第53話 番外編 その後の矢野6

「矢野君、……麻衣子さんって? 」


 ビールをお代わりした早苗は、わずかに目尻を赤くして、矢野にトロンとした視線を向けた。


「ここのバイトの大学生です」

「大学生? 若いの? 」

「確か十九とか…」


 十九歳?

 私と一回り違うじゃない!


 早苗は戸惑いを隠せないでいた。

 てっきり矢野は自分のことが好きなのだと思っていた。昨日の記憶はないが、その流れで自分にキスしたんだとばかり。

 それが、さっきの居酒屋の子の話しだと、矢野はここのアルバイトの子に気があるという。


「その子は( 矢野君の何 )……?」

「昨日話した子ですよ」


 昨日?

 記憶にないんだけど、昨日は矢野君の悩みを聞こうと飲みに誘ったわけだから、もしかして悩みの原因ってことかしら?


「フラれたんですけどね、ついつい足が向いちゃって。でも、ここの食事が美味しいからってのもあるんですよ」

「うん、確かに美味しいけど」

「ですよね。だから、未練とかじゃなくて……」

「どんな子? 」

「見た目は今時の子なんですけど、生活費をバイトで稼いでいたり、しっかりした子なんですよ。接客も明るくてよく働くし、本当にいい子です」


 矢野の表情は柔らかく、ここにいない麻衣子という女を大切に思っているのがわかった。未練がないようには見えない。


 早苗の酔いが覚めていく。


 そうか……。

 矢野君には好きな人がいるんだ。


 じゃあなんでキスしたの? と聞きたいのをこらえ、早苗は食事に箸をすすめた。


 その様子を見ていた矢野が考えていたのは麻衣子のことではなく、早苗の箸使いの綺麗さに感心していた。

 そして、昨日も思ったが早苗の少食が気になった。

 家でも料理をしないという早苗だが、きちんと食事をとっているのだろうか?

 昨日、机で突っ伏して寝てしまった早苗を、ソファーベッドに運んだのは矢野だった。

 そのあまりの軽さに、本当に成人女性なのかと驚いた。


 今も、数口食べただけで箸を置いてしまった。


「もっと食べないと。お腹に食事を入れないから、二日酔いになるんじゃないですか? 」

「そうなの? でも、もうお腹いっぱいだし……」

「多田さんは軽すぎですよ。もって肉つけないと! 」

「あら、見えないところについてるんだから」

「嘘ですね。昨日抱いた時、贅肉の一つもありませんでしたよ」

「抱いた?! 」

「いや、抱き上げたです! ほら、多田さん床に座ったまま寝てしまったから。ベッドに運んだんですよ」


 早苗がギョッとしたように、口を開けっ放しで硬直しているのを見て、矢野は慌てて説明する。


 それにしても、何故早苗はこんな反応なんだろう?

 いくらなんでも、寝た(SEXした)か寝てないかくらいはわかるだろうに。

 そこまで記憶がないんだろうか?


「あの、多田さん。ちょっと聞きたいんですが……」

「何? 」

「あの、昨日の記憶はどれくらいまでありますか? 」

「エッ? 」


 早苗の目が泳ぎ、しばらく沈黙の後でポツリとつぶやいた。


「紫蘇焼酎飲み始めたくらい? 」

「まじですか? 」

「飲み終わった記憶はないわ」


 早苗は開き直ったかのように、胸を張って言う。


「だから言ったじゃない。私はお酒が弱いのよ! 」


 早苗はビールを飲み干すと、お代わりを頼んだ。


 確か、あの前はビールは二杯飲んでいて、焼酎は三杯目で……。


「多田さん、今何杯目ですか?!

 」

「へっ? 三杯目よ」


 早苗はビールをごくごくと飲みながら言う。


「多田さん、ストップです! 」


 慌てて矢野は早苗の手を止める。

 が、時すでに遅し……。

 早苗の目付きは危ういくらいにトロンとしている。

 とりあえず、これ以上飲ませてはいけないと思った矢野は、烏龍茶を頼んで早苗のビールと交換した。

 しばらく烏龍茶を飲んでいれば、酔いも覚めるだろう。


 食事を急いで食べ、お会計をすませた。


「あれ、矢野さんもう帰っちゃうの? 」

「うん、連れが酔っぱらっちゃったから」

「まだ全然飲んでないのに? 」


 矢野は早苗に腕を貸して立ち上がらせると、大将や綾に挨拶して店を出た。

 このまま電車に乗って帰れるとも思えないし、とりあえずどうしようか考える。マンションの下のファミレスは、今改装工事中のためやっていないし、この時間に開いている喫茶店もない。


