第176話 忠太郎の彼女

 忠太郎が戻って来たのは、三十分くらい後だった。


「すまん、待たせた」

「いえ……大丈夫でしたか? 」


 忠太郎はベッドに座り込み、大きなため息をついた。


「大丈夫……であってほしいな。多少勘違いしてる感は否めないが、仕事だというのは理解してくれたよ」

「親戚のお嬢さん……ですか? 」

「親戚? 馬鹿だなおまえ。前に待ち受け見せたろ」


 待ち受け……って、彼女? 写真よりも幼く、高校生にしか見えなかった! しかしそんなことを言ったら忠太郎の機嫌を損ねるかもしれないので言えない。


「すみません。一瞬だったので、私も動揺してましたし」

「ああ、そうだよな。悪い。」


 それにしても、写真で見ていたから見覚えがあったのか……?


「彼女さんは、社長に用事があったんじゃないんですか? 」


 麻衣子は、ガウンを脱ぎながら言った。


「いや、毎週ここの掃除にきてくれるんだよ。俺、仕事に熱中してると周りにこだわらなくなるから」

「いい彼女さんですね」

「そうなんだよ。愛理は今時の子にしては古風でさ、きちんきちんとしてるし、純情で可愛いんだよ」


 忠太郎の顔にしまりがなくなり、もう好きで堪らないというのが見るからにわかる。


「付き合って四年になるけど、出会った頃と全然変わらなくて、あんなに天然に可愛い娘、なかなかいないよ」


 天然に可愛い?

 少しボケッとしたてころがあるんだろうか? それとも素の彼女がむちゃくちゃ可愛いとのろけているのか?


「ただ、愛理は酒飲んだらすぐに寝ちゃう癖があるから、それだけは心配で……。仕事とかの流れで飲みに行くこともあるだろうから。どうせなら、俺の会社に就職しなって言ったんだけど、コネは嫌だって言って、今は塾の講師してるよ」

「塾の先生ですか? 」


 なんか、子供に馬鹿にされたりしそうなくらい童顔だが、大丈夫なんだろうか?


「そう。個別指導って言うのかな。小学生から高校生まで教えるそうだ。一応教員の免許はとったみたいなんだけど、なかなか学校に就職は難しいみたいでね。今は空き待ちみたいな感じらしい。できれば、愛理の母校に就職が決まればいいんだけど。私立の女子校だから、なかなか新規採用がなくて厳しいんだそうだ」


 なるほど、塾講師だと子供達が学校に行っている午前中は休みだから、その時間を利用してこの部屋の掃除にきたのか。


「ちょっと、万歳して」


 麻衣子は言われたままに万歳をする。

 忠太郎は、彼女の話しをしながら、麻衣子の着けた下着の最終チェックをしており、視線だけは縫製の状態や実際につけた時のわずかな形の歪みを念入りに捜していた。


 こんなにじっくり胸や尻を見られることはないから(実際にはブラやショーツを見ているのだが)、自然と頬が紅潮していく。これで忠太郎が無言で見ていたら、あまりに気まずすぎて堪えられなかったに違いない。


「ちょっとジャンプして……。それにしても、仕事が終わる時間が遅すぎるのがな」

「遅い……んです……か? 」


 麻衣子は、言われたままピョンピョンジャンプしながら言う。


「ああ、学校ならこんなことないんだろうけど、だいたい十時は超えるな。塾の後に、質問してくる奴もいるらしくて。そんなの、学校の先生に聞けっていうんだ! 」


 学校でカバーできないところをカバーするために塾にくるんだろうが、そのために彼女の帰りが遅くなるのが我慢できないらしい。


「よし、いいぞ。だいたいわかった」


 麻衣子はホッとしてガウンを羽織る。


「送り迎えしたいくらいじゃないですか? 」

「当たり前だろ。俺がいない間に変な奴に襲われてないか? 生徒がストーカーみたいになってないか? って、心配でしょうがない」


 ここまでくると、過保護な親の心境と変わらないのではないだろうか?


