第52話 番外編 その後の矢野5

「ヤバイ! ヤバイ! 」


 矢野は、スーツのジャケットを忘れてきたことにも気づかず、早苗のマンションから走り出た。


 外は昼過ぎで、まだ蒸し暑かった。蝉の声がより暑さを強調しているようで、矢野は立ち止まって汗を拭う。

 走ったせいなのか、さっきの出来事に対する冷や汗かわからない、嫌な汗が額に滲む。


 いや、あり得ないって!

 多田さんとキスとか、絶対駄目でしょ?

 しかも、フラれた寂しさからなんて、最悪だ。

 でも、彼女もそれを知った上で僕に身を委ねてきた訳で……。


 矢野は、軟らかい早苗の身体の感触を思いだし、頬がカーッと熱くなる。

 今まで、早苗を女性として意識したことはなかった。

 できる上司で、尊敬する一人だった。

 それを初めて女性だと認識してしまったのだ。


 キスをしている間は夢中で、その薄い唇に魅了されるように吸い寄せられた。

 舌は肉厚で、しっとりと絡み、いつまでも絡めていたかった。

 今まで、付き合った人数は少なく、キスした人数も彼女の数とイコールであるが、その少ない人数の中でも、早苗とのキスは最高だった。

 思わず身体が反応してしまい、矢野は慌てて早苗の部屋を飛び出してきたのである。


 まさか、勢いで身体を重ねていい相手ではない。

 いや、キスだって本当はまずすぎるのだ。


「まいったな……」


 自分の最寄り駅までつき、やっと少し冷静になった矢野は、そこで初めてスーツのジャケットを忘れてきたことに気がついた。

 矢野はホームのベンチに座り、早苗にメールをうった。


“矢野です。すみません、ジャケットを忘れてきてしまいました”


 なんてうったらいいのかわからず、状況報告のみの短いメールになってしまう。

 返信はすぐにきた。


“クリーニングに出しておきました。社員証と名刺入れ、出させてもらいました。急ぎで出したので、今日の夕方出来上がるそうです”


“ありがとうございます。明日とりに伺ってよろしいでしょうか? ”


“了解しました”


 メールはそこで終わる。

 明日、会うことになってしまった。

 矢野はスマホをしまうと、ベンチから立ち上がり改札を出た。


「矢野さん? 」


 聞きなれた声が矢野を呼び止めた。

 振り返ると、明るい茶髪のにこやかな笑顔の女の子が手を振っていた。彼女は徳田麻衣子とくだまいこ、大学一年生だ。

 相変わらずスタイルがよく、可愛らしい。

 回りの男子が目で追ってしまうくらい魅力的なのに、本人は全く気がついていなかった。


「まいちゃん、引っ越したんじゃなかったっけ? 」


 最近まで近所に住んでいたが、夏に彼氏と同棲を始めたと聞いていた。


「ちょっと居酒屋政いざかやまさに忘れ物しちゃって」


 居酒屋政とは、麻衣子がバイトをしている居酒屋で、矢野が初めて麻衣子に会った場所である。

 お盆前にはフラれているのだが、それからもしょっちゅう居酒屋に行けば会えてしまい、どうしても未練が断ち切れないでいた。


「昨日は珍しくいらっしゃらなかったですね」

「うん、ちょっと会社の人と飲んでいてね」

「そんなんですね」

「まいちゃんはこれから帰るの?

「いえ、バイトなんです」

「居酒屋? 」


 居酒屋は昼定食もやっているはずで、昼も入っているのだろうか?


