第184話 慧との久しぶりの会話

 まだ七時を回ったばかりだというのに、窓の外は真っ暗だ。

 麻衣子が入店した時はまたかろうじて空いていた店内も、夕食の時間になり、ほぼ満員、待っている親子連れもいる。一人で四人席を占領しているのは心苦しいが、今店を出て家に帰る訳にもいかない。


 大学で同期の美香は地元に帰り就職してしまったし、多英と沙織とはあまり連絡をとっていなかった。理沙は拓実と同棲し初め、来年には結婚するらしい。

 誰にも連絡できず、ただ一人時間を潰すしかない。

 杏里に愚痴るのも、姉としてかっこがつかない。

 あと一週間、時間潰しに頭を悩ませるのか……と思うとゾッとする。


 一度、同棲を解消しようか?


 麻衣子には、杏里の大学資金にと貯めていた貯金もあるし、四月からの給料もそんなに使っていない。かなりな貯金額はあり、独り暮らししながらの貯金も可能なくらいの給料はもらえていた。


 同棲の解消……それは慧との別れを意味しており、いまだにそれには踏み切れない気持ちが大きい。


 別れたくないよ……。


 気持ちが違う人に向かってしまったのだから、修復は不可能だと思う気持ちと、別れようとか同棲解消を言われてないから、まだ望みがあるという気持ちが交差し、感情のアップダウンにほとほと疲れてしまう。


 窓の外の流れていく車のヘッドライトを眺めながら、麻衣子は自分を見つめる視線には気がつかずにただボーッとしていた。

 いきなりボスンッと音がし、驚いて正面を向くと、怒ったような顔の慧が座っていた。


「……さ……とし……君」


 喋っていなかたたからか、うまく声がでなくて喉に引っかかるようなしゃがれた声になってしまう。


「おまえ、何してんだよ」


 久しぶりに聞いた慧の声は、いつも通り無愛想なもので、たった一週間話してないだけなのに、懐かしくて涙が出そうになる。


「お夕飯を……」


 慧は、麻衣子の目の前に置いてある食べ掛けのサラダの皿を見て、フンッと鼻を鳴らす。


「俺も食う」


 慧は煮込みハンバーグセットとビールを頼み、ビールがくると乾杯もせずにグビッと喉を鳴らして飲む。料理がくる前に一杯飲みきり、お代わりを頼むと料理と一緒にきた。

 ガツガツ食べる様子は、何も悩みなどないようで、食が進まない麻衣子からしたら、見ているだけで胸焼けがしそうだった。


「食うか? 」


 半分程食べたところで、麻衣子をチラリと見上げるようにして言った。麻衣子が首を横に振ると、それ以上勧めることもなく完食してしまう。麻衣子と顔を合わせなかった一ヶ月も、慧の食欲は落ちることがなかったらしい。


「おまえ、それしか食べないのか? 」

「うん、ちょっと胃の調子が悪いのかな……食欲なくて」


 久しぶりの会話だというのに、慧の態度は相変わらずだ。なぜ、麻衣子がここにいたかも聞かず、待ち合わせでもしていたかのように食事をし、たいした会話もせずに目の前に座っている。


「慧君は、食事をしにきたの? 」


 麻衣子が仕事をしてから、平日に夕飯を作れたことがなかったから、慧はちょくちょくここに食べに来ているのかもしれない。慧に顔を合わせないようにするには、チョイスする場所を間違えたかもしれないと、麻衣子は少し後悔していた。


「いや、別に……」


 別に?

 食事じゃなく、ファミリーレストランになんて、何しにきたのだろう? まさか、飲みに来たとか?


 麻衣子が怪訝そうに慧を見つめ、その麻衣子の青白い顔色を見て慧は不機嫌な顔をより険しくさせた。


 ★★★


 六時ちょい前に大学を出た慧は、佳奈のうっとおしい追撃を振り切り、恭子の部屋へ訪れることもなく、家に帰るためのバスに乗っていた。


 恭子は今日も淡いグロスでテカテカの唇で講義していたが、慧はあえて見ないようにしていた。

 麻衣子に話してから、一度も恭子と二人きりになることはなく、数回の呼び出しも無視していた。

 あの日から、何かが慧の中で変わってしまったようで、麻衣子に話した時はまだ恭子に対する執着のようなもので頭がいっぱいだったが、寝室を移り、自分の時間が増えることにより、冷静に考える時間が増えた。


