第211話 松田麻衣子になった日【完結】
地元から帰った慧は、麻衣子が帰ってくるまで爆睡した。いや、帰ってきたのに気がつかずに爆睡していた。
「ただいま~? 」
鍵は開いているし、リビングの電気もついているというのに、いつもの慧の定位置であるソファーは空だった。
少し仕事を早めに終わらせて帰ってきた麻衣子は、恐る恐る家を探索し始めた。まさかと思うが、強盗とかに入られたんじゃないかと不安になったのだ。
寝室の扉を開けて中を覗くと、慧がうつ伏せで倒れていた。
「慧君……慧君?! 」
麻衣子は慌てて寝室に入り、慧を揺さぶると、慧はうーんと声を上げてゴロリと上向きになる。寝てるだけだとわかった麻衣子は、ホッとしながら慧の頬をペチペチ叩く。
「もう! 鍵は閉めてって言ってるでしょ」
「あ……あぁ、お帰り。今、何時だ? 」
「まだ七時。早く帰ってきたの」
早くと言っても定時は過ぎているのだが、いつもの麻衣子からしたら凄く早い方だ。
「ご飯作るね」
「ああ」
部屋着に着替える麻衣子の後ろ姿をボーッと見つめ、窓の外を確認して、慧は次第にはっきりする意識で夕方の七時かと理解する。七時と言われた時、朝の七時か夜の七時か理解できていなかったのだ。
麻衣子は鶏肉の煮物と厚揚げの揚げ浸し、味噌汁と簡単な酢の物を作ってテーブルに並べた。ご飯をよそいながら慧を呼ぶ。
「慧君、出来たよ~」
慧は返事もなくリビングにくると、食卓の前に座る。
平日のこの時間に二人で夕飯を食べるのは久しぶりだった。
「今日、埼玉行ってきた」
「大学は? 」
「サボリ」
「何でよ? 」
慧は立ち上がると、かけてあったコートのポケットから一枚の紙を取り出してきた。
「これを書いてもらうのと、まあ戸籍謄本をもらってきた」
「これって……」
麻衣子は箸を置いて、慧がから紙を受け取った。
婚姻届け?!
しかも、夫になる人の欄には慧がすでに記入済みで、証人の欄にもきちんと二人署名捺印されている。
「どうしたの、これ?! 」
「だから、今日書いてもらいに行ってきたんだって。おまえ知ってるか? 婚姻届けだけじゃ結婚できないんだぜ。戸籍謄本が必要なの。おまえ、取り寄せとけよ。あと身分証明する書類も必要だってよ。」
「ああ、うん。……じゃなくて、いきなり婚姻届けって……」
「いきなりじゃねぇだろ。俺がプロポーズして、おまえは受けたんだから、次は入籍じゃないのか?」
「いや、そうかもだけど……。ほら、親に了解もらったり、両家顔合わせとか、結婚式とか、色々あるじゃない? 」
「そういうめんどいのは後でいい」
慧はご飯をパクつきながら言い放つ。
「第一、うちの親は言うまでもなく大賛成だろうし、おまえの親は今更うちらに反対とかすると思うか? 」
「それはないだろうけど……」
確かに今では公然と同棲している訳だし、反対は絶対にないだろう。
「だったら、問題ねえだろ。親同士だって会ったこてあるし、顔合わせはなくたっていいっしょ。結婚式は、まあ、おまえとうちの親で決めろよ。俺は何でもいい。常識の範囲内でな」
結婚をOKして一週間弱でいきなり入籍になるとは思っていなかった麻衣子は、ただただ唖然として婚姻届けを見つめる。面倒くさがりの慧の最速の行動にも驚いた。
「とにかく、書けって」
食事を食べ終えた慧が、珍しく自分で食器を片付け、テーブルを拭き(麻衣子はまだほとんど手付かずだったから、自分の前側だけであるが)、そこに婚姻届けと黒のボールペンを置く。
これを書いたら、明日からでも松田麻衣子になるのだろうか?
