第210話 婚姻届け

 昨晩、寝たのは夜中の四時を過ぎていた。

 起きたのが六時半だから、ほとんど寝た気がしない。


 麻衣子は欠伸を噛み殺して、目の下のクマをコンシーラーで隠して念入りに化粧をした。寝不足の割には化粧のノリが良い。肌がしっとりとして、透明感がある。


 このところ毎晩の寝不足で、さすがの麻衣子も疲労の色が隠せない。昼休み一時間仮眠しているものの、平均睡眠時間二~三時間、これが五日間続いている。しかし、これも今日か明日までだ!

 麻衣子は指折り数えて心底ホッとする。


 そう!

 生理さえくれば、ゆっくり寝られるのだ。


 もちろん、麻衣子がきちんと慧を拒めばいいだけの話しなんだろうが、一回だけなら……とズルズルと深夜を回り、気がつけば明け方という流れを断ちきれない。


 学生の時と違って、仕事中にボーッとする訳にもいかない。慧は授業中に寝てしまっているんじゃないかと心配になる。


 化粧も終わり、朝食を作り、慧を起こす。


 きっとこれから先ずっと繰り返される毎朝の光景なんだろうと思う。


 ★★★


 初めて大学をサボった慧は、電車に乗って実家のある駅で降りた。

 何をしに来たか……実家の両親に会いに来た訳ではない。

 誰よりも面倒くさがりの慧が、自力でこんなところまできたのは、ある書類を取りに来たのだ。


 戸籍謄本。


 すでに婚姻届けはポケットに入っている。

 朝一で区役所へ行きもらってきたのだが、その時に婚姻届けを提出すればすぐに結婚ができる訳じゃないことを知った。

 印鑑はともかく、戸籍謄本や本人確認の書類、届けには証人が二人も必要らしい。婚姻届けに判子を捺せば、すぐに結婚できると思っていた慧の第一声は「ウザッ! 」だった。

 もちろん、役所の職員の顔がひきつったのは言うまでもない。


 せっかく大学をさぼって役所に来たのだから、ついでに戸籍謄本も取りにこようと、地元くんだりまで足をのばしたという訳だ。


 無事に戸籍謄本をゲットした慧は、その足で地元商店街へ向かった。琢磨は仕事でいないだろうが、家業を手伝っている奴ならつかまるだろうし、チャッチャと判子を捺してもらい、早く家に帰って昼寝をしなくては!


