第90話 父親

「そういや、父親は何してる人?今は仕事なの?」


 杏里はお茶出さなきゃ! とキッチンに立っていた。

 そんな杏里の後ろ姿に、麻衣子は父親のことを聞いてみた。


「うーん、もうすぐ帰ってくると思うけどな。今日は遅いから、アフターでも入ったかな」

「アフターって? 」

「忠直、ホストだから」

「ホストって、四十超えてない?」


 まさか、父親が現役ホストとは思わなかった。


「受容はあるらしいよ。太い客も数件ついてるみたいだし」


 杏里は、麦茶を入れて持ってくると、麻衣子の隣りに座って腕を組んだ。


「忠直とさ、小さい時からお姉ちゃんの写真見てたから、ずっと本物に会いたかったんだ。会いにきてくれて嬉しい! 」

「そっか、あたしも杏里ちゃんみたいな可愛い子が妹で嬉しいよ」

「なあ? 忠直さん?は、ずっとホストなわけ? 」

「うん、まあ、本職はヒモ」


 麻衣子は麦茶を吹き出す。


「ヒモ?! 」


 杏里は気にする様子もなく、麻衣子にティッシュを渡す。


「そう。太い客がいるって言ったじゃん。その人達がお小遣いくれて、生活してんの。ホストの方のお金は、お姉ちゃんの学費に送金してっから。一応、忠直のこだわりらしいよ。お姉ちゃんには、きちんと働いたお金を渡したいとか。バカでしょ? お金はお金なのにね」

「両方、女から巻き上げてるのは変わんねえけどな」

「確かに! 」


 杏里はケラケラ笑った。


「そうだ、お兄さんの名前は?」

「松田慧、彗星の彗の下に心って書く。賢いって意味だ」

「彗星の彗がわかんないや。中卒に難しいこと言わないでよ。あたしの杏里は、母親が杏里とか言う歌手が好きだったからみたい。単純だよね。お姉ちゃんの麻は、健康に育ってほしいって意味なんでしょ? 魔除けの意味もあるとかで、悪い虫がつかないようにって忠直がつけたんだって、忠直が言ってたよ」


 麻衣子は、母親の麻希子から名前を取っただけだと思っていた。小さい時は、麻薬の麻とか、麻雀の麻とか、良い意味がなくて嫌だったものだ。

 第一、「麻の葉の麻です」と言っても、「 ? 」な顔をされるだけで、「大麻の麻、麻薬の麻」と言うと、ああ! と 理解してもらえた。


「そう……なんだ」


 自分の名前を父親がつけていたとも、初めて聞いた。


「赤ちゃんの時は、あんま病気とかしなかったのは、自分がつけた名前のおかげだ! とか、自慢してたもんね」

「そういや、おまえ健康だよな。風邪ひいたのとか、具合悪いの見たことねえな。バイトで忙しいし、万年寝不足のわりには」


 寝不足は、慧君のせいですけど……。


「いや、まあ、昔から滅多に風邪ひかないね。インフルエンザにもかかったことないし。病気も怪我もない方かな」

「羨ましい奴だな」


 母子家庭で、母親が仕事してるから、極力病気にならないように気をつけていたということもあるが、確かに麻衣子は健康そのものだ。もし名前のご利益があるのなら、父親に感謝すべきかもしれない。


「杏里の母親と別れた後、忠直さんは再婚とかしてないの? 」

「不特定多数の彼女はいるけど、結婚はしてないな。忠直、女にはだらしないけど、子供好きなんだよ。前に同棲した女がいたんだけどさ、忠直がいないとこであたしに折檻してたのがバレて、女叩き出したんだ。それからは女連れ込まなくなったね」

「折檻って……」

「あたしもやられっぱなしじゃないからさ、ある程度大きくなったら、取っ組み合いになっちゃって。顔にアオタンできて、それで忠直にバレたの。それまでも、小さい時は頭叩かれたり、身体蹴られたりはあったんだけどさ」


 麻衣子は、何て言っていいかわからず、杏里の手を握った。


「やだなあ、そんな顔しないでよ。忠直って、女見る目ないんだよね。うちの母親も最低な奴だし。たぶん、お姉ちゃんのお母さんが一番マトモなんじゃない? 忠直は、そう言ってるね。まあ、うちの母親があたし作って、あたし盾に取って、無理やり略奪したみたいだけど。すぐに違う男こさえてでてったから、忠直からしたらいい迷惑だよね」


 杏里は、大したことないようにアッケラカンと話す。辛いこともあっただろうに、まるでそれが普通のことのように、今までの父親の女達が、陰で杏里にしてきたことや、杏里がやり返してした嫌がらせなどを、事細かに語った。


