第50話 番外編 その後の矢野3
「……水」
身体が重く、頭がガンガンする。起き上がると、胃がムカムカを通り越してギュッと掴まれているような気持ち悪さを覚えた。
思わずソファーベッドに倒れ込み、身体を丸めて目をつぶった。
今までで経験したことのないような二日酔いだ。
「水ですか? 」
女の独り暮らし、聞こえるはずのない声に、早苗は硬直してしまう。
目の前に水の入ったコップが差し出され、恐る恐る目を開けてその手を見る。
骨ばった大きな手、爪の形が綺麗だった。明らかに男性の手。腕はほどよく筋肉がつき、あまり毛深くはないようだ。肩から首にかけての筋に、男性の色気みたいなものが感じられた。
首から上の顔は……。
「矢野君!? 」
早苗は、瞬時に自分の格好を確認する。昨日着ていたスーツを着ていた。
内心ホッとし、最大限の精神力をフル稼働して、仕事モードの表情を作り、二日酔いをおして起き上がると、矢野の手からコップを受け取った。
「ありがとう……」
水をイッキに飲み干すと、胃のムカつきが少し緩和された気がした。
テーブルには、昨日の残骸だろうか? ケーキとワイン等のボトルが転がっている。
「なんでケーキ? 」
「多田さんが、僕の誕生日パーティーをしてくれたんですが、……覚えてないですか? 」
「誕生日……、もちろん覚えているわよ! 」
嘘だった。
第一、矢野の誕生日すらいつか思い出せない。昨日だったんだろうか?
記憶にあるのは、紫蘇焼酎を飲み始めたくらいで、それもアヤフヤなくらいだ。
昨日は、矢野が最近落ち込んでいるように見えたから、悩みがあるんじゃないかと思い、思いきって食事に誘ったのだ。
なんでまた矢野君がうちにいて、しかも朝まで一緒って……。
まずいわ!
まさか、上司権限を振りかざして、矢野君を連れ込んで……?!
記憶がないのだから、自分の行動に自信がない。
身体を起こしているのも辛く、早苗は気力だけで身体を支えていた。
「矢野君、……あの」
「水、もう一杯持ってきますか?
」
「あ……あ、お願い」
コップを渡すと、矢野は当たり前のようにコップを受け取り、台所へ向かう。
矢野はスーツのジャケットは脱いでいたし、ネクタイも外していたが、半袖Yシャツにスーツのズボンのままだ。お互いの衣服の状態からも、最悪の事柄には陥ってないと思う。いや、思いたかった。
「二日酔い……やばそうですね。すみません、飲ませすぎちゃいましたね」
「自己責任よ」
「今日一日潰れちゃいそうですね」
「たいした用事があるわけじゃないから。矢野君、あの、いつもはこんなに散らかしてないのよ。たまたま忙しくて……」
昨日帰ってきた時は全く気にしていなかったのだが、素面になったら、さすがに部屋の汚なさが気になったようだ。
早苗は、立ち上がれるものなら片付けたい! と思いながら、とても歩ける気がしなく、ただ言い訳のようにつぶやいた。
「気にしなくていいですよ。多田さん、お粥くらいなら食べれますか? 少しお腹に入れた方がいいかもです」
「うん、食べれそうだけど……」
家で料理なんかしたことがない早苗だから、米すらないというか、炊飯ジャーも存在しない。かろうじて鍋はあるが。
そんな女子力0さ加減をさらけ出すわけにもいかず、早苗は食べれないと言えば良かったと後悔した。
「じゃあ、ちょっと買い出ししてきますね」
「あ、いや、今ちょうどお米もきらしていて……」
元からない……と言うのが正解なのだが。
「大丈夫です。お粥のパックも売ってますから」
「いや、うちあまり物がないというか、調味料とかもきらしていて」
もう、諦めて最初から何もないと、料理はしないと言った方が良いのではないだろうか?
調味料まで全部きらしてるって、あり得ないよね?
「大丈夫です。じゃ、行ってきます。すぐに帰ってきますが、一応鍵しめてくださいね」
「ごめん、歩けそうにない。鞄の中に鍵入ってるから、鍵持っていってくれる? 」
矢野は鞄を早苗の元に持ってきた。早苗は鍵を出して、矢野に渡した。
矢野が出掛けてすぐ、吐き気に襲われて慌ててトイレへ駆け込んだ。
胃の中の物を全てもどし、しばらく便座を抱えこんでいた。矢野が買い物に行っていてくれて、本当に助かった。こんな醜態、部下に見せられたものではない。
吐いたせいか、少しすっきりした早苗は、這いながらリビングダイニングに戻る。
少しでも片付けようとしてみたが、テーブルに突っ伏してしまう。
無理だ……。
「多田さん、大丈夫ですか? 寝てて下さいよ。片付けは後でやりますから。ちょっと台所借りますよ。」
戻ってきた矢野が、早苗の腕を引っ張り、身体を支えるようにしてソファーベッドに運んでくれた。
矢野は手早くテーブルの上を片付け、買ってきた物を持ってキッチンへ向かう。
白粥のパックと、みじん切りされたネギ、卵、醤油とダシも買ってきていた。
鍋に入れて温めている間に、昨日使ったマグカップや皿を洗う。
卵にダシと醤油を入れて溶き、お粥に回し入れる。卵に火が通ったら完成だ。
「出来ましたけど、食べれますか? 」
「食べたい気持ちはある」
早苗はなんとか起き上がり、矢野の作ってくれたお粥を口に運んだ。
「美味しい……」
染みる味だった。
なぜか、意味もなく涙がでそうになる。
「それじゃあ……」
一口食べた早苗を見て、矢野は立ち上がる。
帰ってしまうのだろうか?
今ここに矢野がいて、早苗にお粥を作っていること自体イレギュラーなことだし、矢野が帰るのは当たり前のことなのに、早苗は無性に心細くなってしまう。
そんな早苗の気持ちが表情に出たのだろう。矢野は戸惑ったように早苗を見たが、すぐに目元を和ませて軟らかい笑みを浮かべた。
「もう少し……いてもいいですか? 多田さんが復活するまで。やっぱり僕のせいでもあるんで」
「私はかまわないわ。矢野君、あなたの食事は? 」
「一応、パンを買ってきたので、食べようかな。一緒に食べてもかまいませんか? 」
「どうぞ、食べてちょうだい」
本当は、気づかってくれてありがとうと言いたかったが、つい上司の口調になってしまった。
ゆっくり食事をとり終わり、ソファーベッドを背もたれにしてまったりしていると、もう吐き気に襲わることなく、頭痛もかなり弱まってきた。
話しをする余裕もでてきた早苗は、チラチラ矢野を見ながら、昨日のことをなんと切り出したものかと悩んでいた。
まさか、私何かしましたか? なんて聞けない!
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