おまけ(2)

(4)

 告白。

 *

 いつの間に、こんなに成長したのだろう。


 もうずっと前から自分の彼女に対する感情は自覚していた。そうでもなければ、あんな無茶な行動に出ることなどなかったのだから。それが、今から3年前の出来事。

 その彼女は今、自分のことが好きだと言った。

 好きだと言われること自体は実は初めてではなかった。ただ、彼女は子供だから、親愛と恋情を勘違いしているのだと思って言い聞かせてきた。……そうやって、逃げていた。

 旅の終わりは決めていない。今の二人の関係は一緒に旅をする上では一番居心地がいい。だけれども自分の彼女に対する感情を表に出せば、それが崩れる可能性がある。だから、本心はただひたすら押し殺して、彼女の気持ちも偽物だと突き付けて、逃げていた。

 けれど彼女は、勘違いじゃないと言った。「本当に、零さんのことを恋愛的な意味で好きです」と。極めつけは、また逃げようと言い訳を並べ始めた自分の口を彼女が塞いだあとのこの一言だ。

「キスしたいって思っても、こんなに触れたいって思っても、こんなに苦しくてもこれが恋じゃないって、いえますか!」

 負けたと思った。思わされた。と同時に、自分が逃げていたのも馬鹿みたいに思えたし、7歳下の女の子にここまでさせて逃げるのはさすがに男が廃る。

「……負けたよ。俺の負けだ」

 まだ子供だと思って見くびっていた。でも君はもう、子供なんかじゃなかったんだね。苦笑交じりにそう言うと、彼女の目が少し潤んだ。

「今まで逃げて、傷つけてきてごめん。俺も君のことを、恋愛的な意味で好きです。これからは恋人として、一緒に歩いてくれますか」

 その言葉と一緒に、彼女に向かって手を差し伸べる。すると彼女は手を取って。

「っ、望むところです」

「……泣きたいなら泣けばいいのに」

 彼女の目は明らかに泣くのを堪えている状態だったのでそう言ってみると、彼女は力強く首を横に振った。

「絶対泣きません、悔しいから」

「悔しいの?」

「だって散々傷つけられてきたのに、そのたった一言に嬉しくなって泣かされるとか、むかつく」

 これはこの先けっこう根に持たれそうだな、と零は思った。口に出したら火に油を注ぐみたいなものだろうと思ったので心に留める。

「それは本当にごめんって」

「その分たくさん幸せにしてくれたら許します」

 ……うん、だいぶ根に持ってますねこの子。

「善処させていただきます」

 零は恋人となった彼女に、そう言うしかなかった。

(おわり)



(5)一線を越えたいお話。

 *


 二人の関係にひとつ名前が増えてから2年。ユエには、ある悩みがあった。

「最近浮かない顔してるね、どうしたの。悩みでもあるの?」

「あ、いえなんでも!ないです!」

 ここ最近表情がぱっとしないことを訝しんでか零に聞かれたが、ユエは咄嗟に誤魔化した。誤魔化したにしては下手くそでなにも誤魔化せてはいないが、悩んでいるそもそもの原因が零なので、これ以上突っ込まれるわけにはいかない。

「本当に?」

「ほんとになんでもないんで!お気になさらず!」

「ふーん……、まあいいけど」

 なんでもないの一点張りのユエにあまり納得はいっていないようだが、これ以上聞いても無駄だと判断したらしい。とりあえずは追及をやめてくれたことに安堵する。

「まあ、俺に言えないことだったら今度帰ったときにでも義姉さんとかに相談すれば、何かしらは得られそうだけども」

 それは確かにそうだ。自分よりずっと長く生きていて、多分自分よりこの男のことを知っているだろうという気もする。

「そうですね、必要があればそうします」

「……え、ちょっと待って、俺への不満なら直接ぶつけてよ?遠慮とか今更なしだよ?」

「あ、えと、そういうことじゃないんで安心してください!」

「どうかなあ」

「ほんっとに不満とか文句があるとかじゃないんです!」

 不満はない。……不安なのだ。

 *

 恋人、という肩書がついた直後、ユエは零にある確認をされた。それは、ユエのことをいつか妃として迎えたい、ということについて。初めこそこんな拾ったも同然の小娘でいいのか、不相応ではないかと思ったけれど、零が「王子のくせに放浪を許されている時点で俺は王族らしくないからそのへんは大丈夫」と言われ、何が大丈夫なのかわからないが、変わり者には変わり者を、と思うとなぜだか納得できてしまった。だから、自分もできることなら零の側で生きていきたい、と返事をした。ただ、そこまでのことを考えてこれから関係を築いていくなら、と、それなりに色々と考えて覚悟も決めたし、それなりに期待してしまうことだってある。

