第48話 番外編 その後の矢野 1

 矢野圭吾、昨日二十六才になった。

 彼女いない歴三年。

 つい最近、近所の居酒屋でバイトをしていた女の子にフラれたばかりだ。


 まだ始まってもいない恋だったが、けっこうマジでいいかなって思っていた。

 見た目はチャラチャラしてるっぽい彼女だったが、バイトは一生懸命やっていたし、手際もいい。話してみると、喋り方もしっかりしていて、頭の回転も良かった。

 男受けしそうな見た目のわりには、なぜか自分に自信なさげで、そのギャップも良かった。


 家賃を払うならと購入したマンションに、一緒に住むなら彼女みたいな子がいいな……と思うくらいに惚れていた。

 つまりは、かなり本気だったわけだ。


 いまだに、駅前の居酒屋に行けば彼女に会えてしまい、ついつい未練がましく通っていた。

 むろん、友達として彼女と接している。


「矢野君」

「はい」


 営業帰り、矢野は上司の多田早苗たださなえに呼ばれた。

 彼女は市島と同期ではあるが、大学院をでてからの入社で、年齢は確か三十。異例の出世で女性ながら課長補佐に就任したばかりだった。今年中には課長だろうと噂されている。

 矢野の仕事のチームリーダーでもあるため、直属の上司でもある。


「ちょっといいかな? 」


 うながされるままにオフィスを出て、社員食堂に連れて行かれた。社員食堂といっても、お洒落なカフェのような作りで、会議室がとれない時は、ここでミーティングを行ったりすることも多かった。


「矢野君って、東京の人なんだっけ? 」

「まあ、西東京ですね」

「通い? 」

「いえ、独り暮らししてます。通うと、一時間以上かかるんで」

「そうなんだ。……独り暮らしは大変なのかな? 」


 最初、何か失敗でもして呼び出されたのかと緊張していたが、話すのは世間話しのようなものばかりで、仕事内容については一言もなかった。


 しばらく話していると緊張もほどけ、矢野は早苗のことを観察する余裕もでてきた。


 黒い長い髪を、後れ毛もなくアップにしており、黒縁眼鏡の下の化粧は、社会人としての最小限の嗜み程度の薄づきだ。細い二重ではあるが、切れ長の目は知的なイメージを強調している。鼻は細く高く、唇は女性のわりには薄めかもしれない。

 常に、黒か紺のパンツスーツで、スレンダーなその身体を包んでいた。


 なんていうか、比べるのもなんだけど、麻衣子ちゃんとは正反対なタイプの女性だな。


「……それでね、今日の夜なんかどうかしら? 」

「今日ですか? 」

「用事ある? 」

「いえ別に……」

「じゃあ、七時に駅前の鳥越で」


 時間と場所を指定すると、早苗は椅子から立ち上がり歩いて行ってしまった。

 話しに集中していなかった矢野は、いきなり時間と場所を指定され、戸惑いながら早苗の後ろ姿を目で追う。


 歩き方、綺麗だな……。


 まるで一本のラインの上を歩いているかのような足さばきで、まさに颯爽という言葉が似合う。

 思わず見惚れてしまいながらも、なんで自分が早苗と食事に行くことになったのか思い返してみた。


 独り暮らしで、食事はどうしているのかみたいな話しから、近所の居酒屋で食べてますって話しをして、居酒屋で美味しいところは……って話ししたかな?

 で、そのうちご一緒させて下さいって、普通に社交辞令的な発言したら、いきなり今夜を指定されたわけか。


 上司と飲み……ないわけではない。今までも、仕事のグループで打ち上げしたりとかで、早苗と飲んだことはあった。

 ただ、二人っきりではなかった。


 男の上司となら、二人では普通にあることなのだが、やはり相手が女性となると、二人っきりというのは、いかがなものだろうか?


 セクハラ、パワハラ等、世間ではうるさく言われている。ちょっと触っただけだとか、そんなつもりで言ったつもりのない言葉などでも、セクハラだなんだと訴えられたりするらしい。


 飲んだ勢い……なんてことにならないよう、気を引きしめないといけないな。

 彼氏は? とか、結婚しないんですか? とかは禁句だ。


 仕事の話し以外はしたことはなかったが、早苗は仕事面では全く無駄のない、的確な言い回しをする。無駄話しなどをするイメージが全くなく、飲みに行っても仕事の話しになるんだろうなと思われた。


 次のプレゼンの資料でも見直しておいたほうがいいかな?


 矢野は、今晩の飲みに備えて、今手掛けている仕事の見直しと、プレゼンの資料を頭に入れなくてはと、ため息を一つついた。

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