一字違いがもたらす幸福
※時期としてはおまけ(1)とおまけ(2)の間
*
今から思えば、数日前にはその予兆があった。が、気のせいだと決めつけて、気がつかないふりをした。そして、その結果、
「……えっ、ユエ!?」
――倒れた。
*
その日、レイとユエは朝からヴェストファールの城を訪れていた。レイにとっては定期報告会と称した帰省である。
「お帰りなさい、二人とも」
ホールで王妃に出迎えられて、王の間に通されて帰城報告を済ませると、二人は待ち構えていたらしいレイの兄たちとその家族に捕まった。
「久しぶり。元気だった?」
「それなりにね」
「いつも通り仕事は机に積んでおいてやったから」
ニヤリと笑ってセトが言い、レイも嫌味ったらしく返答する。
「はいはい、いつもサボってますから貢献させていただきますよ」
ユエはというと、レイの義姉とその子どもに群がられていた。
「元気にしてた? 暇な時間があったらまた女子会しましょ」
「おかえりなさい! またあそんでね!」
「え、あ、はい……」
倒れたのは、そんなこんなの出迎えを受けた直後、二人きりになってすぐのことだった。
*
気がつくとそこは小さな部屋で、ユエはベッドに寝かされていた。額には濡れタオルが置かれている。
熱に浮かされていることもあって、状況についていけないままでいると、斜め上から声が降ってきた。
「風邪だろうね」
声の主、レイは手にしたガラス管の中にある、水銀柱の横に書かれた数字を見ていた。いつの間にかユエの体温を測っていたらしい。その声こそ平坦だが、彼の眉間には深い深い皺が刻まれている。これは相当怒っている時の特徴だ。
「いつから?」
「……三日くらい前から、なんとなく怠くて」
その雰囲気に気圧されて、ユエは意味もなく言葉に詰まってしまった。
「何ですぐに言わなかった?」
「それは……」
その時は、この程度の不調はすぐに治るだろうし、言うほどのことでもないと思っていた。だが日が経つにつれて症状が悪化してしまった。すると今度は言い出せなくなり、隠し通そうとした。
だが、これを言うとレイはもっと怒る。彼は自分を大事にしろとユエに散々言っているのだ、体調不良を隠した結果倒れただなんて、怒らないはずがない。だから、理由の代わりに謝罪を口にした。
「……ごめんなさい、無理しました」
「ん、よろしい」
やっとレイの眉間から、深い深い皺が消える。
「食欲は? 水分だけでも摂れる?」
「あ、はい……」
少し身体を起こして、コップに入った水を飲む。食欲はあまりないと伝えて、再びベッドに横になった。不調を隠し通すために張っていた気が抜けてしまった今は、とにかく身体が怠いし、頭が痛くて重い。
先ほど身体を起こした拍子に額から落ちた濡れタオルを拾いながら、レイが言った。
「俺の方も、ユエの風邪に気が付けなくてごめん」
再び額にタオルが置かれる。拾ったついでに濡らし直したのか、さっきよりもひんやりしていた。
「レイさんは謝らなくても……」
今回ここまでの大事になったのは、ユエが体調不良を隠したせいなので、レイは関係ないはずだ。しかし、彼は俺も悪いの、と首を横に振った。
「俺の監督不行き届きです。俺は君の上司でもあるから」
「上司……」
確かに身分証上は、ユエは彼の補助役であるので、上司と部下だと言えなくはない。
「そう。だから病気や体調不良はちゃんと報告すること! 原因や病名まで言わなくていいけど、体調が優れないって分かっていれば、多少の配慮はできるんだから」
「はい……」
返事をしながら、ユエは自分の瞼が重くなっていくのを感じた。ここ数日気を張っていたせいで寝不足気味だったのは自覚していたが、それに加えて熱を出しているので、相当な体力を消耗していたのだろう。大人しく眠気に従い目を閉じると、眠りに落ちる寸前のところで、おやすみ、と声がした。
*
再び目を覚ますと、すっかり日が暮れており、部屋の中も薄暗かった。灯りをつけようにも、まだ身体は熱を持っていて怠いし、この部屋の勝手も分からないのでどうすることもできない。額に載ったタオルはまだ湿っていたが、寝てる間に取り替えられていたのであれば、自分がどれくらい寝ていたのかの参考にはならない。果たして今は宵時なのか、深夜なのか。
目が暗闇に慣れてから辺りを見回してみたものの、部屋の中に人影らしきものは何一つとして見当たらなかった。
(レイさん、いない……)
