第134話 慧との距離

 あと数ミリの距離だったと思う。


 結局、麻衣子は拒否することもなく、でも奈良の唇が麻衣子の唇に重なることはなかった。

 というのも、急な雨で佑が帰ってきたからだ。


 もし佑が帰ってこなければ……きっと浮気決定だったことだろう。

 いや、拒否らなかったのだから、気持ち的には浮気したも同然だ。


 初恋を自覚して、さらに相手の当時の気持ちを知り、心が揺れた。

 ただ、慧と別れて奈良と付き合いたい……というわけではなかった。自分でも、自分がどうしたいのかわからないが、慧を好きだという気持ちは減ってもいないのに、奈良を好きだという気持ちも存在するのだ。だから奈良を拒絶することもできず、慧に対しても別れを切り出すような気持ちにもなれない。


 慧のように( ? )、身体の関係だけと割り切れるほど経験豊富なわけでもないし、だからって奈良への気持ちをシャットアウトもできなかった。


 奈良への気持ちを意識するほど、慧への罪悪感も増えていき、麻衣子は気がついていなかったが、自然とため息の回数が増え、表情も陰鬱になっていく。

 何より、慧とのSEXが苦痛になってきて、それは慧にも敏感に伝わっていた。


「麻衣子」


 夕飯の後片付けをしていた時、麻衣子のため息に気がついた慧が麻衣子に声をかけた。


「何? 」


 自分のため息に気がついていない麻衣子は、食器を洗う手を止めて視線を上げた。


 久しぶりにバイトが休みで、一晩ゆっくりできる。明日は土曜日だが、杏里に用事ができたからと、佑の家に行くこともなくなった。つまり、慧とほぼ一日丸々過ごせる貴重な休み……であるはずだったのだが。


 慧に手招きされ、麻衣子は手を拭いて慧の方へ行く。


 夕食後、一回戦が終わったばかりだ。またしたいのだろうか?


 気乗りしないまま、それでも拒否することなく慧の隣りに座った。


「もうすぐ誕生日だな」


 そう言われてみると、確かに誕生日はあさってだ。すっかり忘れていた。

 四回目の、慧と過ごす誕生日を迎えようとしている。


「そうだね……」


 今までも、プレゼントはくれるが、お祝いというようなことをしてくれたこともなく、慧にサプライズとか、イベントとか期待はしていなかった。


 慧は麻衣子の腕を引っ張ると、膝の上に麻衣子を乗せた。

 体位としては、こういう体勢もとるが、洋服を着たまま……というのは始めてかもしれない。

 麻衣子の細いウエストに手を回すと、髪に顔を埋めるように抱き締めた。

 このまま事に至るのかと思って、黙ってされるがままでいたが、いつもはすぐに麻衣子の身体にのびてくる手が、全く動こうとしない。

 慧のため息を耳元に聞き、いつもと違う慧にいまさらながら気がついた。


「どうしたの? 気分でも悪い?熱は……ないよね? おなか痛い? 吐き気はどう? 」

「うぜー、おまえは母親か。俺はおまえの何だよ? 息子か? 」

「……彼氏……だけど? 」

「だよな? なら、抱き締めたってかまわないだろ」

「そりゃまあ、そうかもしれないけど」


 それにしても、いつもしないことをされると、嬉しさより心配の方が強く、何かあったのでは? と考えてしまう。


「就活……うまくいかないの? 」


 麻衣子は早々に企業と面接し、内定を数社もらっているが、まだ面接があったり、内定の合否が出ている時期だ。

 お互いの就活には口を出していないが、てっきりそれで落ち込んでいるのかと思った。


 麻衣子は慧の頭を抱き締めると、頭をヨシヨシと撫でる。


「だから、おまえは母親かっての! 別に就活なんかしてねえから、うまく行くも何もねえだろ」

「就活してない?! 」


 てっきり慧も就活しているものだと思っていたから、心底驚いてしまう。

 そういえば、スーツを着ている慧を見たことがない。

 思わず身体を起こし、慧をガン見した。


「就活してないって、慧君どうするの? 」

「親の脛齧り……って、ひくなよ」


 そりゃ、慧の父親は医者だし、兄夫婦も医者で、麻衣子と後継ぎを産むことで、面倒見てもらおうなんて冗談を言っていたこともあったが、まさか本当に脛を齧るつもりだとは……。


 麻衣子は自然と自分のおなかを押さえた。


 この間生理がきたばかりだし、まだこの中には命は宿ってはいないが、まさか就活がわりに種を仕込むつもりじゃ……?


