第117話 救世主

 ヤバイ……ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!!!


 これ以上のけ反れないというくらいのけ反った麻衣子は、自分の背筋の弱さを痛感しつつ、迫り来る中西の唇を避けようと、あがきまくっていた。

 時間にしたら、ほんの数秒。

 それがとんでもなく長い時間のように思われ、中西の動きもスローモーションに見えてしまうくらい、麻衣子は危機感を覚えていた。

 左手は身体ごと抱き締められ動かない。


 右手は動く!!!


 中西をひっぱたこうか?

 いや、右手を押さえられたらアウトだ!


 コンマ一秒の思考の中で、これだけのことを判断した麻衣子は、これ以上ない素早さで、自分の口を手で押さえた。


 手の甲に当たる、ネトッとした感触。


「…………!!! 」


 間一髪セーフ!!!!!


 と安堵したのもつかの間、中西の麻衣子を掴む腕に力が入り、麻衣子の顎を押さえていた左手が麻衣子の右手を引き剥がす。


「もう! 恥ずかしがり屋さん」


 違う!恥ずかしいんじゃなくて、全力で拒絶してるの!!


 止めて! と叫べば良かったのかもしれないが、パニック状態の麻衣子は人がいるはずないと思い込み、とにかくジタバタとあがいていた。


「欲しがり屋さんの麻衣子に、俺っちの熱い口づけを……」


 欲しがってな~い!!


 今度こそ万事休す!! と、麻衣子は深く唇を噛みしめ、なんとか唇に当たる面積を0に近くする。


 中西の鼻息が感じられた時、中西の後ろを高速で動く小さい影があり、その影が素晴らしい跳躍をしたと思ったら、フルスイングで中西の側頭部を辞典の背表紙でひっぱたいた。


 よろけて座り込む中西に、中西の拘束が解けて、思わず後ろに尻もちをつく麻衣子。


 辞典を抱き締め、仁王立ちのように麻衣子達を見下ろしていたのは、まるで小学生のように小さいお下げの少女だった。


「レイプは犯罪!!」


 怒気をはらんだ声音に、中西はワタワタと慌てたように言い返す。


「レイプなんて……。思い出の一ページに、熱いキスを……」

「思い出だって思ってるのは和兄だけ! 」


 思わずウンウンと、麻衣子もうなずく。


「そんなことは……」

「あるの!! キスだって、無理やりしたら犯罪なんだからね! 婦女暴行犯のお隣りさんなんて、絶対嫌ですから! 」

「婦女暴行って……。それにしても、そんな固い本で、頭蓋骨骨折したらどうすんよ」

「脳みそ引きずりだして、マトモに矯正してあげます」


 口元のニンマリとした微笑みに、中西は青くなる。

 少女の年齢分だけ幼馴染みをやっている身としては、少女が冗談など口にしないことを知っていたから。


「麻衣子先輩、和兄が大変ご迷惑おかけいたしました。こんなことがないよう、これからは全力で監視しますから、なにとぞ穏便な対処をお願い致します」


 少女は深々と頭を下げると、中西の首根っこを掴んで、何処にそんな力があるんだというくらいのクソ力で、カツカツと足音をさせながら中西を引きずって行った。


 麻衣子は腰が抜けたように座り込んだまま、今の子は何だったんだ? と、中西達が消えた方向をポカンと眺めた。


 和兄……?

 中西和正がフルネームなはずで、彼は一人っ子だったはず。

 お隣り……ということは、幼馴染みなのかしら?


 何にせよ、最大の危機は去ったわけだ。


 麻衣子は脱力したように両手を床につき、心底安堵の息を吐いた。


 ★

「か・ず・に・い!! 」


 中西は怯えたように小柄な幼馴染みを見下ろす。


「……はい」

「正座! 」

「……」

「せ・い・ざ! 」


 中西は、言われるままに大学構内の芝生の上に正座をした。

 それを腕組みして見下ろす亜美は、前髪に隠れた強い眼光で中西を睨み付ける。

 見えないまでも、その押し寄せるような圧力に、中西は青い顔をしてプルプルと震える。


「……全く、何やってくれてるんだか」

「……すいまそん」


 チマッとしていて、見過ごしてしまいそうになる中西の幼馴染みではあるが、実は凄く逞しく男らしいというか、激昂すると何をしでかすかわからない武道派であった。

 格闘技をやっていたわけではないのだが、持ち前の豪腕と機敏性で、幼稚園の時から小学生に食らいつき、ねじ伏せ、ガキ大将を配下に従える。そんな、とんでもない幼馴染みの恩恵を受け、ひたすら気弱でおとなしかった中西は、イジメの対象になることもなく、平穏な小学生時代を送ることができた。

