第226話 番外編 恭子先生の今 1

 海江田から連絡がこなくなってすでに二十年近くが過ぎていた。

 もちろん、いまだ修平との再開は叶わず、結婚どころか彼氏もいないまま四十を過ぎてしまった。

 偶然教え子の中に修平の息子の慧がおり、あのキラキラした初恋を思いだし、つい修平と慧がダブって見えてしまったが、その関係も一瞬で終わってしまった。


 身体の関係を拒んだから……きっとあの子は若い彼女に戻ってしまったんだろう。修平先生のキスを拒んで修平先生を失ってしまったように……。


 恭子は、初恋と慧とのことを重ねて考えていた。

 しかし、だからといって海江田とキスの練習をしたようにSEXの練習をする度胸もなく、そこは無理! と素直に慧のことは諦めていた。修平と会わせてくれると約束してくれたし、慧との出会いは修平との再開に結び付く伏線だったんだと思うことにした。


 最近修平のことを考えると、同時に海江田のことも思いだし、ダブルで胸の奥がズキズキするのだった。大切な友達を失ってしまった惜別の念からなのか、それとは別の感情なのか、いまだに恭子は理解していなかった。


 海江田は、十年ほど前に結婚したと、海江田の結婚式に出た雅子から聞いた。彼のことだから、今頃は良い夫、良い父親として平穏に過ごしていることだろう。

 中西と美佐江は、海江田と会わなくなった次の春に中西の浮気で別れていた。しかも、浮気相手に子供ができたとか、かなりの修羅場があったらしい。後に浮気相手のデマだとわかったらしいが、その時には関係はこじれまくり修復不可能になっていた。今ではお互いに違う家庭の母親であり父親だ。

 雅子は……今は松枝雅子になって歯科医師夫人だ。松枝と雅子は付き合うことなく、いきなり結婚してしまった。いまだに親友のような夫婦関係で、夫婦仲はすこぶる良い。良すぎるせいか、残念ながら子供には恵まれなかった。


 恭子は部屋に飾ってあった写真(カラーコピー)を、懐かしく眺めた。

 まだ若い恭子と、海江田が笑顔で寄り添っている。あの遊園地の観覧車のところで撮った写真だ。捨てることができずに飾られた写真は若干色あせていた。


 恭子のスマホが小さく音をたて、ラインの着信を告げた。

 見ると、慧からのラインだった。


 慧:約束通り、親父と会わせる。来週末、学会で親父が東京にくるから、その時にお茶する約束をした。


 恭子の心臓がバクリと鳴る。

 念願だった修平との再開が叶う!


 すぐにラインをうつ。


 恭子:了解いたしました。場所と時間を教えてください。


 慧:土曜日、四時。場所は親父の泊まるホテル、スリーシーズンズホテルだ。二人で会うんでいいんだよな?


 恭子:結構です。それでお願いします


 慧との久しぶりの会話はそれで途絶えた。しかし今はそんなことよりも、修平に会えるという嬉しさが勝った。

 やはり自分には修平しかいないんだと実感する。


 恭子は、スマホの電話帳から行きつけのエステの電話番号を開くと、すぐに予約をいれた。


 ★★★


 スブリングコートを片手に、恭子は淡い紫色のワンピースを着てホテルのラウンジに座っていた。約束の時間よりも二時間も早い。

 昨日はドキドキし過ぎて眠れなく、多少のクマはコンシーラーで隠したが、化粧が濃すぎないか心配だった。

 素っぴんの若い恭子しか知らない筈だから、老けたとは思われたくない。真っ赤な口紅は避け、薄めのピンクのグロスで若々しさをアピールした。


「恭子……ちゃん? 」


 後ろから声をかけられ、修平かと思い思いきり立ち上がる。

 しかし、振り向いた先にいたのは修平の面影のない全くの別人で……。


「……」

「恭子ちゃんだよね? 高林恭子ちゃん。僕だよ、海江田。ああ、もう高林じゃないのかな」

「いえ、高林です。……信也君?」


 目の前に立っていたのは、多少老けたものの、いまだにスマートで若々しい海江田だった。


「そう。恭子ちゃん、変わらないね。すぐにわかったよ。わざと前とか通り過ぎてみたりしたんだけど無反応だったから、失礼かなって思ったんだけど声かけちゃったよ。僕、わからないくらい老けたかな? 」

「ごめんなさい、ちょっと考え事していたから。信也君はかわらないわ」


 かわらない……というより、より年齢を重ねて魅力的になったように見えた。わずかに浮かぶ目尻の皺が優しそうな雰囲気を醸し出している。

 二十年ぶりと思えないくらい、お互いにあまりかわっていなかった。


「恭子ちゃんはこれから用事あるの? 」

「今待ち合わせしてて」

「まあ、そうだよね。じゃなきゃこんなところにいないか」

「信也……海江田君は? 」

「信也でいいよ。僕は学会がここのホールであったから。今休憩時間で出てきたんだ」

「学会……お医者様になったのね」

「ああ。恭子ちゃんは? 」

「私立の薬科大の教授してるの」

「教授? 恭子ちゃんが?! 」

「似合わないかしら? 」

「いや、こんなに美人の教授じゃ、生徒会は勉強に身が入らないだろう」

「いやだ……」


 それから十分ほど昔話しをして、スマホのラインを交換して海江田は休憩時間が終わり、名残惜しそうに去って行った。


 恭子はホーッと息を吐く。

 今日は修平に会いにきたのに、まさか海江田とも再開するなんて。もしかすると、修平と海江田は同じ学会に参加しているのかもしれず、それはそれで微妙だ。修平は海江田のことなんか知らないだろうし、海江田も修平の名字までは知らないだろうから、知らず知らず二人が話しているという可能性もある訳で……。


