第54話 番外編 その後の矢野7

 早苗は胸の上に重さを感じて目を覚ました。

 昨日ほどの二日酔いではないが、若干胃もたれのような不快感を感じる。


 ここは?


 見覚えのない部屋に、嗅ぎ覚えのない柔軟剤の香り。

 なによりも、身体が重いのは、二日酔いとかではなく、現実に重量のある物をが胸の上に乗っているようだ。

 ベッドは、早苗のリビングダイニングのソファーベッドではなく、しっかりとしたベッドであるみたいだが、何故か凄く狭い。

 早苗は、壁に向かって寝ていたが、重しをどけるようにして寝返りをうった。


 目の前には、わずかに無精髭が生えた男の顔が!


「早苗さん、起きましたか? 」


 男が大きく伸びをすると、早苗の上に乗っていた重しが軽くなった。男の腕だったようだ。


「朝飯食べれますか? 」


 早苗はコクコクとうなずく。

 男はベッドサイドのテーブルから眼鏡を取ると、眼鏡をかけて微笑んだ。


「矢野君……」


 矢野は、ベッドから下りると、ボクサーパンツのまま部屋から出ていった。

 恐る恐る自分の格好を見ると、Tシャツは着ていたが、下着はつけておらず、探すとベッドの下に落ちていた。


 しちゃったの?!


 昨日の状態より、かなり緊迫していた。

 しかも、いつもは名字で呼ばれるのに、矢野は名前で呼んでいて、明らかに関係性が変わったことを示していた。


 やはり、早苗の記憶はない。

 矢野の部屋にきたことすら、覚えてはいなかったのだ。


 早苗は下着を身につけると、Tシャツだけの姿に恥じらいを感じながらも、寝室にとじ込もっているわけにもいかず、リビングに顔をだした。


「あの、矢野君? 」

「飯、もうちょいですから、先にシャワー浴びますか? 」

「ああ、うん」

「風呂は廊下出て右です。タオルは出してあるんで、使ってください」

「はい」


 矢野は、Tシャツに短パン姿でキッチンに立っていた。

 いい匂いがするから、朝食を作っているんだろう。


 手早くシャワーを浴び、自分の身体をチェックする。

 いくら記憶がなくても、早苗はバージンであったのだから、身体の不調とかで判別できるのではないかと思った。

 下半身を触ってみたが、特に違和感は感じない。しかし、胸元にキスマークのような、赤い痣が二つばかりついていた。

 早苗は、信じられない面持ちで痣に触れる。


 ここに矢野君の唇が触れたのだろうか?