 そう、慧もまた睡眠不足は限界をむかえていたのだ。


 準備中の札が出ているが、気にせず慧は居酒屋知恵のドアを開けた。


「すいませーん、まだ準備中……って、慧じゃん?! どした? 」


 元が仕込みをしていたのか、厨房から顔を出した。


「おう! ちょっと時間いいか」

「ああ、どしたよ」


 元はカウンターの中まで出て来て、カウンターに座った慧の前に温かいお茶をだしてくれた。


「実はさ、これに判子を捺して欲しいんだ」


 慧はポケットから婚姻届けを取り出すと、元の前に置いた。


「これって……」


 慧のところだけ書いてある婚姻届けを手に取り、まじまじと見つめた。


「婚姻届けだ」

「だな……。そりゃ俺は慧とは付き合いも長いし、慧のこと親友だって思ってるけど……、これを俺が書くのか? 」


 元はいつものおちゃらけた表情から、眉間に皺を寄せ、しごく真面目な表情になっている。


「四の五の言わずに判子を捺せ!」

「いや、まあ、捺せったってさ、さすがに俺は女の子と結婚したいよ。それに男同士はさすがに受理されないと思うし。俺、彼女いるし」


 慧は何を言われているかわからず、ポカンとして元を見つめたが、すぐに馬鹿な元がどこに判子を捺そうとしているか気がついた。


「ほんとバカだな! 誰がの欄に判子を捺せっつったよ?! お前が捺すのはこっち! 」


 慧が証人の欄を指差す。


「ああ!! 証人ってなんだ? 身元引き受け人みたいなもんか? 」

「犯罪者じゃないんだから。ただの証人だよ。俺達が結婚するのを認めた人間ってだけ。保証人でもないから、気軽に判子を捺せばいいんだよ」

「そうか……。俺がおまえの結婚を認めたのか。なんか、偉くなった気がするな」

「もう……、いいから書けって」


 元は言われた通りに証人の欄に色々書き、判子を捺す前に手をピタリと止めた。


「また何だよ? 」

「おまえさ、これって嫁さんの欄が空欄だけど、相手は麻衣子ちゃんだよな? 」

「んだよ、当たり前だろが。二ヶ月前に正月連れて帰ってきただろ。そこから別れて新しい女見つけて電撃結婚とか、あり得ると思うか? 」

「まあ、ないな。 なら、よし!許可してやるよ」


 元が判子を捺した途端、慧は婚姻届けを引ったくる。


「サンキュー! もう一人見つけてくっから」

「おいおい、おまえ側だけの証人でいいのかよ? 」


 そっこう店を出ようとした慧を元が呼び止めた。


「駄目なのか? 」

「駄目じゃないかもだけど、やっぱりそこは平等に一人づつ見つけてくるもんじゃねぇの? 」

「そりゃ構わないけど、あいつが相手探してたら時間かかんじゃん」

「時間かかったら駄目なのかよ?」


 慧はムウッと黙り込む。

 まさか、これから先ずっと生でやりたいから、なる早で婚姻届けを出したいんだ……などと思っていることを口に出すのも躊躇われる。まあ、慧らしいと爆笑されるだろうが。


「まあいいや。思い立ったら吉日って言葉もあっからな。で、結婚式はいつやんの? 二次会は? うち貸し切りOKよ」

「そういうのは、麻衣子とうちの母親が決めんじゃね? まあ、二次会は頼むかもな」

「日付決まったら早く教えろよ」

「了解」


 居酒屋を出ると、慧は回りをキョロキョロと見回す。

 もう一人の証人を麻衣子に頼んだら数週間かかるかもだし、別に慧一人で証人を決めても麻衣子は気にしないだろうと思った慧は、手近でもう一人を探す。


 最初母親も考えたが、知らせたらガンガン言ってきそうだし、面倒くさいことこの上ないので却下した。

 康介の八百屋を覗いたが、幸助は配達に行っていていなかった。琢磨はいないしなあと思いながら自転車屋を覗くと、琢磨の親父さんが自転車の修理をしていた。


「慧じゃねぇか。何だよ、今日は休みか? 」

「いや、サボリ」

「相変わらずだなぁ。学生さんは気楽でいいやね」


 小学生の低学年の時は、みんなでここに集まって、琢磨の親父さんの仕事を飽きずに見ていたものだ。高学年になると、自分の自転車を親父さんにチューンアップしてもらい、自分達仕様にして走り回っていた。中学生や高校になると色気づき、まあ裏の小屋を無断でラブホ替わりにさせてもらっていた訳で……。


 よく考えると、上野自転車店は慧の人生に深く関わってきている。


「おっちゃん、お願いがあんだけど」

「なんだい? 俺にできることかい? 」

「ああ、ちょちょっとサインして判子を貰えればいいんだよ」


 親父さんは眉をしかめたが、グッと拳を握りしめると立ち上がった。


「わかった。判を捺そうじゃねぇか。書類持ってこい! 」


 店の奥から居間に上がると、ゴソゴソと棚をあさり、判子を手にして振り返った親父さんの手は若干震えていた。


「ほら出せ! おまえは俺の息子同然だ! 小ちゃい時から知ってるしよ、風呂場でおまえの皮をむいてやったのも俺だ! 」

「おっちゃん、何の話しだよ」

「とっとと出せ! 母ちゃんには内緒の借金こさえたんだろ?連帯保証人くらいなってやらあ! ……でも、なるたけ自分で返せよ」


 親父さんが大きく勘違いしていることに気がつき、慧はゲラゲラと笑い出した。


「ちげーよ。ほら、これだって。借金の証書じゃなくて、婚姻届け」

「婚姻届け?! 」


 親父さんは、頭にかけていた老眼鏡を引き下げて、婚姻届けをまじまじと見る。


「ほら、ここの証人の欄に書いて欲しいんだよ」

「結婚……するんか? 」

「ああ、おっちゃんにも紹介したろ? 麻衣子だよ」

「ああ、あの可愛い子。本当におまえでいいって言ってくれてるのか? 」

「あんだよ。当たり前だろ」


 親父さんは慧の首をヘッドロックすると、大きく笑った。


「そりゃでかした! しかし何だ、おまえが判子なんて言うから、てっきり借金だと思っちまったじゃねぇか」


 それでも、いくらかも聞かず、判子を捺そうとした親父さんの心意気に、今更ながら男を感じた。


「頼むよ。俺もおっちゃんのこと本当に親同然に思ってるし、何よりも証人になってほしいし」

「おう! でもちょい待て! 着替えてくっから」

「そのままでいいって」

「いや、そういう訳にいくかよ。客が来たら、適当に待たせとけ」


 親父さんは家の奥に入ってしまい、なかなか戻ってこなかった。その間、空気を入れにきた客が二人いたが、勝手知ったる店の中。慧が替わりに空気を入れておいた。


「待たせたな」


 親父さんは風呂にも入ってきたようで、短髪を湿らせて一張羅のスーツを着て出てきた。


「どうしたよ、その格好? 」

「ははあ、どうだい。作業着以外も持ってんだよ。この間姪っ子の結婚式があってな。こしらえたんだ」


 イケメンの琢磨の父親だけあって、スーツを着るとビシッと決まる。


「カッコいいけどさ、いつものおっちゃんのがいいぜ」

「そうか? まあ、俺もそう思うがな」


 親父さんはニッと笑うと、ちゃぶ台の前に正座した。


「よし! 準備はいいぞ」


 目の前に婚姻届けを置くと、親父さんは一文字一文字丁寧に書き始めた。


 元に書いて貰った時より、何か引き締まる気分になった。軽く考えていた結婚が、重大な事柄なんだと実感する。


 力強く判子を捺した親父さんは、向きを慧の方へ向けて婚姻届けを返す。


「おめでとうな」

「うん」


 こんな親父になりたいな……とふと思った。



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