第195話 恭子の回想

 まだ中学生だった自分、今ほど自分に自信がなくて、男の人と二人っきりになると、すぐ赤くなって満足に話しもできなかった。


 恭子にも、そんなウブな時代もあったのだ。


 そんな時に、家庭教師として来てくれた松田修平先生に初恋をした。

 医学部を卒業して、大学院生だった彼。大人の男の人って感じがして憧れた。

 毎週火曜日と木曜日の勉強の時間が楽しみで、少し距離が近いだけで嬉しくて、鉛筆を持つ手が触れただけで大事件だった。


 一年間勉強を教えてもらい、修平先生が大学院の卒業論文執筆で忙しくなった時、家庭教師を辞めさせて欲しいといきなり言ってきたのだ。責任感の強い先生だから、次の家庭教師を紹介しますとおっしゃられたけど、私は受け入れることができなくて、泣きながら嫌です嫌ですと駄々をこねたのよね。

 そんな私をそっと抱き締めてくれて、頭を撫でてくれた。


「私……、修平先生が好き」

「……」

「本当に大好き」

「……ありがとう。でもごめんね。婚約者がいるんだ。卒業したら結婚するつもりなんだ」

「そんなの嫌! だって、修平先生いつも私のこと可愛いって言ってくれてたじゃない。あれは嘘だったの? 」

「嘘なもんか、恭子ちゃんは本当に可愛いと思うよ」


 修平先生は戸惑っていらっしゃったようだけど、涙で潤んだ瞳で見上げたら、優しく微笑んでくれたわ。

 私を抱き締める手が熱くて、顔も少し火照ってらした……と記憶してる。(実は熱があり、意識朦朧としていた慧父だが、そんな慧父の事情を恭子は知らない)


「修平先生……」

「……」


 この時だったわ!

 修平先生がよろめいたように私に顔を近づけていらして……。(実際は熱で倒れる寸前だっただけ)唇が触れるか触れないか……という瞬間、幼かった私は修平先生を突き飛ばしてしまった。


 後でどれだけ後悔したか!


 あの時、婚約者ではなく私を選んでくれた筈なのに、だからキスしようとなさったんだろうに、少しの羞恥心と恐怖心で、修平先生を失ってしまった。


 結局あの後、修平先生がご結婚なさったと聞き、それでも諦めきれずに、あの時のやり直しをする為に猛特訓したわ。


 そして、やっと手に入れたのよ。

 修平先生の代わりに、あの子を!


 それが、また違う女に奪われるの?

 私より若いってだけの女に?!

 そんなの真っ平ごめんだわ!!


 ★★★


「……先生、恭子先生? 」


 佳奈の小さな目が、握り拳を握った恭子を見上げていた。


「あ……ああ、佳奈ちゃん」


 空を睨んでいた恭子の焦点が佳奈に合う。一瞬、気分は中学生に戻っていたが、嫌な現実が目の前にあった。


「ね、これが松田君の彼女の麻衣子さん。綺麗な人でしょう? 」

「そうね(あなたよりはね。私はまだ負けないわ! )」

「そうだ! 松田君、子供ができたんですって」

「子供?? 」


 予想外の言葉に、恭子は耳を疑った。多分、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたのだろう。佳奈がそんな恭子を見て、何故か満足そうにうなずく。


「そう。たぶん、先生と仲良くし始めた時期じゃないかしら? できたの。ほら、やっぱり年齢考えたら、先生には子供は無理だものね」

「そんなこと! 」


 あまりに失礼な物言いに、恭子はワナワナと震えながら佳奈を睨み付けた。


「やだ、私が思っている訳じゃないですよ。全部そう聞いただけですから。誰とは、私の口からは言えませんけど……」


 まるで慧から聞いたような口振りだが、そんな会話はしたことがない。


「そう……。で、わざわざそれを私に伝えにきて、あなたに何かトクがあるの?! 」


 低い口調はドスがきいており、恭子の顔色から怒りが溢れ出ているのはわかる。


「私は、恭子先生がお気の毒で。ただそれだけです」


 そう言う佳奈の口角は上がっており、薄ら笑いを浮かべているように見えた。それが、余計に恭子の自尊心をえぐる。怒りで我を忘れそうになり、長い爪が掌に食い込む程手をギュッと握りしめた。確かに年齢的には難しいのかもしれないが、まだできる可能性はある。枯れたババアみたいな発言に奥歯がきしむ。


「ありがとう。でも、必要ないから。あなたの同情はね」

「あら、そんな酷いわ。私、恭子先生の味方ですよ。だって、今まで松田君との関係がバレなかったのは、私のおかげですもの。先生、さすがに次はアウトでしょ?教授職が危ういですよね? 」


 今までの学生との情事のことを臭わせる。確かに、だからこそ慧とは外ではいっさい会わなかったのだ。


「私を……脅してるの? 」

「まさか! してるんですよ。松田君だって、彼女に子供さえできなければ、先生とずっと一緒にいたと思うんです」


 佳奈は、わざとため息をついてみせる。


「先生の年齢を理由に、諦めようとしているのが見え見えで、痛々しいというか……。誘う行為を止めるように伝えてくれって言うのも、多分恭子先生への未練が断ち切れないからだと思うし。それに……子供だって本当に松田君の子供かも怪しいし」

