第177話 忠太郎の彼女 2
しばらく無言の睨み合いの末、男がイライラしたように口を開いた。
「俺は話しをしに来ただけだ」
「私にはお話ししたいことはありません」
「おまえだって、俺とヨリを戻したいだろう? 初めての男を忘れられないんじゃないか? 」
無難に顔が良いだけに、残念な発言だ。品性の下劣さが全体的なイメージをグッと下げ、野卑た印象さえうけた。
「戻したいと思ったことは一度もありません。第一、四年も前のことじゃないですか? 私のことは放って置いてください」
「るりともやっと縁が切れたんだ。俺はおまえとやり直したいんだよ」
「るりちゃんに愛想つかされたって聞きました。大樹君、何も変わらなかったみたいじゃないですか」
「おまえがいたら変われる」
「無理です。ただ、都合のいい女を側に置いて置きたいだけですよ。私には、私のことだけを大事にしてくれる彼がいますから、大樹君とは無理なんです」
麻衣子を挟んでいるからか、口調は弱いが一生懸命説得しようとしているようだった。
「何だと! 」
男……大樹というらしいが、愛理に手を振り上げようとし、実際に目の前にいたのは麻衣子なので、麻衣子を乱暴に横に突き飛ばした。
「退けよ! 」
「冴木さん! 」
突き飛ばされた麻衣子に、愛理がすがりつく。
「大樹君! いったい全体どういうつもりですか!! 冴木さんは関係ないですよね?! 何で私を助けてくれようとした冴木さんに酷いことするんです?! 」
愛理の中で何かがキレてしまったようで、小さい身体で大樹に食って掛かった。
掴みかからんばかりの勢いに、大樹は鼻白んでしまう。
さっきまでの威圧的な態度を一転させ、キョドった視線で愛理を見下ろす。
自分に従順だった女、浮気現場を見ても適当な自分の言い訳を馬鹿みたいに信じた女、自分が強く言えばすぐに言うことを聞いた女。
大樹の中で、確かに愛理は都合のいい女で、いつだって呼べばくるし、自分を拒むことのない存在の筈だった。
四年前までは。
初めてのコンパで知り合い、酔い潰されて気がついたら裸で大樹の横にいた。恋人になったんだという大樹の言葉を信じ、初めての彼氏に浮かれて、大樹の言うことには絶対だった愛理だが、きちんとした恋人ができた今では、あれが恋人の関係ではなかったことにすでに気がついている。
地味で控え目で、自分のことでは滅多に怒ることのない愛理ではあるが、自分以外のこととなると話しは別であった。
「毎回、毎回、るりちゃんと不調になると私のストーキングするの止めてください! 私は大好きな彼氏がいるんです。あなたのことなんか、とっくにふっきれてます。というか、思い出したくもない過去ですから、顔を見せないでください! 」
丁寧な口調ではあるが、静かな怒りのこもった視線を大樹に向け、きっぱりと言い放つ。
麻衣子の腕を掴み、大樹にはこれ以上言うことはないと言わんばかりに、オートロックのマンションに入る。扉は大樹の前で閉まり、愛理は振り返ることなくエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まると、愛理は大きく息を吐き、壁に寄りかかった。
「あの、ありがとうございました。やっかいなことに巻き込んでごめんなさい。大丈夫ですか? 足とか捻ってませんか? 」
愛理は、心配気に麻衣子を見上げる。
「大丈夫です。ちょっとよろけただけですから」
麻衣子が笑顔を向けると、愛理はホッとしたように微笑んだ。さっき男にくってかかった様子は微塵もなく、気の弱そうな笑顔だった。
「愛理さん、なんでこのマンションに……? 」
「あ、知りませんでしたか? 私、冴木さんのお隣りさんなんですよ」
「隣り? 」
そう言えば、隣りの夫婦には麻衣子と同じくらいの年齢の女の子がいると言っていた。
「
「冴木麻衣子です」
二人して丁寧に頭を下げた瞬間にチンッと音が鳴り、エレベーターが階についた。
「どうぞお先に」
「いえ、愛理さんこそ」
二人は同時に微笑み、一緒にエレベーターを下りる。
「あの、今日は本当にごめんなさい。その、午前中も……」
「ああ、そうですよね。午前中もお会いしてる……というか、見られちゃってるんですよね」
半裸姿を見られていることを思い出し、麻衣子は頭をかく。
「私、最初勘違いしてしまって。たろさんに冴木さんのこと説明されて、それであの……」
彼氏の浮気現場を目撃したと思ったに違いなく、申し訳ない気持ちになる。
「私、今回の新商品のイメージモデルをすることになりまして、あの時は試着して最終チェックをしてただけなんです。社長とやましい関係はありませんからね」
「はい。たろさんにもそう聞きました。冴木さんだってわかって、安心しました……」
お隣りさんなら、麻衣子と慧が同棲していることは知っているだろうから、忠太郎と浮気関係にあるとは思わずにすんだ……ということだろう。
