第227話 番外編 恭子先生の今 2
修平とラウンジで別れてから、恭子はしばらく立ち上がることができずに一人席にとどまっていた。
思っていた以上に緊張していたのと、昨日寝ていない寝不足のせいか、頭がガンガン痛い。
目を閉じ、コメカミに手を当てる。目からの刺激をシャットダウンすると、頭が少しすっきりして思考が鮮明になる。
この三十年近く、勘違いして生きてきたのだ。修平とキスする為だけに海江田に協力してもらい、色んな男とキスの練習をしてきた。ひとえに、修平を魅惑することを目的に生きてきた。
それが、実際に会えた修平にそこまで執着する気持ちも、キスしたいという欲求すら起きなかった。
じゃあ今までの人生は?
初恋に囚われて、思い込みで行動してきた。恋愛にも目を背けて生きてきたのは、いったい何の為だったのか。
脱力感と、喪失感、それが過ぎ去ると笑いがこみ上げてくる。
バカらしい……本当にバカらしい踏襲に囚われていたんだと、今ならはっきりとわかる。
「この際、修道女にでもなろうかしら」
カトリックといい訳ではなかったが、小学校から高校までカトリックの学校だったから、馴染みがないこともない。どうせこれから恋愛もないだろうし、それも一つの生き方かもしれない。
「それはもったいないんじゃない? 」
恭子はびっくりして目を開き、いつの間にか正面に座っていた男性を見た。
「信也……君」
「やあ、また会ったね。ってか、会いに来たんだけどさ」
「どうして? 」
海江田は、頭をかきながら戸惑いがちに笑顔を浮かべる。
「実はね、君の初恋の人、松田修平先生には、昔からお世話になっていたんだ。まあ、松田先生が君のあれだってわかったのは、ごく最近なんだけどさ。で、話しをしたら、彼の息子さんが君の大学に通ってるって話しになってね、君が息子さん通して会いたがっているって話しになったんだ」
世の中は狭い。
同じ医者とはいえ、修平は東大医学部、信也は私立の医学部。どこでできた接点かはわからないが、恭子が深く人生を関わった二人が知り合いになっていたなんて。
「そ……う。それで、三十年近く初恋を拗らせていた私を笑いにきたの? 」
意地の悪い言い方になったが、恭子はすっかり拗ねてしまっていた。海江田を見上げ、昔のように甘えたようなそれでいて真剣な眼差しを向ける。
「そんな訳ないさ。松田先生には、しっかり君に向き合って欲しいことをお願いしたくらいだ。もちろん、奥様がいらっしゃることは知っていたけどね」
「なぜ? 」
「だって、恭子ちゃんが松田先生のことをどれだけ真剣に想っているか知っていたから」
「だいぶ前の話しよ」
「君は変わらない……と思ったから。……だろ? 」
「そうね。そうだったわ。でも、やっと踏ん切りがついたみたい。バカね、もう四十も半ばなのに」
恭子は自重するように微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
「信也君に会えて、本当に良かった。私ね、あなたにも謝らないといけなかったわ。やっとわかったの。信也君に対する感情も……。あの時、私はあなたが好きだったみたい。今さらな話しなんだけど。……たぶん、私が好きになったのは二人だけ」
修平の気持ちも聞けたし、海江田とも話しができた。ずっと胸につかえていた感情が溢れ、口から溢れ落ちた。そして、口にだしてやっと自分の気持ちがストンと落ち着く場所に落ち着いた気持ちがする。
何故、海江田の写真を処分できなかったのか、どんなに素敵な男性を見ても、修平ではなく海江田のキスと比べてしまっていたのか。
立ち去ろうとした恭子の腕を海江田がつかんだ。
「夕飯……夕飯でも食べないか」
「ごめんなさい、用事があるの」
用事なんかない。
妻帯者に告白をしてしまったのだから、これ以上一緒にいるべきではないと思ったのだ。恭子が今までどんな男性ともからんできたが、それだけは……不倫と定義される行為だけはしてこなかった。遥か昔に、海江田に「不倫をするつもりがあるのか? 」と聞かれて、「それはできない」と答えた時から、それだけはしてはいけないと思ってきた。他人からは奔放な女性に見られていたかもしれないが、彼女のいる男性を奪うことはあっても、妻子のいる男性にはノールックだった。
「じゃあ、またみんなで会わないか? いや、進達はあれだけど、たいっちゃんや雅子ちゃんが一緒ならいいだろ? 」
「そうね……それなら。また連絡してください」
その場は振り返らずに立ち去ることができた恭子だが、海江田を完全拒否することはできなかった。
★★★
「やっほー、久しぶり! 」
雅子がブンブンと手を降った。
「新宿って久しぶりで……人が多過ぎね」
「何言ってんの。あんた独り者なんだから、自由にフラフラできるでしょ」
「そうだけど……用事がなきゃこないわ」
「まあ、私も久しぶりだけどね。美佐江なんか、十年くらいきてないんじゃない? 」
「しょうがないわよ。あそこは子供が小さいから」