「多田さん、うちで酔い覚ましますか? 」

「矢野君ち? 行く行く~! 」


 昨日もそうだが、この人は絶対お酒飲んだら駄目な人だ。男に対する警戒心の欠片もない。自分ちに平気で男を入れたり、誘われたらついていったり。


 とりあえずマンションの自分の部屋に連れて帰り、早苗に水を出した。

 自分は買いだめてあるビールの缶を開けた。


「あ、矢野君だけズルい! 」

「駄目ですよ。帰れなくなっちゃいますから」

「別にいいじゃん。昨日はうちに泊めたんだから、今日は泊めてくれたって。明日日曜日だしさ」

「そりゃ、泊めるのはかまいませんけど、また二日酔いになりますよ」

「大丈夫、大丈夫。ビールなら平気よ」


 なるほど、昨日はチャンポンしたから駄目だったのだろうか?

 矢野は早苗の言うことを信じて、ビールを一本渡す。


「これだけですよ」


 早苗はビールを開けると、美味しそうに飲んだ。

 いつもは不健康そうな早苗だが、お酒で頬が桜色になり、目の回りも化粧をしたようにホンノリ赤い。血色が良くなっているのか、唇の色まで赤く見える。口紅は落ちているのに。

 通常の早苗なら、口紅がはげたまま人前に出ることはないのだから、やはり酔っぱらっているのだろう。


「あの、まじで泊まっていくんですか? 」

「なによ~! 駄目なの? 」


 矢野はため息をついた。

「じゃあ、着替えますか? ワンピースがシワになったら困るから」

「うん」


 矢野は自分のTシャツと短パンを持ってきた。新しい物はなかったが、比較的新しいやつだし、もちろん洗濯済みだ。


「これでいいですかね? 」

「いいとも~! 」


 だいぶ前に終わった昼番組の掛け声のような口調で言うと、いきなり目の前でワンピースのファスナーを下ろしだす。


「多田さん! 」


 目をそらせなかった。

 ほっそりとした贅肉のない身体。胸は小振りだが、上下揃いの下着は大人の女性らしいものだった。

 ストッキングを脱ぎ、矢野のTシャツを着ると、まるでワンピースのように早苗の身体を隠してしまった。

 矢野は、その時始めて、早苗から視線を外すことができた。


「多田さん、ちょっとまずいですよ! 僕も一応男なんですから、もう少し警戒心を持たないと! 」

「警戒心? 」


 早苗は、矢野に短パンを投げ返してきた。

 どうやら、ずり落ちてしまいはけなかったらしい。


「私に警戒心がないから、矢野君は私にキスしたの? 」

「えっ? いや。そういう訳じゃ……」


 短パンを拾い上げ、たたんでソファーに置くと、矢野はソファーに座った。早苗もその横に座る。


「その、軽いつもりでキスした訳じゃないです。信じてもらえないかもしれないけど、多田さんのこと女性って意識したら……」

「好きな子がいるのに? 」

「それを言われると……。でも、フラれてますし」


 早苗は、ビールをごくごくと飲み干してしまう。


「空! お代わり! 」

「はい」


 矢野は、気まずさもあって、ビールをもう一本持ってきて早苗に渡した。


「じゃあ、私にどんなつもりでキスしたの? 慰めてほしいとか?

 遊び心? 」

「それは違います! 」

「じゃあ何よ! 」


 矢野は、早苗の口を強引に塞いだ。自分の口で。


「早苗さんこそ、彼氏とかいないんですか? 」

「いないわよ。十五年くらいいないわね。悪い? 」


 なぜか威張って言う早苗は、年下に見える程可愛らしかった。


「いや、悪くないです」


 今度は早苗の方からキスしてきた。

 矢野が舌を入れると、不器用に反応が返ってくる。


 やはり、早苗とのキスは相性が合った。貪るように早苗の唇を味わい、舌を絡める。


 二回目は、さすがに言い訳のしようもない。

 矢野は早苗の魅力に降伏した。

 フラれたばかりで節操がないと言われれば申し開きもできないが、早苗を女性として意識しているのは事実だから。


「早苗さん、僕が彼氏になってもいいですか? 」

「いいとも~! 」

「だから、冗談じゃないですから」


 矢野は唇を重ねたまま、ゆっくり早苗の身体をソファーに押し倒した。




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