(実際に松田麻衣子になったのは、母親に送ってもらった戸籍謄本が届いた後であった)
麻衣子はボールペンを握り、緊張した面持ちで妻になる人の欄に自分の名前を書いていく。
「証人、元君に頼んだんだね。上野和磨って? 」
「琢磨の親父さん。昔から世話になってんだ」
「ああ、琢磨君のお父さんか。和磨さんって言うんだね。本籍、正しい書き方がわからないわ」
「それは戸籍謄本きてからでいいをじゃね? 」
本籍だけをとばして後は全て埋める。判子を持ってきて判を捺した。
「よし! うんじゃ、うちの親にはこの写メでも送っておくから、おまえは早目に戸籍謄本もらえよ」
「えっ? 写メだけ? 」
「電話したらうるせーじゃん」
慧は早速婚姻届けの写真を撮り、ラインで母親の紗栄子に送る。すぐに既読がつき、麻衣子の電話が鳴る。
『はい、麻衣子です』
『麻衣ちゃん?! 結婚決まったの? 』
慧の電話にかけても電話に出ないと思ったのだろう。紗栄子の明るい声がスマホから響く。
『すみません、ご報告する前にあんなの書いて。まだうちにも言ってないし、必要な書類も揃ってないから、とりあえず書いただけですが』
『そんなのいいのよ! すぐに出してしまいなさい』
『いえ、書類が……』
『書類って……戸籍謄本か。新潟にあるの? 』
『はい。この後母に電話して、送ってもらうつもりなんですが』
『まあまあ! 私も麻希子さんに連絡しましょ。結婚式とかのご相談もあるし』
麻衣子が連絡する前に電話してしまいそうな勢いだったので、明日以降に連絡してくれるように頼んで電話を切った。
「な、別に同意とか必要ないだろ? 顔合わせだって、多分うちの母親が勝手に新潟行くと思うぜ。あの人、思い立ったらすぐに行動するタイプだから」
慧とは真逆なタイプだというのは、見ていればわかった。母親の麻希子は行動力はあるし、社交的で人当たりがすこぶる良い。多少行動力がありすぎて、突っ走ってしまうところもあるようだが、悪い人では決してない。ぶっきらぼうで面倒くさがりの慧とは似ていない……と思っていたが、慧もいきなり婚姻届けまで用意するあたり、似ていなくもないのかもしれない。
麻衣子は大きく咳払いをすると、今度は自分の母親に電話をかけた。
どうにも上からおさえつけられて育ったせいか、自立した今でも母親と話すとなると緊張する。結婚を駄目だとは言わないだろうが、何かしら文句は言いそうだし、働いている母親のにわざわざ市役所まで行ってもらうのも気が引けた。
取り寄せるっと方法もあるし、とりあえず今回は結婚の報告だけにしよう……そんなことを考えていると、テンションの低い声で麻希子が電話に出た。
『はい』
『母さん、あたし、麻衣子』
『わかってるわよ。どうしたの』
仕事の帰り道なのか、母親の声の後ろが騒がしい。
『あのね、実は……』
『何? 手が寒いから早く話して』
どうやら、スマホに出る為に手袋を外し、そのまま電話をしているらしい。新潟でそれは確かに寒いだろう。
『あのね、結婚することにした』
『そう。……子供? 』
『まだよ』
『ならいいわ。籍はいついれるの? 結婚式は? 』
『結婚式はまだ決めてないけど、婚姻届けは書いた。戸籍謄本を取り寄せたら出すつもり』
『何、もう取り寄せたの? 』
『まだ』
『なら、明日仕事の昼休みに行ってきてあげる。速達で送るわ』
『いいよ、急いでいる訳じゃないし、仕事忙しいでしょ? 』
『大丈夫よ。用事はそれだけ? 』
『うん』
『じゃあ切るわよ』
おめでとうの一言もなかったが、頼んでもないのに戸籍謄本を取りに行ってくれるというのだから、賛成でいいのだろう。
それから三十分後、麻希子からラインが届いた。
麻希子:結婚おめでとう。言い忘れてしまったわ
麻衣子はその文章を読んで、ジワリと涙が浮かんでくる。
麻衣子:ありがとう
すぐに既読がつき、麻希子とのラインはそれで終わる。
それから三日後、一生のうちですでに二回名字の代わっている麻衣子は、四度目の名字、松田麻衣子になった。
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