なまえをよぶこと、よばれること。

※時系列としてはおまけ(1)のあたりです


 *


 言霊、という概念があると聞いたのは、零が旅に出てすぐの頃に会った、オリエンタルな雰囲気を纏う商人だった。なんとなく道で声をかけられて、そのまま少し立ち話をした程度だったけれど。

 曰く、言葉を声に載せることが、現実に影響をもたらすと考えられているのだとか。

 言葉ではなく、広く「音」として捉えるならば、自分の生まれ育った国においても、たとえば宗教音楽などに似たような考えを見つけられるけれども、言葉ひとつに魂が宿る、なんて考えはなかった。だから、初めてそれを聞いた時は「なんだそれ」と思ったものだ。

 その概念を教わったあと、件の商人は『ここからは自分なりの解釈になるが』と前置きしてこんな話もしてくれた。

 「言葉に、広く言えば口に出した音に力が宿る。それは一種の呪術であると僕は思う。たとえば何かを名付けることも、その名を呼ぶのも、"お前は、これは、今この瞬間からこの名前だ"という呪詛である。さらに相手が人であれば、名前じゃなくても『そこの人』と呼べばだいたいの人が足を止める。さっきの君みたいにね。でもそれだって、誰かの時間を奪って、自由を奪っていると考えれば、それはひとつの呪いとも言える」

 「うーん、なんか難しい。俺は俺の意思で足を止めて今あなたと話しているだけで、無視する人だってたくさんいるんでしょ」

 「確かに無視される方が多い。だが、無視される、というのは相手を呪うのに失敗した、とも取れないかい?」

 「お兄さん、けっこう怖いことしれっと言うね。でも確かにそうかも、と思ってる自分がいる」

 その小難しいけど不思議な考え方は、零にはとても興味深いものだった。それを伝えると、商人はどうもありがとう、と言った。

 「こんな戯言でも、旅の思い出にしてくれると嬉しいよ」

 「うん。じゃあ、お元気で」

 零はそう言って、きっともう2度と会うことはないだろう商人と別れた。


 *

 ……今思えば、あれも言霊とやらが宿っていたのだろうか。現に、あれから何年も経った今でもそのことをはっきり思い出せるのだから。

 不思議なものだと小さく笑うと、隣にいたユエが首を傾げてこちらの顔を覗き込んだ。

 「零さん、どうしました?」

 「んー、ちょっと昔のこと思い出してて」

 そう言って、零は言霊の話をユエに聞かせた。ユエのいたリクセールもまたそういう概念が一般的でない国で、なおかつしばらくそれどころではない大変な目に遭っていたものだから、興味深そうに聞いていた。

 「世界にはいろんな考え方があるんですね。言葉に力が宿る……」

 そこで、ユエは何かを思い出したように「そういえば」と言った。

 「どうした?」

 「……今ので思い出したんです。昔、母様に言われたことを」

 ユエが母様、と呼ぶのは自分の本当の母である。つまり、まだ幼い日の、でもちゃんと愛されていた頃の話。

 「だれかの名前を呼ぶっていうのは、特別なことなんだよって」

 だから、だれかを呼ぶときには、その呼び方が自分に許されたものなのか、そういう間柄なのかきちんと見極められるようになりなさい。ユエの母はそう言っていたのだという。

 「その時は、偉い人には敬称をつけろとか、初対面の人に対して馴れ馴れしく名前を呼ぶなとか、そういうことなんだろうって思ってたんですけど、もしかしたらそれだけじゃないのかなって……」

 言葉に力が宿るように。名付けが一種の呪詛であるかのように。そういう意味で、名前を呼ぶことは特別だと、あの言葉はそこまでの意味を含んでいたのかもしれない、と彼女は言う。

 「母様も、言霊ってことばを、意味を知っていたのかも……」

 「そうかもね。ユエのお母さん、教養の深い方だったって聞いたことあるし」

 そんなことを話すと、彼女はとても驚いた顔をした。

 「え、そうなんですか?いつ聞いたんですか」

 「ユエを匿ってアナスタシアの情報を集めてた時に聞いたよ。前の当主様、つまり君の両親はけっこう地域のみんなに好かれてたみたいで、他にも色々と教えてくれた」

 「そう、だったんですか……」

 「だからね、当主が変わってユエが脱走し始めて、これは何かあっただろう、と推察してる人も少なくなかったよ。なんか当主様変わってからあの家に近づきたくなくなった、って言ってる人もいたし、ユエのことを心配してる人もいたね、あの子はあのままあの家にいて大丈夫なんだろうかって」