「どういうこと? 」


 恭子は佳奈の真意を探るように、注意深く観察する。

 視線は常に恭子にありぶれることはなく、両手共に身体の前で自然に握られており、何かを隠すような素振りはない。緊張した様子も、気負った感じもない。

 佳奈の嘘八百を、ついつい信じてしまうくらい、あまりに堂々とした態度だった。

佳奈の言っていることは思い込みと嘘で固められていたのだが、真実だと思い込んで話すことで、真実味があり信じ込ませる迫力のようなものまであった。


「だって、先生と松田君が逢い引きするようになってから、松田君、彼女に手を出していないって言ってましたもの。それくらい、あなたに本気だったって」


 恭子の目が潤んだように輝き、自信を取り戻したように表情が柔らかくなる。


「そうよ、彼は私に夢中だった筈。……じゃあ、何で? 」

「さあ? 彼女が松田君を取り戻す為に嘘をついたか……松田君に相手をしてもらえない間に浮気をして失敗したかじゃないですか? 」

「酷い! それを、慧君は自分の子供と? 」

「ええ! 信じちゃってますね」


 恭子はうつむいて爪を噛む。


「もしかしたらですけど、クリスマスパーティーに松田君、彼女連れてくるかもですね」

「えっ? 」


 恭子が顔を上げると、佳奈がニンマリ笑う。


「わからないですけどね。友達の女の子が、松田君に彼女連れてくればって言ってたので」

「そう……」


 これで、恭子がどう動くか?

 慧に対してか麻衣子に対してかわからないけど、きっとしつこく何かしらのアピールをしてくれることだろう。


 とにかく嫌がらせの種を蒔き、最後には麻衣子の妊娠の相手が慧じゃないことを暴露し、二人の仲を壊す!


 それが佳奈の復讐だった。

 自分が傷ついた分、慧にも同等以上に傷ついてもらわないと気がすまなかった。


 ★★★


 スマホゲームをやりながらソファーに寝転がっていると、玄関のチャイムが鳴った。


 最初は無視していたが、しつこくチャイムが鳴るため、麻衣子が鍵でも忘れて出掛けたのかと思い、舌打ちしながら玄関へ向かった。


「うるせーよ。っつうか、鍵開いてんじゃ……ん」


 ドアを開けると、目の前には佳奈が立っていた。


「何、おまえ」

「私……謝りにきたの! 」


 いきなり目の前で佳奈が大きく頭を下げた。


「は? 」

「実はあの盗聴器、私が仕掛けたの。あの時は慧……ううん松田君の知り合いもいたから言えなくてごめんなさい」

「あ……うん」


 まさか、佳奈が自分から自白するとは思っていなかった慧は、気が抜けたような返事になってしまう。


「私、松田君のことが好き過ぎて、つい出来心で……。でも、もう盗聴なんて絶対しないし、松田君ともちゃんと友達に戻りたいと思って! 恭子先生とのことが終わったんなら、私と恋人のフリも必要ないもんね」

「ああ、うん、まあ、そうだな」


 佳奈は勢い良く頭を上げ、慧の手を両手でしっかりと握る。


「やっぱり松田君はいい人ね! 私が好きになっただけあるわ! こんな私を許してくれるなんて……」


 慧は、反射的にその手を振り払う。


「いや、もういいって。俺に関わらないでくれたらそれでいい。マジで、勘弁」

「それでね、あの盗聴器だけど……」

「ああ、もう捨てた。いらんだろ? あんなの」

「捨てた? (そんな筈ないわ)」

「捨てた。ダメだったか? 」

「ううん、いいの! それでかまわない。(絶対ウソ! 証拠としてとっておこうってのね?! なんて嫌な奴!! )」


 佳奈は、口の端でだけ笑顔を作りながら、慧のことを心中罵った。

 そう、佳奈は謝りにきたのではなかった。

 謝りったフリをして、盗聴器を回収に来たのだ。

 しかし、慧が渡そうとしない(本当にすでにゴミ回収車がどこぞかへ運んでいった後である)為、次の目的に移ることにした。


「私、麻衣子さんにもちゃんと謝って、クラスのみんなの誤解も解きたいの! 」

「いいよ、面倒くさい」

「ダメよ! 」

「第一、麻衣子には盗聴器のこと言ってねぇし、先生とのことは言ったけど、おまえのことは何も言ってねぇし」

「それでも、ちゃんとしないと私の気がすまない。麻衣子さんは中? 」

「まだ帰ってねぇ。いつも終バスくらいだからおせぇよ」

「それくらい待つわ! 」

「迷惑」

「……じゃあ、麻衣子さんをクリスマスパーティーに連れてきてくれる? そこでしっかり謝罪するから。じゃなかったら帰れない! 」


 佳奈に居座られたら困る慧は、しょうがなく承諾する。


「絶対よ! 約束したからね! 」

「わかった。わかったから帰れよ」


 佳奈を無理やり押しやり、ドアを閉めて鍵をかける。

 いつもは滅多に鍵など閉めないのだが、チェーンまでしっかりかけた。


 リビングのインターホンで玄関前の様子を確認し、帰っていく佳奈の後ろ姿を見て安堵する。


 マジで、予想外な動きしやがる!

 この際、何もしねぇのが一番の謝罪だってわかんねぇかな?


 インターホンの画像を切った慧は、大きくため息をつき、しゃがみこんでしまう。


 大学のクリスマスパーティーに麻衣子を連れて行かないと、また家にまで押しかけてきそうだし、もうチャッチャと謝罪とやらをしてもらって、佳奈にはフェイドアウド願いたい。慧の心底からの願いだった。


 盗聴器回収以外の佳奈のもう一つの目的、それは麻衣子をクリスマスパーティーに呼ぶことだった。

 麻衣子がいつも仕事で遅く帰ることは盗聴して知っていたし、念には念を入れて、この寒い中夕方からマンションの前で張っていたから、まだ麻衣子が帰宅していないのもわかっていた。今ここで会えたら意味がない。麻衣子を大学へ、恭子のいる大学へ連れ出すことが重要なんだから。


 佳奈は、鼻歌を歌いながら暗くなった公園をつっきってバス停へ向かった。

 佳奈には、変質者も痴漢も現れるこてはなかった。

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