 それから二時間後、学会が終わったのかゾロゾロとスーツ姿の人達でロビーが溢れ、ラウンジにも流れてくる。その中の一人が、キョロキョロと辺りを見回していた。


「修平先生」


 恭子が立ち上がると、修平らしき人物がパッと笑顔になり近寄ってきた。

 修平は……年齢相応に年を取っていた。禿げてはいないが、白毛門が混ざっており、痩せてはいるがおなかは少しでている。


「いやあ、恭子ちゃん久しぶりだなあ。君は全然かわらないね」

「……お久しぶりです。修平先生は……も、おかわりなく」

「いやあ、もう還暦だからね。おじいちゃんだよ」


 還暦……。


 恭子は目眩を感じた。

 恭子よりもだいぶ上だし、おじいさんになっていて当たり前なのだ。イメージではダンディーな老紳士という感じだったから、あまりに普通な感じのおじいさんで、勝手に失望したというか……。


「ごめんね、これから打ち上げがあるから夕御飯は一緒にできないんだけど、ケーキでも食べようか? 恭子ちゃん、チョコレートケーキが好きだったよね? 」

「そう……ですね」


 甘い物が好きとか嫌いとかは特になかったが、修平がチョコレート好きだと知っていたから、お茶菓子はチョコレートケーキを母親に頼んでいたのだ。


 チョコレートケーキと共に、恭子は紅茶、修平はコーヒーを頼んだ。

 話しは中学生時代の恭子の成績や、修平の家庭教師をするにあたっての苦労話しなどになり、最後に会った日のことを懐かしそうに修平は思いだしながら話し出した。


「そういえばさ、僕が君の家庭教師を辞めるって話しをした時、君はイヤだって泣いてくれたよね。僕、ずっとあの時のことを謝ろうと思っていたんだよ」

「謝る? 」


 キスしようとしたことだろうか?

 それならば、突き飛ばしてしまったことを恭子も謝りたかった。


「私も……。あの時は突き飛ばしてしまってごめんなさい。とても驚いてしまったものだから」


 恭子は、あの時のことを思いだし、目の前にいる修平が若かりし頃の修平とダブって見えてくる。


「いや、君はお嬢様育ちで純情だったから、あれは仕方ないさ。僕が風邪なんかひいて、ふらついたりしなければ良かったんだ。熱のせいとはいえ、せっかく慕ってくれた君に嫌な思いをさせてしまって、本当に申し訳なかった」

「……風邪? ……熱? 」

「ああ。言い訳のようになるけど、九度近くあってね、フラフラしていたんだよ。君の気持ちにしっかりと向き合ってあげなければならなかったのに、ついよろけて抱きつく形になっちゃって……。本当によろけただけで、そういう意図はなかったんだ。追いかけて誤解を解きたかったんだけど、情けないことにあの後倒れてしまってね。きっと君は、婚約者もいるのに告白してきた中学生に不埒なふるまいをする最低な奴って、幻滅したんじゃないのかい? 」


 では、あれは……。


 恭子は、話しを整理しようと、紅茶をいっきに飲み干す。

 キスしようとしたことを誤魔化す為に、風邪をひいたとか嘘を言っているとも思えない。


 第一、よく考えればわかる筈だった。(慧と違って)誠実な性格の修平が、婚約者がいながら他の女に手を出す筈ないのだ。もし恭子と両想いで、恭子の元へくるつもりなら、婚約破棄してからきただろうし……。


「幻滅なんか……。修平先生は私の初恋の人ですから。私が……今でも好きですと言ったら、修平先生はなんと返してくれますか? 」


 修平は、ケーキを一口食べると穏やかに微笑んだ。


「そりゃ、嬉しいですよ。こんな若くて魅力的な女性に恋愛感情をもたれて、舞い上がらない男はいないです。でも、僕は今の家庭を壊すつもりはないし、誰に対しても不実な男にはなりたくないです。僕はおじいちゃんで、妻はおばあちゃんで、もうドキドキするような恋愛感情はないのかもしれませんが、それとは別の三十年近く積み上げてきた歴史があります。それはとても重いんです」


 つまりは、恭子が入り込む隙間はないと言っているのだろう。

 きっとあの時も、恭子が逃げ出したりしなければ、修平は修平の言葉で恭子が納得できるような別れの言葉をくれた筈で……。


「ありがとうございます。やっと失恋することができました」


 あの時のように涙を流すこともなく、恭子は心から笑顔を浮かべることができた。


「いいえ。こんな僕のことを好きだと言ってくれて、本当に嬉しかったし、まだ枯れていないんだって自信になりました」

「修平先生は本当に魅力的だと思います」

「ありがとう」


 修平が差し出してきた手を握り、固く握手を交わす。その少しかさついた掌に、もうドキドキすることはなく、修平とのキスを夢見ていたこともすっかり過去のことになっていた。





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