第178話 慧の葛藤、麻衣子の詮索

 玄関前で話し声が聞こえてから数分、家に入ってくる様子のない麻衣子に、慧は苛立ちながら玄関のドアを開けた。


「おまえ、玄関先でうるせーよ。……って、誰? 」

「お隣りの愛理さん。下で一緒になったの」

「ああ、隣りの……」


 ドアを閉め、中に入る時「ね? うちは仲良くなんてないんですよ。最終まで仕事してたのに、お疲れ様もないんですから」……と聞こえてくる。


 ったく、何の話しをしてやがるんだ?!


 隣りの娘は、真面目そうで地味で、身持ちが固そうな感じで、慧とどこにも接点を持たなそうなタイプだった。

 慧にとって女は、抱けるか抱けないか、もしくは抱きたいか抱きたくないか……に大別できる。

 実際に抱く抱かない関係なく、抱けない、抱きたくない女は記憶にする残らない 。


 というわけで、愛理とはそこそこすれ違っているのだが、顔すら記憶にない始末だった。


 麻衣子は見た目は派手に見えるが、根本は地味で真面目なタイプだからな。あの地味っ子(愛理の方が一つ年上なのだが、かなり下だと思っていた)と話しが合うのかもしれねぇな。……などと失礼なことを考えつつ、リビングのソファーの定位置に戻った。

 スマホでゲームを開きつつ、慧はゲームなどは見ていなかった。


 高林恭子、慧の父親が初恋の相手で、慧を父修平と重ねてキスをねだってきた。

 突き放すこともできた筈なのに、あの色香に逆らうことができず、ついつい舌を絡めてしまった。一度あの唇を、あの舌使いを経験してしまうと、自分からその唇を離すことは難しく、されるがまま、恭子の唇を貪った。

 恭子が身体の関係を求めてきたら、きっと拒まなかったに違いない。しかし、恭子は慧の身体を求めなかった。慧が我慢しきれずに自分主導にもっていこうとしたが、恭子は熟練の手管でそれを許さなかった。


 結局、最後まで恭子に操られるようにキスだけで慧を釘付けにし、「会議があるから、またね。後始末、していってもいいわよ。この部屋は誰もこないから」と、いきなりなんの余韻も残さず席を立ち、教授室を出て行った。


 残された慧は、しばらく立ち上がることもできず、ソファーで荒い息を整え、頭の中にはさっきの恭子のことでいっぱいだった。


 今まで、こんなにヤりたいと思った女はいなかった。


 もしこの場でSEXできていたら、そんなに恭子に興味を持つことはなかっただろう。麻衣子に対する罪悪感で、一度だけの浮気と頭を切り替えていたかもしれない。


 それが、最初から最後まで恭子の主導で、しかも最終的には放置され、一人で処分して帰れと突き放されたのだ。

 ただ、恭子は「またね」……と言っていた。

 つまりは、があると言うことだ。


 慧はそんなことを考えつつ、ただ無意識に手を動かしゲームを進め、夕飯を作ると言った麻衣子に上の空で返事をした。

 バター醤油の良い香りが鼻を刺激し、慧ふと顔を上げた。


 対面のキッチンで料理をする麻衣子が見える。

 スーツを脱ぐことなく、もう日付がかわったというのに、自分の分の夕飯まで作っている。


 慧が見ていることに気がついたのか、フライパンを見ていた麻衣子が視線を上げた。

 何と無く罪悪感に駆られ、慧は慌てて視線をスマホに戻す。


 キスなんて、外国では挨拶だしな! 特に悪いことじゃないさ。


 ここは日本であるという現実は無視し、慧は一人頭の中で言い訳をした。

 キスした(された)というのも問題だが、それよりも常に恭子のことが頭を離れないことの方が問題である……ということに、慧は気がついていない。そして、20近く年上の女性に、自分がのめり込みそうだという事実を、慧は認めることができずにいた。


 ★★★


「慧君、どうしたの? 」


 いつもよりもネットリとしたキスの後、ことに及ぶのかと思いきや、ヤる気を削がれたように仰向けに寝転がった慧に、麻衣子は不思議そうに声をかけた。


 最近、SEXする回数が大学時代よりは減ったとはいえ、二~三日に一回くらいはしている。新しい生活になった直後は、馴れない生活の疲労もあり、一週間に一回くらいに激減した時もあったが、元から体力のある二人だから、自然と会話をするようにSEXの回数も復活し、今の状況に落ち着いたのだ。

 会話をするのも面倒くさいタイプの慧だから、SEXしないと本当に会話がなくなってしまう。

 五年目にもなると、会話をしなくても何となく生活が成立してしまうのだが、熟年の夫婦ではないのだから、それでは寂しすぎる。

 麻衣子から色々話しかけてはいるものの、慧の返事はいつも素っ気なく、あまり会話にならない。


「もう遅いし、寝た方がいいだろ。俺は授業中に寝れっけど、おまえはさすがに昼寝は無理だろうしよ」


 珍しく、慧が麻衣子を気づかうようなことを言った。いつもなら、仕事とか関係なく、慧がヤりたくなったら、麻衣子を無理やりその気にさせるというのに。

 基本、麻衣子が慧を拒否ることはないので、慧はヤりたい時にヤれる。以前にSEXしたのは二日前だから、今日辺りするもんだと思っていた麻衣子は、慧の体調が悪いんじゃないかと心配になった。