 中学生時代は、さすがに亜美の力は及ばなかったが、道を歩いていてカツアゲされそうになった時など、疾風のように現れた亜美に、何度助けられたことだろう。


 そんなこんなで、中西は亜美には絶対服従というか、亜美に睨まれると逆らうことができなかった。


「もうね、和兄の勘違いには諦めてた部分もあったけど、さすがに犯罪は駄目! 」

「……だから、あれは思い出の」

「その思い出はバグだから」

「バグって……」


 小さく縮こまっている中西の前にしゃがみこむと、亜美はほんの少しだけ怒りの圧力を解いた。


「和兄、(私以外に)和兄がモテることは100%ないから」


 中西の表情がひくつく。


「そりゃね、昔と違って友達……女友達も増えたみたいだけど、それはモテてるわけじゃない!ただ面白がってるだけ。第一、彼女達に告白されたことないでしょう?彼女がいたことある? 」

「そんなこと!! ……そんなこと……? 」


 中西は思い返してみる。


 中学時代、麻衣子と付き合っていた(中西ビジョン)が、まだ幼かった自分達は、好きだ何だ言うことはできなかった。

 浪人時代、自分のこと好きだと言ってくれた三人の女友達がいたじゃないか? あれは、三人が三人共麻衣子との思い出には勝てないからと身を引いたので(遊ばれてただけ)、付き合うことはなかった。

 それから沢山の女友達はできたが、みな中西のことを面白いから大好きとは言ってくれるが、別に彼氏がいたりするし、深い関係になりそうな雰囲気は微塵もない。


 ???

 俺、モテてるよな?


「告白はされたぞ? 浪人時代、三人も同時に」

「で? そのうちの一人と付き合った? 」

「いや、麻衣子との清らかな思い出には勝てないって、三人共身を引いていったな」


 自慢気に言う中西に、亜美は大きなため息をついた。


「あのね、どこに清らかな思い出がある? ただの委員活動じゃない」

「えっ? 」

「さっきの聞いてたけど、あんまりバカらしくて、止めに入るのが一歩遅れたし」

「いや、でも、俺達は清らかな交際を……」

「好きです、付き合いましょうみたいなやり取りは? 」

「……ないです」

「なら、どう見ても和兄はただの委員が一緒だっただけの同級生だし、そんな男にいきなり押さえ込まれて襲われた麻衣子先輩の身になりやがれ! 浪人時代の三人だって、麻衣子先輩との清らかな思い出に勝てないなんて、絶対思ってない。適当なこと言って、和兄をからかっただけ! 本当に好きなら、思い出なんて糞食らえだ」


 亜美に一喝され、中西の目から鱗が落ちる思いだった。

 でも、それを否定すると、今の中西が全て崩れ去ってしまう。


「いや、でも……。言葉にならない目と目の会話とか……」


 亜美が前髪を上げ、グイッと中西に顔を近づける。


「なら、私と今、会話しろ! 」


 もの凄い眼圧に目眩をおこしながら、中西はこの小さな幼馴染みの思考を読もうと目を細める。

 グググッと顔が近くなり、一瞬亜美の眼圧が弱まる。


「そうか! 夕飯の献立だな! カレーにしようって考えていたっしょ」


 亜美の怒りの拳骨が、力いっぱい振り下ろされ、中西は頭を抱えて転げ回った。

 側頭部と頭頂部にタンコブができる。


「いや、本気で殴んなって」

「本気だしたら、和兄の頭なんか叩き割れるから」

「怖いこと、真顔で言うの止めて……」


 亜美の怪力を知っている中西は、本気で怯えたように亜美を見上げる。


「確かに今晩はカレーだけど、今はそんなこと考えてないから! ほら、目で会話なんかできないじゃないか! 」


 昨晩、カレーが食べたいなと中西が呟いたのを聞いていた亜美は、今晩はカレーにしようと思っていたのは、確かに事実ではあったが、今は中西に「好きだ! 」光線を送っていたのだった。


 そんなこと、露程も思っていなかった中西は、頭を押さえつつ、おかしいなあと呟いていた。


「いい?! 和兄のは全部勘違いなの! その考えを改めない限り、私が常に見張ってると思いなさい」

「ええ?! 」

「後ろからの打撃に気を付けなさいよ」


 亜美は捨て台詞を吐いて立ち上がると、ストーキング宣言をして立ち去った。


 まあ、他の誰に言われても、またまたあ……と本気に取り合わない中西だが、亜美の言葉だけは別だった。

 それだけ長い付き合いのもと、亜美の言うことに嘘はないと知っていたから。


 中西にはしゃがみこんだまま、ムムムムム……と考え込まずにはいられなかった。


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