「なんか、社長って熱い人だったんですね」


 忠太郎は、微妙な笑顔を浮かべると、髪の毛をかきあげた。髪の色や洋服の趣味を差し引いても、端正な顔立ちのいい男だ。

 一般論であり、麻衣子が惹かれるか……と聞かれればNOなのだが、選り取りみどり、どんな美女でも選び放題だと思うのだが、何故あの地味な娘なのか……? しかも、忠太郎がベタ惚れときている。


 不思議ではあるが、それをズケズケ聞く程興味もない。

 という訳で、それ以上突っ込むこともなく、麻衣子はプレハブを後にした。


 ★★★


 イメージモデルの仕事をしているからと言って、一般業務が減らされることもなく、麻衣子は毎日終電ギリギリという生活を送っていた。

 学生の慧からすれば、就職一年目はそんなものなんだろうと思っているようで、特に、大変だねとか夜道は危ないから気を付けて……などの言葉もなく、最近では帰ったらすでに寝ている……なんてことも多々あった。

 比べてもしょうがないんだろうが、忠太郎の過保護とも言える愛情と比較してしまう。


 羨ましい気持ちしか生まれず、バスの中でため息をついた。


 バスが麻衣子の最寄りの停留所につき、大勢の客と共に麻衣子も降りた。最終と連携しているバスだったためか、通勤ラッシュ並みに満員で、外に出た麻衣子は大きく深呼吸する。

 通勤にバスは便利なのだが、あの独特な匂いにどうにも馴れない。しかも満員だと色んな人間の匂いも混じり、熱気と匂いで軽いバス酔いのようになってしまう。


 家に帰るには、公園を迂回して遠回りする道と、公園を突っ切る道がある。通常なら迂回して帰るのだが、バス酔いした麻衣子はなるべく早く家に帰りたいと思い、公園を突っ切る道を選択した。

 バスを降りた人達が、続々と公園に入って行ったこともあり、これだけ人目があれば安全だと判断したのもあった。


 公園の中は薄暗く、一人一人と自分の家の方向へそれて行き、麻衣子のマンション付近手前で数人が歩くのみになってしまう。

 少し前に大学入りたてくらいの女の子が、その後ろにサラリーマンのような男性が歩く。

 男がチラチラ振り返って麻衣子を見ていたのが気になったが、この時間に公園を突っ切る女子が珍しいか、危ないなと気にかけてくれているのだと、良い意味で解釈することにした。


 前の二人とは同じマンションへ向かっているのか、更に先に進むのかはわからないが、公園の出口が同じだった。

 無事に公園を抜けれたことに安堵し、すでにバス酔いから解放された麻衣子は、歩く速度を進めて二人を軽快に抜き去った。

 マンションの入り口はすぐそこだ。


 マンションに入ろうとした時、後ろで何やら声がしたようで振り返った。


「離して……」


 見ると、さっき追い抜いた二人が、何やら言い争いをしている。

 男が女の子の腕を掴み、女の子は叫ぶことはしないが抵抗しているようだ。


 麻衣子は直ちに踵を返し、二人の元に駆けつけた。

 もしかしたら痴話喧嘩かもしれないが、襲われているのなら見過ごすことはできない。


「あの、どうかしましたか? 」


 麻衣子が声をかけると、女の子はホッとしたような表情になり、男は整った顔を歪ませた。


「あんたには関係ない」

「関係はありませんけど、彼女が嫌がっているように見えたので」

「何でもない! 」

「あなた、大丈夫? 」


 麻衣子は男を無視して女の子に声をかけた。


「あの! 冴木さん、一緒に帰りましょう。お願いします!! 」


 麻衣子は、いきなり名前を呼ばれて驚いた。

 よくよく女の子の顔を見ると、今日見かけた顔だった。童顔で高校生くらいにしか見えないが、実際は麻衣子より一つ年上の忠太郎の彼女。

 確か名前は……?


「愛理さん? 」

「はい! 」


 愛理は嬉しそうにうなずくと、男の手を振り切って麻衣子の後ろに隠れた。


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