 恭子は最初から父親の代わりに……と言っていた訳で、勝手に自分の中で恭子の甘い囁きを自分へ向けてのものだと思い違いしていたのだ。それに勝手にショックを受けて、麻衣子に意味不明な(浮気の)告白をしてしまい、家庭内別居状態の今に至る訳だ。

 たかだかキスが上手いだけで、のめり込んでしまった(慧的にはあれが恋愛だったと認めたくはなく、失恋したことで気持ちが覚めたことには気がついていない)自分の幼稚さに、ほとほと呆れていた。まるで熱病のように、熱するのも早ければ、覚めるのも早かった。


 つまるところ、麻衣子に話したことにより、ツキモノが落ちたように、慧の中の恭子に対する恋愛熱はストンと覚めて、何で自分はあんなにのめり込んでいたをんだ? と、客観的に自分を見れるようになっていた。


 そんな慧が、麻衣子といまだに家庭内別居状態を続けているのは、麻衣子に対する気まずさと、謝るタイミングを逸してしまったからである。


 いつもならバスの中で携帯ゲームをいじっている慧が、珍しくバスの窓の外を見ていた。次が下りる停留所だというのもあったのだが、なんとなくゲームをする気分ではなかったからで、慧の視線が麻衣子を捕らえたのは、本当に偶然と、慧の動体視力がいいからであった。


 あいつ、仕事じゃねぇのか?


 いつも仕事で最終ギリギリで帰ってくる麻衣子が、こんな時間に家の近くのファミリーレストランにいる筈がない。……そう思うものの、麻衣子を見間違える訳もなく、慧はバスを下り、マンションに向かって歩きながらも、窓際に座っていた麻衣子の横顔を思い返していた。


 マンションについて、しばらくソファーに座って麻衣子を待ったが、帰ってくる気配がなく、慧はとりあえず電話をかけてみる。仕事中もサイレントにしているだけで、麻衣子はスマホの電源を切ることはないのだが、電話はつながらずにすぐに留守電になった。

 慧は留守電を残すことなく電話を切り、イライラしたようにコートを着てマンションから飛び出した。

 公園を突っ切り、バス停を越えてバス通りを走る。さっき麻衣子を見かけたファミリーレストランにすぐつき、窓の外から麻衣子を確認した。


 やはり、間違うことなく麻衣子だった。


 慧は悩むことなく店のドアを開け、待っている家族連れに目をくれることなく麻衣子の座っている窓際の席を目指す。

 目の前に立ってみたが、麻衣子の視線は慧に向くことがない。

 わざと音をたてて麻衣子の目の前に座り、やっと麻衣子の瞳は慧を映した。


「……さ……とし……君」

「おまえ、何してんだよ」

「お夕飯を……」

「俺も食う」


 メニューに視線を移したのは、動揺を隠すためだった。痩せ細った麻衣子に……正直驚いた。たった一週間で、顔が一回り小さくなったように見えたし、いつもは化粧で大きく見せている目が、本当に大きく見えた。

 カップを持つ手首も、あんなに細かったか?


 適当に注文し、とりあえず先にきたビールをあおる。冷たい喉ごしに、頭がシャッキリする。


 食事をしながら、二~三会話したが、慧は麻衣子の青白い不健康な顔色が気になってしょうがなかった。


「おまえ、病院行ったか? 」

「病院? 何で? 」

「胃の調子が悪いんだろ? 病院行って薬もらえよ。顔色も悪いし、えらくやつれたじゃんか」

「薬は……いいよ。飲みたくないから」


 行くなら心療内科だろうし、原因は目の前にいる慧なんだが、麻衣子が自分が原因でそこまでまいっているとは思いもしない慧は、違う理由がふと頭に浮かぶ。


 もしかして……悪阻か?


 食事がとれないくらい気持ちが悪いのに、薬を飲みたくないって、そういうことか?

 部屋を別にしたのも、安静のためだったとか?

 安定期に入るまで、SEXは控えた方がいいって言うしな。


「帰るぞ」

「え? 」


 慧は、凄い勢いで残りのご飯をかきこむと、伝票を持って立ち上がった。麻衣子のカバンを肩にかけ、さっさとレジに向かう。


 とにかく家で休ませないと!


 慧の勘違いは慧の中では確信に変化し、すでに頭のどこにも恭子の存在はなく、麻衣子の身体のことで頭がいっぱいになっていた。

 慧を知っている人間ならば、多分誰も信じられないだろうが、慧はまだいない自分の子供に対して、想像以上の愛情を感じていた。

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