彼はここに帰ってくると、決まって執務室に引きこもる。彼の兄や父から回された大量の書類仕事が待っているためだ。このことについて彼は以前『普段ろくに政務に関われていない分、帰ってきたときくらいは貢献しなきゃね』と言っていたし、彼の兄や父も、レイが普段政務にほとんど関わらないことを引け目に思うことがないように、簡単な仕事を敢えて放置してレイに回している。
今回もそれは例外ではないので、いつまでもユエのそばにいる方がおかしい。分かってはいる。
だけど。
「…………」
ユエはベッドから身を起こした。まだ怠いとは言っても、眠りに就く前と比べると随分と楽になっていた。
「……たぶん、いける」
城内を捜索することは無理でも、近くの部屋を覗いて探すくらいはできるだろう。近くにいなかったら、もしくは自分がしんどくなったらまたこっちに戻ってきて寝ればいい。ユエは靴を履くことも忘れて、ぺたぺたと足音を鳴らしながら部屋の扉を開けた。
*
ユエが寝てから、レイは執務室に戻ってひたすら書類仕事を片付けていた。病人の側にいたところで治りが早くなることはないし、城には薬室という組織があり、そこには医官や薬剤師といった治療のプロがいるので、そちらに任せることにした。たまに様子を報告してもらうようには頼んだが、自分が出る幕はないだろう。
夕食の時間になっても仕事が片付かず、食べるのも面倒だからとそのまま仕事を進めていると、母が給仕を引き連れて執務室までやってきた。
「ここにいる間はちゃんと三食食べなさい」
そう言った母は、口角こそ上げて笑顔に見せていたが、目は笑っていなかった。
「……ハイ」
ここでこのまま仕事を続けたらたぶん殺されるので、手を止めて給仕に食事を準備してもらった。もう夕食を済ませたらしい母には、食後の紅茶が用意されている。
「ユエちゃん、どう?」
紅茶を飲みながら、母が言った。どうやら気になっていたらしい。
「あれからずっと寝てるみたい。様子見てくれてる医官さんが、水も減ってないってちょっと前に教えてくれた」
執務机から、食事を用意してもらったテーブルに移動した。今日の夕食は魚介類がメインで、ここに来る直前まで海のない国にいたレイにとってはまさにご馳走だ。いただきます、と手を合わせて、食べ始める。
「……しかし、隠すの上手いのね、あの子。あんたたち三人育てて、風邪引いて無理してるところなんて腐るほど見てきたはずなのに、全く気がつかなかった」
少し暗い表情で母が言った。ユエはまだ、保護者に庇護されて然るべき年齢だ。それでも今回、レイにさえ風邪を隠そうとしたのは、過去に自分が体調を崩した時に、頼れる人が周囲におらず、だから気がつかれないように隠すことが習慣となったからだろう。そんな過去を垣間見てしまっては、親としての責任を果たすことに誇りを持ってきたこの母は悲しむだろうというのは想像がつく。
「国を相手に隠れんぼしてたくらいだし、風邪を隠すのは息を吸うくらい簡単なんだと思う、ユエにとっては」
正確にはアナスタシア家を相手にしていたので国ではないが、リクセールにおけるアナスタシア家の影響力は凄まじいので、このあたりは些事ということにしておいてほしい。
「にしても、もう長いこと一緒に旅してるのに、風邪ひとつ教えてもらえないなんて、よっぽど頼りないと思われてない? 大丈夫?」
「痛いところついてきますね……」
母に指摘されて、レイは項垂れた。
ユエと一緒に旅をするようになって一年と少し。さすがにこれだけ一緒にいるのだから、それなりに信頼はされていると思う。それでもユエが弱った時に、素直にそれを言ってもらえないのは、情けないし悔しい。
「……頑張らなきゃなあ」
頼ってもらえる大人になるために。頼ってもらえる大人であるために。
そう呟くと、母はがんばれ、と言って再び紅茶を口にした。
*
レイが食事を終えると、母は給仕と一緒に執務室を後にした。
あともう一仕事、と思い執務机に向き直った時、扉をノックされる音と、失礼します、という声が部屋に響いた。先ほど報告をくれた医官の声だ。応対すると、少しお時間いただけますか、と訊かれた。
「どうした?」
「彼女が、殿下を探していまして」
「探す……?」
俺を? なぜ。
「多少熱が引いているとはいえ、まだ長時間動けるほどの快復はしていませんから、横になっているように言ってはいますが……」
医官はそこで言葉を切ったが、言わんとすることはレイにも伝わった。
もう少し元気になれば、たぶん、あの子は部屋を抜け出して探しに来るぞ、と。
