第59話 慧の誕生日4 ~背中の爪痕

「ただいま……」


 時計は六時十五分をさしていた。


「お帰り」


 麻衣子はTVを見て待っていた。

 怒っている様子もなく、どこに行ってたんだ、何をしていたんだというような詮索もない。


「夕飯、食べに行くんでしょ? 」

「ああ、うん。行くか? 」


 麻衣子はTVを消して立ち上がると、上着を着こんでバッグを持った。

 慧の横に立った時、わずかに麻衣子の眉が動く。


 この匂い……?


 慧からフローラル系の香りがする。

 男性用香水にはない香りだ。明らかに女性の香り。


「どこ食べに行くの? 」


 麻衣子は、慧と腕を組んで部屋を出た。

 通常なら、手を繋いだり腕を組んだりして歩くことは滅多にない。麻衣子に腕を取られたまま歩くのは、誕生日という特別な日だからか、それとも何かやましいことがあるのか?


 麻衣子は、後者だなと直感した。

 腕を組んで、よりわかった。鼻をつくフローラルの香り。

 これだけ残り香がつくのだから、よほど接触したに違いない。信じたくはないが……、SEXしたんだとしか思えなかった。ただ女とくっついて、慧が何もしないとも思えない。

 風呂に入ってきてないようだし、探せばそれなりの痕跡がみつかりそうだが……。


 でも、今日は慧の誕生日。


 麻衣子は、聞き出したい思いをグッと我慢し、駅前の焼き鳥屋に二人で入った。

 とりあえずビールで乾杯し、焼き鳥盛り合わせと枝豆を食べる。


「慧君、お母さんから伝言ね。お誕生日、おめでとうだって」

「ああ? なんで麻衣子に連絡いくわけ? 」

「慧君が電話でないし、メールも見てるかわからないからじゃない? 」


 さっきもね……と言いたいのを、ビールを飲んでグッと我慢する。


「 知ってたら、日付が変わった時にお祝いしたのに。お母さんの電話で知ったよ。もう、事前に教えてよね」

「おまえが聞かなかっただけだろ。わざわざ誕生日だって言えるか!小学生じゃあるまいし」


 確かに。

 お祝いしてくれって催促しているようで、麻衣子も慧には直に言わなかったのを思い出す。


「これ、誕生日プレゼント。開けてみて」


 麻衣子がプレゼントを慧の前に置くと、慧はさも興味なさそうに袋を横によける。


「後で見る。」


 この男のこの態度、あたしが離れて行くわけないと思ってるんだよね……。


 ため息がでそうになるのをこらえ、麻衣子は誕生日プレゼントをバッグにしまった。


「忘れて帰りそうだからしまっとくね」


 それからたいした会話をするでもなく、焼き鳥を食べ終わり、帰りは腕を組むでもなく帰宅した。


「お風呂……入るでしょ? 」

「ああ」

「ためてくる」


 慧の部屋は、バストイレ別になっているから、ゆっくり浴槽につかることができた。

 正直、贅沢だよな……と思う。以前の昭和感漂う麻衣子の部屋からすると、雲泥の差がある。いつ元の生活に戻るかもしれないから、これに馴れたら駄目だということはわかっていた。


 浴槽のお湯を眺めながら、慧の女関係について考える。

 麻衣子と付き合う前までの生活を考えると、浮気をしない方が不思議なわけで、その辺りの倫理観を慧に求めるのは無謀なのかもしれない。

 だからといって、許せるかどうかというのは別の話しで……。


「何やってんの? 」


 お湯をジッと眺めていた麻衣子の後ろに、慧が立っていた。


「ああ、ちょっと酔ったかな? 」

「ビール二杯で? 」

「ちょっと最近疲れてるから」

「だから、バイト減らせって言ってんだろ。家賃だって、親の支払いなんだからいらないんだし」

「そういうわけにいかないよ」


 慧は麻衣子のおでこに手を当てた。


「熱はねえな」

「それは大丈夫」

「風呂入るぞ」


 脱衣所で衣服を脱ぎ、その時慧の背中にある引っ掻き傷のような爪痕を見つけてしまった。

 明らかに、朝にはなかったものだ。

 慧は身体が硬く、こんな場所に手が届くわけがない。


「背中、痒い? 」

「背中? 別に。何で? 」

「傷になってるよ。掻いたの? 」


 慧は手を伸ばして背中を触ったが、やはり傷には届いていなかった。


「知らね。掻いたんじゃねえの」


 麻衣子は丹念に慧の身体を洗った。


「なんだよ、ずいぶんサービスいいじゃん」


 慧は勘違いしているようだが、麻衣子にしたら複雑だ。

 わかってるよ……というのをアピールした方がいいんだろうか?

 でも、開き直られても困る。


 風呂から出て、いつも通り慧に髪の毛を乾かしてもらいながら、夏に慧の友達に聞かれたことを思い出していた。


「浮気したらどうする?って前に聞かれたじゃん 」

「えっ? 」


 慧はドライヤーをストップさせた。浮気がなんとか聞こえたからだ。


「ほら、夏休みにさ、慧の友達に浮気したらどうするって聞かれたじゃん? 」

「ああ、そんなこと聞かれたっけ? 」

「うん。仕返したらとか言われたけどさ、それは違うじゃない? だから、まあ浮気されたら別れるのかなって答えたんだけど、それでいいんだよね? 」

「いい……って? 」


 慧は身に覚えがあるからか、キョドった態度で落ち着きがなくなる。


「もし、、慧君が浮気するとするじゃん? それはあたしと別れるつもりでしたんだって理解すればいいのかなって話し」

「バ……バッカじゃねえの?! おまえは別れたいわけ? 」

「別に。慧君が浮気しなきゃいいだけの話しだし」

「し……しないだろ、普通。意味わかんねえ話しすんなよ! 」


 慧はドライヤーを最強にして麻衣子の髪を乾かしだす。


 なるほど、別れるつもりはないとみた。

 ずいぶん都合のいい話しな気もするが……。


「もし浮気したら、別れるからね」

「ああ?聞こえないけど!?」


 ドライヤーの音で聞こえないふりをしている慧に、幼稚だなと思いながら麻衣子は小さなため息をついた。


 今回だけは見ないふりをしよう。

 でも一応釘はさした。

 次はない……よ、次はないんだからね。

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