「いえ、大学の近くの駅ビルで販売のバイトしてるんです」

「へえ、洋服とか? 」

「いえ……、ランジェリーショップで。アハ、夏に短期で入ったんですけど、彼氏が土日にバイトするなら、そこならいいって」


 なるほど、彼氏君も心配なんだな。ランジェリーショップなら、店員も客も女性だろうから、ナンパとかないだろうしね。

 それにしても、本当に偉いな。平日は夜居酒屋でバイトして、休みまで。生活費のためだと言うんだから、人は見た目じゃないよね。


「そっか、じゃあ頑張って」

「はい、ありがとうございます。また、居酒屋にいらして下さいね」

「ああ。またね」


 麻衣子が改札を入るのを見守り、麻衣子も元気に手を振ってホームへ向かっていった。


 矢野は大きな欠伸をして、自分のマンションに向かって歩きだした。


 矢野が自分のマンションに戻り、風呂に入って仮眠のつもりが眠りこけてしまい、目が覚めた頃には辺りは暗くなってきていた。


「何時だ? 」


 スマホで時間を確認すると、夕方の七時だった。

 気がつかなかったが、メールが入っている。


“多田です。クリーニングできあがりました。もしよかったら届けましょうか? ”


 メールが届いていたのは一時間前。

 矢野は慌ててメールを返した。


“すみません。寝てしまっていて、今起きてメール確認しました。申し訳ないので、僕がお伺い致します”


“いえ、実は駅まで来てしまいました”

“すぐに駅に行きます”


 矢野は慌ててジーンズをはき、マンションから駅に向かう。


「多田さん、お待たせしました」

「いえ、ずいぶん早かったですね」

「すぐそこなんで」


 早苗は、会社では見たことのないワンピース姿で、髪の毛もおろしていて、年齢よりも幼く見えた。


「これ、スーツの中に入っていたものです。では」


 早苗は、クリーニングを矢野に手渡すと、さっさと帰ろうとする。


「あ、待って下さい」


 矢野は慌てて早苗を呼び止めた。クリーニング代を払わないといけないし、わざわざ来てもらって、そのまま帰すのもなんだ。


「多田さん、夕飯は食べましたか? 」

「いえ? 」

「じゃあ、今日はおごらせて下さい。昨日は、出してもらいましたし、クリーニング代もお返ししないと」

「そんなのはいいのよ」


 せっかく清楚で女性らしい格好をしているのに、口調はいつものハキハキした早苗のものだった。


「すぐそこの居酒屋なんですが、飯が凄く旨いんです」

「お酒はちょっと……」


 今朝の二日酔いを考えると、しばらくは酒を飲もうと思えない早苗だ。


「大丈夫です。いつも夕飯がわりに食べに行ってるんで、酒を飲まなくても行けますよ」

「なら……」

「じゃあ、先に荷物を置きに行ってきます。すぐ戻りますから、待っていて下さい」


 矢野が走って荷物をマンションへ置きに行って駅に戻ると、早苗が矢野を見つけて手を振った。

 その姿を見て、矢野の心臓がバクンと鳴る。


 麻衣子のように健康的な美しさではなかったが、華奢な身体にモスグリーンのワンピースがよく似合っていた。自分に向かって手を振るその細い腕も、膝丈のスカートから覗く細い足首も、矢野の視線を釘付けにする。


 上司ではなく、女性にしか見えなくなっていた。


「どうしたの? 」

「いえ、行きましょうか。駅の反対側なんですがすぐですから」


 居酒屋政につくと、席はいっぱいでカウンターのみ空いていた。


「すみません、カウンターでいいですか? 」

「かまわないわ」


 カウンターに通され、バイトのあやがオシボリを持ってきた。


「矢野さん、今日は麻衣子は来てないですよ」

「いや、別にまいちゃんに会いに来てる訳じゃないから」

「またまたあ! 矢野さんが麻衣子狙いなのはバレてますよ」


 この子はいい子なんだけど、いまいち回りが見えないというか、それを今言うかね?


 矢野は、早苗にメニューを見せてオススメを伝える。


「やだ、矢野さん。お連れさんがいたんですね。いつもみたいに一人で麻衣子に会いに来たんだとばっか」

「綾ちゃん、とりあえずビール持ってきて。多田さんは烏龍茶にしますか? 」

「ううん、まあ、……一杯くらいなら」

「じゃあ、生二つね」


 ビールが持ってこられ、とりあえず乾杯する。

 定食一つと適当につまみを頼み、なんとなく不自然な空気が流れる中、二人で並んで食事し始めた。

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