第182話 家庭内別居
愛理と夕食を食べ、二人で最終の電車に乗り、最終バスに乗り換える。
電車もバスも混んでいたが、二人で喋りながらなので、たいして苦痛もなかった。
いつもなら公園を迂回して帰る道も、二人だから公園の中を突っ切る。
「麻衣子さんがお隣りさんになってくれて、本当に良かったです」
「私も。引っ越して友達ができるなんて思わなかった」
まるっきり見た目の違う二人だが、地味で真面目な性格が共通しているからか、穏やかな友好関係を築きつつあった。
愛理は忠太郎の話しができるのが嬉しいらしく、忠太郎エピソードは留まることがない。それを微笑ましく聞きながら、チクチクと心が痛まないでもなかったが、社長の私生活を垣間見ているようで、意外でもあり面白くもあった。
仕事のことでも慧のことでもない会話は、麻衣子のささくれた心に一時笑いを届けてくれた。
マンションが見えてくると、愛理がピタリと歩くのを止めた。
「どうしたの? 」
「あれ……」
遠目でよくは分からないが、男性がエントランス前の花壇の縁に腰かけている。酔っぱらっているのか、うつむいて動かない。
愛理は元カレの大樹を警戒したようだ。
麻衣子が男性側になり、愛理と腕を組んで進む。
近くまでくると、麻衣子はホッとしたように緊張していた身体の力を抜いた。
「慧君」
麻衣子が声をかけると、慧がゆっくりと顔を上げる。
その顔は無表情で、怒っているようにも見えた。
「どうしたの? こんなとこで」
「待ってた」
麻衣子を……ということなんだろう。
麻衣子が愛理に先に帰ってと言うと、愛理は不安そうな視線を麻衣子に向けながらも、素直にうなずいてマンションへ入って行った。
「家に入る? 」
「少し歩こう」
麻衣子は逆戻りするように、慧の後について公園へ入る。
すでに12月。コートは着込んでいるが、寒い季節だ。
途中、暖かいコーヒーを買い、ポケットに入れる。最終バスが行った後だから、誰もいない公園のベンチは座り放題で、慧は電灯の真下のベンチに腰を掛けた。
麻衣子もその隣りに座り、慧の様子を伺う。
何かあったのは確実で、麻衣子の心臓がバクバク鳴る。
今なのか?
慧は何か決断をしたのだろうか?
「慧君……私に話したいことがあるのかな? それって……女の人の話し? お互いにさ、新しい環境になって、出会いもあった筈で……。ほら、海で会った西城さん? とか、慧君モテてるみたいだし、若い子とか多いだろうから、目移りしたくなっちゃうよね」
慧が話す前に、麻衣子はベラベラと話し出した。
その強張った横顔を見ながら、ああこいつは気がついているんだなと慧は悟る。
「若い女じゃねぇよ」
「は? 」
「浮気はしてない。身体の関係はまだない」
「まだ……か」
寂しそうな麻衣子のつぶやきに、慧は改めて麻衣子の顔を見た。
完璧な化粧は崩れておらず、化粧映えするその顔は、怒って赤くなっているのか、ショックで青くなっているのか分からない。
ただ、無理に笑顔を作ろうとしているのは分かった。
「親父が初恋なんだと」
「お父さん? 」
いきなり話しがそれたのかと、麻衣子は怪訝な顔をする。
慧は恭子のことをポツリポツリと話し出した。
二十近く年上の女性が相手であることには驚いたが、逆に納得もできてしまう。普通の恋愛を、普通の女子大生としている慧……というのが想像できなかったから。
以前に浮気した清華だって年上だったし、慧はどちらかというと年増に惹かれる……のかもしれない。
「で、その人とどうするの? 」
「どうする? どうもしないだろう! 俺は親父の代わりなんだから。第一、キス以上はしたくないって拒否られてんだから、どうにもなりようがない」
語気の荒く吐き出した言葉が、麻衣子を傷つけていた。
「慧君は、その人にお父さんの代わりじゃなく、慧君として受け入れてほしいんだね。彼女のことが好きだから、受け入れてもらえないことが辛いんだ」
「そんな訳あるか……」
「ねぇ、なんでこのこと話したの? 慧君の中で浮気じゃないなら、話す必要ないじゃん。でもさ、あたし的には……真っ黒なんだよな。キスもそうだけど、気持ちが全部そっちにいってるよね」
「だから、ヤってない」
「それだけじゃない……って、わかるでしょ? 」
麻衣子は、大人が子供に諭すように、優しい口調で慧に話しかける。慧はイライラと飲みかけの覚めたコーヒーをゴミ箱に投げ捨てると、頭を抱えてうずくまった。
慧にしてみれば、今までのセフレとは恋愛感情は存在しておらず、麻衣子が初めて好きになった女といっても良かった。熱烈な愛情ではないが、ずっと側にいたいと思っていたし、麻衣子との結婚だって、もちろん考えていた。今の大学に受験しなおしたのだって、二人の将来を考えてだ。
恭子に対する気持ちは、今さっき自覚したばかりだった。
あまりのショックに、パニック状態にあった。
恭子を自分の方へ向かせたい、征服したいというこの激しい欲求が、果たして本当に恋愛感情なのか分からない。
今まで、こんなに一人の女のことで頭がいっぱいになったことなんかなかったから。
二人に対する気持ちを比較しても、どっちがどっちと言えないのだ。恭子に対する熱病のような気持ちも確かにあるし、麻衣子との平凡な日常も捨てられない。
「あたし……先に帰るね」
うずくまったまま立ち上がらない慧を見て、震えそうになる声を押さえながら麻衣子はベンチから立ち上がり踵を返した。
最終バスも電車もない。
二人共、帰る家はあのマンションしかないのだ。
もしかして……慧君にしたらその先生とが初めての恋愛だったのかなぁ。
麻衣子は、自分の存在を否定するようなことを考え、ボロボロと涙を溢す。
麻衣子はマンションの自分の部屋に戻ると、使っていない客間に布団を敷き、明日の準備を整えて襖を閉めた。
使っていない二部屋のうち、鍵のかからない和室を選んだのは、布団が敷けるからだけではなく、いつでも話しをしましょうという意思表示もあった。
この日から、慧と麻衣子の家庭内別居が始まった。
前みたいにすぐに家を出ないのは、麻衣子からは別れるつもりがなかったからで、慧の気持ちが落ち着いて、慧がどうするか決めるのを待つしかなかった。
泣いてすがりたい気持ちがない訳じゃない。もし、そうして慧の気持ちが麻衣子に向いてくれるのなら、いくらだってそうしただろう。
しかし、慧の性格を分かっている麻衣子は、ただ涙を堪えるしかなかった。泣いてすがったらうざがられる。気持ちがもっと離れるだろうから。
麻衣子は、朝食はいつも通り作って出る。家の家事もきちんとこなす。
ただし、この日から二人はほとんど顔を合わせることなく、慧も寝室からもう一つの部屋に居を移したようだった。もとから、慧の勉強部屋にしようとしていたため、机やPC、テレビなどは置いてあり、以前使っていたソファーが置いてあったから、そこに毛布を運んで寝ているようだ。家にいる時はほぼこの部屋から出ることはなく、扉も固く閉まっていた。
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