「そうだ! 忠直に連絡しようか? たぶん、すぐに帰ってくると思うよ」

「え、あ、待って! 今日は家を見にきただけというか、まだ父親に会うつもりじゃなかったっていうか……」


 スマホに手をかけた杏里を、麻衣子は慌てて止めた。


「そうなの? じゃあ、今度また会いに来る? 」

「そうだね、今日はまだ気持ちの準備が……だから、また今度」

「あたしとは? また会ってくれる? 」


 杏里の手が、強く麻衣子の手を握る。


「もちろんだよ。いつだって会うし、今度うちにもおいで。慧君、いいかな? 」

「なんでお兄さんに聞くの? 」

「慧君ちで同棲してるから。1Kただから、泊まりは無理だけどね」

「行く! 絶対行く! お姉ちゃん、連絡先教えて」


 麻衣子と杏里は連絡先を交換し、

 父親が帰ってこないうちに帰ることにした。

 杏里はまだ話したいようだったが、いつ父親が帰ってくるかもわからないから、早々にコップを洗い帰り支度をする。

 靴を履き、名残惜しそうな杏里に次に会うことを約束し、部屋をでようとした。


 ドアを開けると、目の前に男が立っていた。


 麻衣子は硬直し、至近距離で男を見上げる。男も麻衣子を見下ろし、一歩下がった。


「失礼、杏里の友……達? いや、麻衣子? 麻衣子! 」


 忠直は、麻衣子を抱き締めた。


「……お父さん? 」


 忠直は、麻衣子から離れると、肩に手を置いたまま、泣き笑いのような表情になる。

 とても四十過ぎには見えない。二十代と言われてもうなづけそうで、優しげな顔立ちのイケメンだ。フワリと石鹸のいい香りがするのは、……あまり考えないことにした。


「何で? 麻希子さん、会ったらダメだって」

「お母さんが住所教えてくれたんです。お父さんに大学の費用出してもらってるから、挨拶くらい行きなさいって」

「えっ? そんなの当たり前じゃん。生活費まで出せなくて申し訳ない」

「いや、こいつ、自分で生活くらいなんとかできてるし」


 忠直は、初めて慧の存在に気がついたようで、険しい顔で慧を見る。


「ども、松田慧です」

「松田君は、麻衣子の何? 」

「彼氏っすかね」


 忠直は、嫌そうな表情になる。

 忠直の中で麻衣子は可愛らしい五歳の時のイメージのままで、いきなり彼氏を連れてきても、納得できないというか、受け入れたくなかった。


「あの、あたし達帰ります。いきなり来てすみません」

「えっ? なんで? まだ僕は会ったばかりだよ」

「でも、帰るのに一時間以上かかるし、バイトもあるから」

「バイト、何してるの? 」

「居酒屋です」

「じゃあ、夕方からでしょ? あと一時間くらいダメなの? 」

「忠直、しつこい! それに、いつもは仕事終わったら寝るからって、話しかけるなって言うくせに」

「だって、杏里はいつも一緒だけど、麻衣子とはめっちゃ久しぶりなんだよ? もっと話したいじゃん」


 忠直は、麻衣子の肩を抱いて、大人気なくイヤイヤする。


「それに、ちょこっと寝てきたから平気だし」


 お風呂も入って寝てきたって、どんなアフターですか?


 麻衣子は、さりげなく忠直から距離をとりつつ、玄関から表に出る。


「いや、本当に時間ないんで」

「いやーい、嫌われてやんの!」


 杏里がちゃかし、忠直はショックに目を潤ませる。


「嫌われることしてないじゃん。杏里、なんか言ったの? 」

「別に。忠直の女遍歴なんか話してないし」


 忠直は、あちゃーという表情になると、必死に弁解を始める。


「あのね、麻希子さんと別れた後、猛省してね、浮気癖は治したんだよ。ただ、長続きしないから人数は多いけど。今は彼女はいなくて、お仕事のパートナーだけ。ホストしてるから、お客さんとの付き合いは多いけど、彼女とかはいないし……」

「別に、お父さんに彼女がいてもかまいませんから。再婚してるだろうと思っていたし」

「麻希子さん、彼氏いるの? 再婚はしてないよね? 」

「いないですよ。まず無理でしょ」

「なんで? 麻希子さん魅力的なのに」


 あの母親のどこが魅力的なんだ?と、麻衣子は忠直のセンスを疑う。いや、今は女を捨てているけど、昔は魅力的だったのかもしれない。


「女捨ててますよ? 」

「まあ、昔から女らしくはなかったね。でも情に厚くて、人間味の豊かな人だったよ」


 見る人が代わると、見方も代わるんだろう。麻衣子は慧を促し、忠直にお辞儀をする。


「とりあえず帰ります。あたしの連絡先は杏里ちゃんに伝えてありますから」

「忠直には教えてあげないよ」


 杏里も靴を履いて表に出てきた。


「駅まで送ってくる。ほら、お姉ちゃん行こうよ」


 杏里は麻衣子の腕を取り歩き始め、慧もその後に続いた。一人、忠直だけがまだ麻衣子と話したそうに、三人を見つめていた。


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