 下着を履いていなく、胸元にはキスマーク。やはり昨日……。


 早苗は、赤くなってシャワーを頭からかけた。


「早苗さん、新しいTシャツ置いときますね」

「はい! 」


 矢野は、脱衣所から早苗に声をかけ、そのまま朝食ができたことを告げて出ていった。


 SEXしてしまったとしたら、それはもうしょうがない。

 問題は、二人の関係性だ。

 矢野がどんなつもりで早苗を抱いたのか、それは見極めなければならない。


 早苗は、シャワーの蛇口をとめると、多少スッキリした思考で風呂場から出た。



 早苗が起きる少し前のこと、実は矢野はすでに起きていた。早苗に腕を回し、その細すぎる身体を抱きしめ、髪の毛に顔を埋めた。


 昨日恋人になった女性は、自分の腕の中で静かな寝息をたてている。なにか、不思議な気持ちになる。

 つい昨日まで、失恋の痛手を引きずっていたはずなのに、今はこの温かい物体が腕の中にいて、矢野の気持ちを落ち着かせてくれていた。

 まあ、違う意味で昂るものがないわけではないが、それは我慢する。

 何せ、昨日ソファーで早苗を押し倒し、早苗といざ関係を持とうとしたとき、あまりに早苗が痛がるので聞いてみたら、未経験だと白状したのだ。

 酔っぱらった状態で、早苗と初めてを経験するのに躊躇した矢野は、ぐっと我慢したのだ。

 コンドームがないこともあり、早苗が酒で記憶をなくしている怖れもあったために、早苗の胸に印を残すことでよしとした。

 ただ、頭ではわかっていても、身体をコントロールすることは難しく、眠りに入るまでがしんどく、目が覚めても元気な状態にすぐになってしまったが。


 早苗が目覚めたことに気がつき、矢野はすぐに声をかけた。

 その驚いた表情に、やはり記憶がないのかと落胆とともに意地悪な気持ちも沸き上がってくる。


 昨日恋人になったはずだが、きっとそれも忘れているはずで、自分の格好に少なからず衝撃を受けることだろう。


 矢野は、わざと説明することなく、朝食を作るために部屋を出た。

 朝食を作っていると、早苗が部屋から出てきたから、シャワーをすすめる。きっと、これで胸についた印を見つけることだろう。


 思っていた通り、表情固く風呂から出てきた早苗に、矢野はそろそろ真実を教えようと、意地悪を終了させることにした。



「早苗さん、ご飯できましたよ。こっちにどうぞ」


 ダイニングテーブルがあるわけではないので、ソファー前のセンターテーブルに朝食が並んで用意されていた。


「これ、矢野君が作ったの? 」

「まあ、独り暮らしが長いですから。これくらいなら」


 トーストにベーコンに目玉焼き、スープまでついていた。男でこれだけ作れれば十分だろう。

 早苗は、卵さえ割れる気がしなかった。


「凄いわ。こんなの、私には無理よ」


 まあ、包丁さえない家に住んでいるのだから、早苗の料理能力に期待をしていない矢野は、笑いながら早苗の肩を抱いてソファーに座らせた。


「早苗さん、ごめん、意地悪しちゃった。不安だっただろ?たぶん、昨日のこと覚えてないんだよね? 」


 早苗はそんなことないわと言いかけ、ここは正直になるべきだと思い直した。


「ごめんなさい、覚えてないの。私と矢野君は、関係したのかしら? 私達は、どんな関係だと理解すればいいかしら? 」


 たぶん、最悪なことを想像しているのか、表情が固い。


「SEXしたのかって話しなら、答えはNO。でも、それに近いことはしてるけど。関係は、上司と部下で……」


 早苗はゴクリと唾を飲む。


「いい仲になったんだけど、素面でも了解してもらえるかな? 」

「……」


 早苗の表情はいまだ固いままで、矢野は不安になる。素面になったら、矢野では役不足だということだろうか?

 やはり部下としか見れないということだろうか?

 まさか、最速でまたもや失恋してしまったのだろうか?


「……ごめんなさい」


 ごめんなさい……か、……凹むな。

 それならやはり、手を出さなくて正解だったな。


 矢野らしい考え方だった。

 どうせ付き合えないなら、やっておけばよかったと考える男性の方が多いかもしれない。


「あのね、はっきり言ってくれる? 私はあなたよりかなり年上だし、恋愛対象にはならないのはわかってるわ。いい仲というのは、いい関係……いわゆるセックスフレンドということなのかしら? 私はそれでも……」


 この人は、バージンのくせに、何を強がったことを……。


「それは、僕と付き合えなくても、セフレでもいいからつながっていたい……って、告白なのかな? 」

「……」

「ごめん、意地悪した。ちょっと、フラれたのかとショックで」

「私が矢野君をふるなんて、そんなこの年でおこがましいわ。ただ、私と付き合うと色々言われると思うの。その、年齢的なことで。あなたはまだ若いし、そういうの面倒なんじゃないかって思うし。それなら、セックスフレンドでもいいのかもって」


 最初に飲んだ時に、親戚から結婚について色々言われると愚痴っていたな。つまりは、年齢のいった女性と付き合うのなら結婚しろとせっつかれるということだろう。


「僕は嫌ですよ。そういうのは性に合わない。身体だけの繋がりなんて、虚しいだけだから。そういう付き合い方はしたことがないし、するつもりもありません」

「ということはつまり……? 」


 上目遣いで矢野を見るその不安そうな顔が、いつもの自信に満ち溢れて仕事をしている早苗のものとは全く違くて、こんな顔は自分しか見れないんだという満足感に満たされた。

 矢野は、早苗の唇に優しくキスをした。


「僕は恋人しか抱くつもりはないし、恋人との将来のことも、ちゃんと考えるつもりです。それを踏まえて、僕はこれからあなたを抱こうと思うんですが、いかがでしょうか? 」

「それは、もちろん……と言いたいけれど、夜まで待ってもらえないかしら。明るいのはちょっと……私にはレベルが高過ぎるから」


 恥ずかしそうに頬を染める早苗は、まるで十代の女の子のようだった。


「わかりました。でも、今日は素面でお願いします」

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