「おまえ、何か勘違いしてない?」

「勘違い? 」

「就活してないのは、進学するから」

「進学って……大学院? 」


 そりゃ、慧は頭の出来はいい方だし、大学院に行くのも可能だろうけど、研究したいことがあるようにも見えない。


「いや、もう一個大学に行く。まあ、三年から編入って形でいけそうだから、あと四年は親の脛齧り放題だな」

「四年間? って、医学部? 」

「まさか、あんなしんどい職業は嫌だね。薬科大だよ。今は院外処方がほとんどだけど、入院患者とかには院内でも薬だすから、院内にも薬剤師が必要なんだと。医者にならないなら薬剤師になれって言われてたんだけど、ずっと拒否ってて……。まあ、俺の我が儘で一般の大学に入れてもらったし、少しは親の言うことも聞くかなって。就職しても、うちの大学くらいじゃリストラの対象になりかねないし、将来のことを考えたら手に職かなってさ」


 まさか、慧の口から将来を考えて……なんて単語が出るとは思わなかった。


「じゃあ、何? 受験勉強疲れ?」


 耳を赤くした慧が、麻衣子に顔が見えないようにその身体を再度引き寄せた。


「多分さ、俺一人なら普通に就職してたかもだな。でもさ、三月に説明会行って、自分でも会社のこと調べたら、定年まで普通に働くのって、えらく難しそうなんだよ。途中スキルアップしないとだし、できなきゃ転職とか、それなりに生活を考えると、夫婦共働きが必須だったり、まあ色々。そんな、かみさん頼りみたいな旦那ダサいじゃん? 」


 何かよくわからないが、慧は慧なりに考えて進学を決めたらしく、今までで一番饒舌に喋っていた。


「でも、それが普通なんじゃない? 」

「まあ、麻衣子が働きたいぶんには働いたってかまわないけど、おまえの内定貰った会社って、産休制度とかかなり曖昧だぜ。知ってた? 育休なんかとってる奴いないぜ」


 産休? 育休?


 麻衣子の目が点になる。

 会社の事業内容とか、雰囲気、ぶっちゃけ給料や有給なんかは気になったが、そんなところに注目していなかった。


「えっと、つまり……? 」

「結婚して、妊娠したらアウトってこと。規定では産休育休制度はあるみたいだけど、過去の実績を調べたらとってる奴が少なかった。つまり、周りの雰囲気で、妊娠したら辞めるのが当たり前みたいな会社なんだろ? 」


 いつもは面倒くさがりの慧が、そんなことまで調べるって、どんな奇跡が起こったんだろう?


 慧の耳は赤いままだし、麻衣子に顔を見られないように麻衣子を抱き締めたままだ。

 こんなに何もすることなく抱き合っていたのは、過去最長記録かもしれない。


 麻衣子の就職するかもしれない会社のことも調べ、自分の身の振り方も考えている……。慧の中ではこれから先の麻衣子との生活が視野にあるということだ。

 前に、冗談のようなプロポーズを受けてはいたが、学生の話しだし話し半分に聞いていた。


「つまり……まあ、そういうわけだ! 」

「そんな会社だから、内定を蹴れってこと? 」

「アホ! そうじゃねえよ。まあ、色々考えて就職した方がいいだろうけど、おまえに何かあっても養っていけるように、手に職つけるって言ってんの! 」

「四年間は学生だけど? 」

「うっさい! 将来への投資だと思え」

「将来……か」

「だから、浮かれてんじゃねえぞ」


 麻衣子は、びっくりして慧から離れて顔を見る。慧も、麻衣子を抱き締めていた力を弛めた。

 すでにいつものムスッとした慧の顔になっていたが、いつもよりはその表情は少し固いかもしれない。


「おまえに何があったか知んないけど……、知りたくもないけど、俺は麻衣子が好きだから」


 最初は倦怠期かもと思っていた慧だが、明らかにスマホを気にしていたり、ラインを開いては一喜一憂しているのを見て、麻衣子の気持ちがふらついていることに気がついていた。

 毎日ヤっているのだから、身体の浮気がないことはわかっていたが、だからこそ余計に質が悪い。

 100%気持ちが離れる前に何とかしないと……という気持ちが、慧のこの珍しい饒舌ぶりとなっていた。


 何にせよ、好きだなんて口にだすことも稀過ぎることで、麻衣子は最初何を言われたか理解できなかった。


「知りたくないって、別に何もない……って、えっ? 今何て? 」

「何もなくはねえだろ」

「それより、俺は何て? 」


 慧は大袈裟にため息をつくと、麻衣子の唇に軽く唇を重ねた。

 いつものSEXに繋がる濃厚なものではなく、本当に触れるだけの軽いキスだった。


「好きだ。愛してる。ってか、言わなくたってわかるだろ? 」

「わからないよ」

「わかれよ」


 甘いキスを数回交わす。

 麻衣子の中で、物よりも嬉しいプレゼントだったかもしれない。


 慧との間には距離はなく、何かが麻衣子の中でストンと落ち着いた瞬間だった。

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