を下れば街がある筈で、裏手に回れば遊歩道があり安全に山を散策できるようになっていた。


 なんとなく人に会いたくなかった麻衣子は、遊歩道の方へ足を向けた。


 慧は家族でよくこの宿を利用していたと言っていた。少年の慧も、この山道を散策したことだろう。いくら面倒くさがりの慧とはいえ、子供の時くらい無邪気に遊んだ……かなぁ?


 なんとなくだが、走り回り山を探検する慧……というのが想像しにくい。ゲームボーイとかやって、せっかくの旅行でも部屋に籠る慧の方がずっと慧らしいのではないだろうか?


 川で遊んだと言っていたけれど……。


 歩きやすくととのえられた遊歩道を歩いていると、道の下に川が流れていた。崖とまではいかないが、急な斜面の下にそれなりの幅の川が見えた。


「下りたいんですか? 」


 川を眺めていたら、いきなり後ろから声をかけられてびっくりした。


「ウワッ! 」

「あ、すみません。驚かそうとした訳じゃないんです。もう少し先に川に下りれる場所があるんです。ここは土が滑るから危ないと思って。小さいけど、滝もあるんですよ」

「ご丁寧にありがとうございます」


 声をかけてきたのはまだ十代だろうか?

 スポーツ刈りで爽やかな感じの男の子だった。


「案内しましょうか? 少しわかりにくいから」

「でも……」


 いくら爽やかそうに見えても知らない男の子だ。

 あまり人のこない山道でホイホイついていったらマズイ気がした。


「あ、俺、工藤楓くどうかえでって言います。翠鳥園って旅館で働いてます」


 働いているのなら、十代だと思ったがどうやらもう少し上らしい。普通なら彼くらい背が高ければ威圧感を感じる筈が、その爽やかな表情と童顔のせいか、どうにも警戒心をもちにくい。


「私、そこに泊まってます」

「あ、やっぱりうちのお客様だったんですね。じゃあ案内しないと。こっちです」


 楓がスタスタと歩き始めてしまった為、麻衣子はしょうがなくついて行く。


「お客様は一人で旅行……じゃないですよね」

「はい、夫と」

「夫? えっ? もう結婚してるんですか? 二十代前半くらいですよね? 」

「もう二十六です」

「それでも早くないですか? 」

「そうでもないですよ」


 麻衣子が既婚者だと、楓は信じられないようだった。


「あ、ここです。ここからなら川に下りられて、滝まで行けるんです」

「あ、ありがとう。ここまでで大丈夫」

「そうですか? 気をつけて下さいね。そうだ、お客様の名前教えて下さい」

「そうね、ごめんなさい。自己紹介もしてなかった。松田麻衣子です。宿には二泊する予定。よろしくね」

「そうですか。僕は板前見習いです。うちの料理は逸品ですからお楽しみください。では、気をつけて」


 親切心でここまでで送ってくれたとわかる笑顔を浮かべ、楓はすんなりと引き返して行った。

 麻衣子は川に下り滝を探索した。慧が子供の頃ここで遊んだのかと思うと、意味なく見入ってしまう。

 自分の知らない慧が、知らない人達と過ごした場所というのが不思議でならなかった。

 八年、慧と一緒にいる。

 実家の友達とかとも親しくなり、薬科大の友達もわかるし、知らないところなどないと思っていたが、まだまだ知らない慧がいた。自分が知らない慧を知っている人がいて……。

 あんな若くて綺麗な子が……。

 もう、ため息しかでなかった。


 どれだけ滝を眺めていたか。


 新婚旅行で、一人で滝を見てるとか、意味わかんない。


 麻衣子は宿に戻ろうと、元来た道を戻ることにした。


「おまえ、ここで何してる訳? 」


 振り返ると、不機嫌そうな慧が立っていた。


「別に何も……」

「まじで、新婚旅行ってわかってるのかよ? 」

「わかってるわよ」

「なら、一人で出歩くなよ」


 麻衣子はムッとする。

 最初に麻衣子を一人にしたのは慧だ。待ってても帰ってこなかった癖に、あまりな言い様ではないだろうか?


「あぁ……ごめんね」


 麻衣子は慧の横をすり抜けて帰ってしまおうとした。


「何、おまえ」


 手をつかまれて、引き寄せられた。


「……別に」

「もしかしてやきもち? 」


 慧はニヤニヤしながら、麻衣子の腰を抱いた。


「そんなんじゃないし! 」

「あんなん、ただのガキじゃん。オシメしてるイメージしかねぇよ。ってか、こっち向けよ」


 慧は麻衣子の顎に手をかけ、被さるようにキスしてきた。

 触れるだけのキスじゃなく、明らかに欲情のこもったキスに、麻衣子の意識は慧の舌の動きを追うことだけに集中する。

 さっきまでの嫌な気持ちが溶けてなくなる。


「……嫌だったの」

「うん? 」


 啄むようなキスにかわり、麻衣子は欲に潤んだ瞳を慧に向けた。

 慧と知り合ってから八年、いまだに慧に対する感情は変わらない。キスされれば嬉しいし、もっと触れていたい触れられたいと思う。そんな感情が溢れた麻衣子の表情は、やはり何年たっても慧を煽って……。


 何が嫌だったか、それをどうしたらいいのかなんて話し合うこともなく、再度深いキスをしながら、慧は当たり前のように麻衣子の衣服の中に手を突っ込む。


「さ……慧君、ここ外……あっ……」

「誰もこねーし」


 相変わらず慧は慧らしく、それを何だかんだ受け入れてしまうのも、やはり麻衣子らしいということだろう。




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