「冴木さんは、彼氏さんと凄くその……仲良さそうですし、彼氏さんのタイプとたろさんは違うっぽいので……」
真っ赤になってうつむく愛理を見て、麻衣子もなるほど! と思い当たる。
麻衣子と慧が仲良く外出することはない。つまり、それは外出先で仲睦まじい姿を見かけたとかではなく、麻衣子と慧の部屋での(喘ぎ)声がしょっちゅう聞こえるから、仲が良いと思っているのだろう。
「ほんと、仲が良くて羨ましいです」
「何言ってるんですか? 仲が良いのは愛理さん達の方ですよ。社長、あんなナリして、愛理さんの写真待ち受けにしてるし、愛されまくっているじゃないですか」
慧はそういう感じは皆無のため、本当に羨まし過ぎた。
「そうなんですか? やだ、いつの写真かしら? 」
「知らなかったんですか? なら、社長には私がばらしたって内緒にしてくださいね」
「はい、もちろんです。たろさんには内緒にします」
「社長、たろさんって呼ばれてるんですね」
愛理に呼ばれてデレてる忠太郎が目に見えるようで、なかなか微笑ましい。
「たろさん、自分の名前が嫌いみたいなんです。何かトラウマがあるみたいで。だから、名前のことは言わないであげてくださいね」
「ああ、そういえば、入社初日の挨拶の時も、フルネームを言うのを嫌がっていましたね」
「名前のことだけは、子供っぽいとこがあるんです」
それも可愛いというように、和やかな視線が語っていた。
特別美人でも可愛くもないが、可憐な人だなと思った。
一緒にいて穏やかな気分になれる。
「たろさんって、会社ではどんな感じですか? 」
「社長ですか?部署が違うので何ですけど……、仕事面では厳しい方かなと思います。あまり妥協しないというか、気に入らないデザインとかはとことんやり直しさせられるとか、同僚から話しは聞いたことあります」
「たろさん、社長よりもデザインだけしていたいタイプですから。そういう面では、ワンマンで嫌われていないですか? 」
「それもないですよ。以前に飲み会に顔を出された時があるんですけど……」
ドアの前で話し込んでいたのだが、麻衣子の部屋のドアが開いて、慧が顔を出した。
「おまえ、玄関先でうるせーよ。……って、誰? 」
「お隣りの愛理さん。下で一緒になったの」
「ああ、隣りの……」
慧は軽く会釈をすると、早く入れよと言い捨てて部屋の中に引っ込んだ。
「ね? うちは仲良くなんてないんですよ。最終まで仕事してたのに、お疲れ様もないんですから」
「そんな……」
「じゃあ、また」
麻衣子が部屋に入ろうとすると、洋服のすそを軽く引っ張られた。
「あの……、もし……、えっと……。冴木……麻衣子さんさえ良ければ、またお話し……」
シドロモドロになりつつ、麻衣子と親しくなりたい旨を伝えてきた。
「はい。ぜひ。そうだ、愛理さんは塾の講師をしていて、帰りが遅いと聞きましたけど」
「そうなんです。たろさんには実は内緒なんですが、実はこのくらいが普通で……。あまり遅いと迎えにきてしまうので、仕事場出るくらいに、帰ったよってラインしてるんです」
愛されてるなあ……。
迎えにきてしまうって、忠太郎の仕事も終わりがあるようでないので、仕事放り出して愛理のところにきてしまうということだろう。
「あ、これは内緒ですよ」
何か、どんどん愛理が可愛らしく見えてきた。
「了解です。私もだいたいこの時間が多いんです」
「そうみたいですね。よくバスでお見かけしてましたから」
「そうなんですか? 」
「さ……麻衣子さんは美人さんで目立ちますから」
「ありがとうございます。なら、今度見かけたら声かけてくださいよ。一緒に帰りましょう。ライン教えてください。満員過ぎて近づけないかもしれないから」
「そうですね」
ラインを交換し、愛理は照れたように……でも嬉しそうにスマホを握りしめる。
「私、麻衣子さんとずっと話してみたかったんです。同じ年頃だし、たろさんの会社の人だから」
「じゃ、今度社長抜きでご飯でも一緒しましょう。それまでに社長ネタを同僚から仕入れておきますね」
「ぜひ! 」
おやすみなさいと言い合い、お互いの家に入った。
「何だよ、ずいぶんと立ち話ししてたんだな」
「うん。あのね、愛理さんって、うちの社長の彼女さんなんだよ」
「ふーん……」
全く興味なさそうに、慧はスマホ部から顔を上げない。テーブルにはカップラーメンの器が置きっぱなしになっており、それが慧の夕飯だったんだろう。
「簡単に夕飯作るけど食べる? 」
「ああ」
麻衣子は、カップラーメンの器を流しに置き、エプロンをつける。
IHに水の入った鍋を置き、沸騰するのを待つ間に、冷蔵庫からシメジと玉葱、ベーコンを出す。今日の夕飯は和風キノコスパゲッティだ。
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