 「国を巻き込むレベルの家出少女の肩を持つなんて……」

 ユエがそう言ったのは、家出はあくまで自分の非であり、義両親は悪くないと思う大人が多いと思っていたからだろう。だから、国を騒がせて迷惑な、と思われることはあっても、自分の身を案じてくれていたなんて思ってもみなかっただろう。

 「そういうのってね、事情を深く知ることのできないところにいても、長年見てれば分かったりするもんなんだよ。とくに、あの地域の人はユエのご両親がどんな人か知っていて、きっとずっと幼い頃のユエのことだって見ていた。だから、ユエが理由なく勝手な意地であんなことはしない、と思われていたんだよ」

 それに、と零は付け加える。

 「君のご両親だけじゃなく、君もあの地域の人には好かれていたよ、確実に。おかげでユエの戸籍がこっちに移ってからうちにめちゃくちゃ君宛の手紙が届いてるんだから。大丈夫か、元気でやれてるかーって」

 「えっ」

 「今度ラインムート帰った時にでも見てみる?ほんとにたくさん来てるよ」

 「……それは、読まないといけない気がします」

 「うん、そうしてみな。……なんか随分話逸れちゃったね」

 零がそう言って笑うと、ユエもあ、と声を漏らした。

 「本当ですね。名前がどうとかって話だったはずなのに」

 「でもこうなったのもユエがあの思い出を話して聞かせてくれたからであって、やっぱりそれは言葉の力なのかもね」

 「確かに、そうかもしれません……ところで、零さん」

 「どうした?」

 「零さんは、だれかに名前を呼ばれて特別だ、って感じることってあるんですか」

 母様の言っていたことに込められていた、あの時には気づけなかった少し深い意味を汲んで、でもまだ自分にはピンとこない、とユエは言う。だから、教えて欲しいと。

 これはけっこう鋭く来たな、と零は思った。なぜなら自分は、馬鹿正直にはその質問に答えられないからだ。

 「……特別だなって思うことはあるかなぁ。同じ呼ばれ方でも違う人だと違うように思うし、同じ人でもいつも呼んでいるのと違う呼ばれ方されると戸惑うし」

 「……分かったようで分からない」

 「ユエだっていつか分かるよ、多分」

 あまりこれ以上追及されても困るので、零はそう切り上げた。ユエは些か不満そうにしていたが、これ以上聞いても分かることではないと感じたのか、それ以上の追及はしてこなかった。



 だれかに呼ばれた名前が特別だと思うようになったのは、つい最近のことである。

 ユエを掻っ攫うために全てを明かしたあの日、戸惑うように彼女に呼ばれた「レイ」という名前。

 王城にいない時は常に零と名乗っているので、確かにレイと呼ばれる頻度は少ない。それでもレイという名は自分の本名で、当たり前のように呼ばれた名前なのだから、久し振りにそっちの名前で呼ばれたからと言って、特に何も思うことなんてなかった。なかったはずだった。

 けれども、彼女が口にした自分の名前だけは、特別自分に響いたのだ。

 彼女に零と呼んでほしいと言ったのは、本当は、本名がどこかでバレるのが嫌だからではない。

 ……彼女にレイ、と呼ばれるのがむず痒かったからである。

 「なんて、言えるわけがないでしょうが」

 零はそう言って、気持ちよさそうに眠るユエの頬をつつく。この娘は眠りが深いので、この程度では起きる気配が微塵もない。色々あって、今は同室で寝起きすることになってしまったわけだが、この寝顔を見るのは自分だけの特権であってほしい。

 「なんかムカつくなー、この幸せそうな寝顔……」

 そんなことを呟きつつ、彼女の白髪に手を触れた。本人はいい思い出がないからか、髪を褒めると嫌がるけれども、零は綺麗だ、と思う。

 「……惚れ込んでるなぁ、俺」

 そもそも、赤の他人のために自分の身分を振りかざしてここまで無茶をするほど、自分はお人好しのバカではない。彼女があの宿で暮らし始めて然程経たないうちから、惹かれてはいたのだろう。自覚したのは、彼女が置き手紙を置いて去ったあの夜だったけれども。

 どうにかなれるとは思っていない。むしろ、彼女から見れば零はただの保護者であるので、脈なんてないに等しい。だからこそ、自分からそういうことは言わないし態度にも出さない、と零は決めている。

 「……俺も、そろそろ寝るか」

 おやすみ、と一声かけて、零は自分の寝台に潜り込んだ。


Fin

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