「まあ、小さいのから大きいのまで、うじゃうじゃいるわね」
「もう、そんな犬の子供みたいに言わないのよ」
独り者の恭子、結婚しているが子供のいない雅子、六人家族の美佐江(男男女男の三男一女)。
みな立場が変わってしまったが、一年に一回ランチはしていた。今回みたいに夜に集まるのは初めてだった。
美佐江も子供達を旦那に預けてくると言っていたが、まだきていない。ちびが愚図ったとラインがきていたから、少し遅くなるかもしれない。
「先に食事の場所とっておこうか」
「そうね。こんなに人が多いと、すぐに入れないかもしれないものね」
とりあえず駅の近くで入れそうな店を探す。
東口近くのプ○ントに入る。
飲めるし食べれるし、かといって騒がし過ぎもしない。女子(四十半ばではあるが)が入るのに抵抗がなかった。
「信也君に会ったんだって」
席につき、まだ食事の注文もしないうちに雅子は話しの核心をつく。
「えっと、そうね。本当に偶然ね。美佐江にライン入れるわよ」
恭子は今いる場所を美佐江にラインで送る。すぐに既読がつき、了解とスタンプが送られてきた。
「私、ビール。恭子は? 」
「私も」
いつの間にか店員を呼んでいた雅子は、適当に食べ物も注文し、ビールを二杯注文した。
「信也君、あまりふけてなかったでしょ」
「うん、そうね。あまりかわってなかったわ」
「相変わらずいい男だったでしょ」
「そうかもしれないわね」
「病院でも看護婦さんに凄く人気あるみたいよ」
「そう……」
雅子は何を言いたいのだろう? 海江田が看護婦に人気であるなんて情報知りたくないし、既婚者なんだからいくら人気ごあったってダメではないか。
恭子が明らかにムッとした表情になり、雅子はビールを一口飲んでニヤニヤする。
「ほら、うちの旦那もだけど、マスクマジックっていうの? マスクしてると五割増しでよく見えるのよね。信也君なんて、王子様に見えてるんじゃない? 」
「バカなこと言わないで」
「あら、今の子は本当に積極的なんだから。いいなって思っただけでガンガンくるのよ。年の差なんて気にしないんだから」
「知ってるわ。私の回りには若い子ばかりなんだから」
「それもそうね。大学教授ですもんね。うちの旦那なんて、この前患者さんに告られたらしいわ」
「えっ? 若い子? 」
「いや、おばさん。って、私と同じ年くらいみたいだけど」
笑って話す雅子は、なんとも余裕である。
「それでどうしたの? 」
「どうもしないわよ。あの人、恋愛体質じゃないもん」
そこへ美佐江が合流し、美佐江はオレンジジュースを頼み、再度乾杯した。
「で、何を話してたの? 」
恭子が松枝の話しをしようとすると、先に雅子が海江田のことを話してしまう。
「うっそ、信也君と再開したの?どうだった? どうだった? 」
美佐江は前のめりになる。昔と違って丸くなった美佐江が顔を寄せてくると、なんとも圧が凄い。
子育てに追われている美佐江にとって、他人の色恋沙汰が大好物だった。ご近所の誰が浮気しているとか、先生と父兄が怪しいとか、色んな情報を網羅していた。
「信也君って、今シングルファーザーなんじゃなかった? 奥さん、出てっちゃったんでしょ?」
「美佐江! 」
「……そうなの? 」
雅子ではなく、何故その情報を美佐江が持っているかわからないが、美佐江はおつまみのハムをまとめて口に入れてムシャムシャ食べる。
「そう、去年ね、離婚が成立したの。奥さん、五年前に後輩のお医者さんと不倫して家出ちゃったの。子供置いてね」
「酷い……」
雅子がその話しのを恭子にしなかったのは、それなりに気を使っていたからだったのだが、美佐江にばらされてしまったことだし、再開した今、話しておこうと思った。
「それにしても、美佐江よく知ってたわね」
「うん、チビの習い事のママ友がね、信也君の勤めている病院にかかってて、たまたま主治医だったみたい。ママ友は看護婦さんから聞いたって言ってたけど。なんかね、もうすぐ実家の病院に戻るとか戻らないとかで、看護婦さん達は目の色変えて猛アピールしてるみたいよ」
凄い情報網だ。
「あんた、色々知ってそうね」
「やだ、たいしたことは知らないわよ。看護婦の斎藤さんとやらが信也君争奪戦で突出してるとか、患者さんでも信也君狙ってる人が女性だけじゃないとか」
「女性だけじゃない?!」
聞き捨てならないと、雅子が食い気味に乗り出してくる。
「ほら、自分の娘とか、親戚とか、オジサン達にも狙われてるみたいよ。お見合い写真が、仕事場の机に山積みだとか」
「噂でしょ? 」
「斎藤さんってのはマジらしいよ。なんか、信也君ちにお泊まりまでしてるって、言いふらしてるらしいし」
恭子はふーんと興味のないふりをしていたが、心中は穏やかではなかった。
今さら、今さらなんだから……。
恭子はつい先日会った海江田の姿が頭から離れなかった。
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