探すにしても、ここまで必ずたどり着けるほどに快復してから行動するのであれば別に問題はないのだが、彼女の場合、多少雲行きが怪しくてもとりあえず行動してしまうことが意外と多い。城の中で行き倒れられるのはいろんな意味で一番困る。
「今は?」
「薬剤師に監視させています」
「わかった、すぐ行く。君は先に戻ってて」
「承知しました」
執務室を後にする医官を見送り、椅子にかけてあった上着を羽織ってレイも執務室を後にした。
*
部屋の扉がノックされて、ユエにつきっきりになっていた薬剤師が、対応のために外に出た。扉の向こうで何を話しているかまでは聞き取れないけれども、話し声自体はユエにも聞こえる。その中には、ユエにとっては聞き慣れた声があった。
やがてその話が終わり、扉が開く。そこにはもう、薬剤師はいなかった。いたのは、聞き慣れた声の持ち主だけで。
「入るよ?」
確認されたので頷くと、声の主は部屋に入り、ベッドの縁に腰を下ろした。
「レイさん……」
来てくれたのか、わざわざ。
「聞いたよ、俺を探してたんだって?」
「……はい」
正確には『探そうとしたが、すぐ隣の部屋で待機していた薬剤師さんに止められて、ベッドに強制送還』だったが。
「どうしてか、聞いていい?」
「……起きたら暗くて、誰も部屋にいなくて」
「うん」
「…………」
その先はなんとなく言えなくて、言葉が途切れた。だが、レイは言わないままで流されてくれる人ではない。
「あれ、続きは? あるんでしょう?」
こんなことを言って呆れられないだろうか。それくらいで、と笑われるだろうか。
「誰もいなくて、さみしくて……」
本心を口にして、もうどうにでもなれ、と思った。しかし、彼は呆れることも笑うこともしなかった。というか、ユエが予想しなかった言葉を口にした。
「そっか、ごめんね」
「え」
「ただでさえアウェー感の強い場所で倒れて寝込んで、起きた時に顔見知りがいなけりゃ、そりゃ不安にもなるよね。薬剤師さんにも指摘されたけど、俺の配慮が足りなかった、うん」
確かにユエにとってこの場所はアウェーだし、ここにいる人で知り合いと呼べるのはレイとその家族くらいのものだが、それはユエの事情でしかない。レイにはレイの事情がある。
「でも、レイさんには仕事が」
あるから、と言う前に手で口を塞がれた。
「いい機会だし自覚してほしいから言うけど。これまでの色んな経験の中で、ユエが大人にならざるを得なかったことはたくさんあったと思う。でもね、君はまだ子どもなんだよ」
「子ども……」
「年齢的にはそうでしょ?」
そう言われては反論ができない。確かに年齢はまごうことなき子どもだから。
「だから俺に仕事があるとかそんなことは気にしないで、もっとわがままになっていいよ。俺もまだ大人じゃないから、言ってくれなきゃ分からないことだってたくさんあるし。特にこんな時にはさ」
俺がユエくらいの頃なんてわがまましか言ってなかったよ、と彼は笑った。その最大級のわがままが『旅に出たい』で、今日まで続いている訳だが。
「……じゃあ、いっこお願いしてもいいですか」
「どうぞ」
「寝るまで、手をつないでいてほしい、です……」
それは、もう微かにしか覚えていない、本当の母との思い出の再現だった。子どもらしくわがままを言えていた頃の、数少ない、あたたかい記憶。
そうだ、あの時も、すごく寂しかった。風邪を引くという経験がほぼ皆無だったから、身体は怠いし頭は痛いし起きているのも辛かったけれど、このまま寝たらどうなってしまうのかが怖くて不安で、寂しくて。そんな気持ちに気付いたのか、母は「ずっとここにいるから大丈夫だよ」と言って、手をつないでいてくれたのだ。
「お安い御用です」
差し出された手を握る。自分の体温が高いせいか、レイの手は少し冷たく感じたが、それが却って心地よかった。
「……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
*
その夜、夢を見た。
今の年齢のユエと、記憶のままの両親が、アナスタシアの家で暮らす夢。両親が死ななければ、あったはずだった未来の夢。
この夢を見るのは初めてではない。何度も見ては、目覚めた時に絶望した。
だけどもう、目を覚ましても絶望することはないと、そう思った。
——手をつないでくれた人が、ユエの隣にいたから。
(おわり)
月と彗星 桜庭きなこ @ugis_0v0b
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