「慧君、熱でも……ないね。お腹痛い? 」


 慧の首筋に触れ、心配気に顔を覗き込む麻衣子を、うっとおしそうにベッドに押し倒す。


「うぜーよ! とりあえず寝とけ!明日も早いだろーが! 」


 確かに、慧よりは早く起きて家を出る。それは間違っていないが……。


「本当に平気? 」

「しつけーよ! 」


 背中を向けてしまった慧を気づかっているような様子の麻衣子に、無性にイライラする。

 逆に、何でこんなに麻衣子に対して鬱陶しく思い、イライラするのか分からず、慧は横にある体温すらうざったく感じてしまう。


 いつもなら、麻衣子に絡むように寝る慧が、縮こまって麻衣子に背中を向けたまま眠りについた。

 頭の中は、教授室での出来事を思い返しながら……。


 ★★★


 何だかんだ、麻衣子とヤらずに十日が過ぎた。

 最終くらいに帰ってくる麻衣子を待つことなく、慧は十一時にはベッドに入り、寝たフリをする。本当に寝てしまう時もあれば、帰ってきた音を聞いて目を閉じる時もあった。


 麻衣子は、寝てしまっている慧を見に来ると、大抵首筋を触る。どうやら熱でもないか確認しているようだ。

 病気でもなく、ただ寝ているだけだとわかると、そのまま慧を起こすことなくキッチンへ行き、夕飯を作って食べてから風呂に入り、慧の隣りにそっと入ってくる。


 それから数分後、麻衣子の寝息を確認し、慧はムクリと起き上がった。

 麻衣子の作る夕飯の匂いに刺激され、空腹で寝ているところではなかったのだ。


 キッチンに向かい、ゴソゴソと冷蔵庫をあさる。


「おなかすいたの? 」


 いきなり後ろから声をかけられ、慧はびっくりして冷蔵庫のドアを閉める。


「何だよ! いきなり声かけんじゃねーよ! 」

「ごめん。何か作ろうか? 」

「いいよ、寝てろよ。適当にすっから」


 麻衣子は、朝食用にとっておいた鮭とご飯を解凍し、手早く味噌汁を作る。鮭を焼いているうちに、サラダを盛り付けて食卓に並べた。


「ごめんね、朝炊けるようにタイマーセットしたから、ご飯は冷凍なの」

「ああ」


 十分も待つことなく、目の前に食事が用意されていく。

 疲れている筈なのに、慧が冷蔵庫あさっている音で目を覚まし、そのまま放置するでもなく、わざわざ起きてきて夕飯を作ってくれる麻衣子……。

 文句も言わずに、当たり前のように家事をこなす麻衣子で、一緒に暮らしてから慧が家事をしたことは一度もなかった。慧は学生、麻衣子は社会人になってからも、そのスタイルは崩れず、慧が散らかした部屋も、朝にはいつも通り綺麗になっていた。


 出来過ぎた奴だ……と思う。


 遅い夕飯を食べながら、慧は目の前に座る麻衣子を見た。


「適当にすっから、もう寝ろよ」


 食べたら食べっぱなしであるから適当過ぎるのだが、麻衣子はううんと首を振る。


「……ごめんね」


 予想してなかった麻衣子の言葉に慧は箸を止めた。


「何が? 」

「ほら、仕事してから、帰りが遅いから夕飯とか作れてないじゃん」

「別に、おまえは仕事してっから当たり前だろ」

「でもさ、学生の時は、バイト前とかに夕飯作ったり、遅かったけど家で作れたりできたじゃん」

「だから、仕事してんだから気にすんなよ。第一、嫁でも何でもないんだから、おまえが俺に飯を作らなきゃいけない理由はねぇだろが」

「そう……なんだけどね」


 突き放したような慧の言い方に、麻衣子は寂しそうに微笑んだ。

 麻衣子が謝る道理はないし、きつい言い方だが、慧の言っていることは間違っていないので、麻衣子はそれ以上言わずに慧が食べ終わるのを待った。


「ごっそさん」


 やはり片付けることなく席を立つ慧に、何も言わずに麻衣子は皿を重ねて流しに運ぶ。


 麻衣子が洗い物をして寝室に戻ると、慧はすでにベッドで寝息をたてていた。

 その横に座り、慧の寝顔を見つめる。


 倦怠期……だろうか?

 いつも素っ気ない慧であるが、ここ数日はさらに輪をかけたようにつっけんどんに思われた。

 以前浮気をしていた時だって、特に気にする様子もなく麻衣子を抱いていた慧。態度だって、そんなにはかわらなかった。

 今は浮気を疑っている訳ではないが、慧の心境の変化はとらえていた。それが何かは分からない。


 あの、ストーカーのような大学の同級生のことで何かあったのだろうか?


 でも、そうだとしたら麻衣子に対する態度がかわる意味が分からない。

 他に誰か現れたのか……?


 麻衣子の慧レーダーは確実に真実をとらえていた。

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