 悩みの原因はまさにその「期待してしまうこと」の方だった。

 *

 あれからしばらくして、ユエと零は王城に帰省した。ユエにとっては帰省じゃないはずだけれども、帰省と呼ぶのがいちばん面倒くさくないのでそう呼んでいる。城では、先にいつ帰る、と伝えたからかみんな揃って出迎えてくれた。

「ユエちゃん久しぶり!」

 城門をくぐるや否や、真っ先に王妃様に抱き着かれた。曰く、ユエは王妃様に大層気に入られているらしい。

「お、お久しぶりです」

「元気だった?あの男に変なことされてない?」

 王妃様はレイを指さしてそんなことを言った。それにレイがすかさず突っ込む。

「仮にも息子をどこぞの馬の骨と同じ扱いしないでくれる?」

「いいじゃない息子なんだもん」

「ごめん、その理論まるでわからない」

 やっとのことで解放されると、今度はレイの兄二人のお嫁さんとその子どもたちにも抱擁された。

「おかえりなさい。また短い間になるんだろうけど、ゆっくりしていってね」

「ユエちゃん、またいっぱいあそぼーねー!」

「うん、遊ぼう。……ただいま、戻りました」

 自分の生まれ育った家でもないし、おかえり、に対する返事だとしてもただいまと言うのはいいのかとたまに自分の中で疑問になるのだけれども、ただいまと言うと彼らはすごく嬉しそうな顔をして自分を迎えてくれる。それが、いつもすごく嬉しい。もしほんとうの両親が生きていたら、こんな感じだったのかな、なんて考えてしまう程度には。

 *

 その日は、レイは「ここにいる以上さすがに少しは仕事しないとまずいから」と言ってすぐに自分の部屋に籠った。そのため今がいい機会だと思い、ユエは思い切って悩んでいることを相談しに行くことにした。と言っても誰に相談したらいいのかわからなかったので、とりあえず誰か捕まらないかな、と思って食事部屋に行くと、ちょうど王妃様と王子妃2人と子どもたちでお茶をしていたので混ぜてもらった。

「実は、最近悩んでいることがあって」

「あら」

「不安なんです、レイさんとこのままでいいのかなって」

 そう打ち明けると、明るかったお茶会の雰囲気が一変した。王妃様に至ってはまとう空気にダイヤモンドダストが見える。気のせいじゃなければ。しかも、

「あのバカ息子、いったい何をしているの……」

 なんて物騒な台詞と一緒に今にも殴り掛からんという勢いで椅子を蹴倒して立ち上がったので、ユエは慌てて止めた。

「あ、あの、まだ続きがあるので!あとレイさんは悪くないので!そこは信じてください!」

「……ユエちゃんがそこまで言うのならとりあえずは信じるわ。ごめんね、続きを」

「あ、はい。……こんなことを身内の方に言うのもどうかと思うんですけど……。……何もされなさすぎて、不安なんです」

「何も、されない」

 王妃様はユエの言葉を繰り返す。ユエはそれに頷いた。

「はい。言葉では、たまに好きだとか言ってくれるんですけど、何もされなくて」

 恋人の関係になってすぐになにかされていてもきっと戸惑っただろうけど、ここまで長く一緒にいるのに何もそれらしいことをされたことがないというのも戸惑っている。告白したときに強引に自分からキスをしてしまったこともあるので、その流れで自分に付き合ってくれているだけで、レイは自分のことをそういう目では見ていないのではないか、といつからか考えるようになってしまった。ユエがそれらしいこと、を経験していることは自分からは話したことがないけれども、おそらくレイも知っている。

「でも、こんなこと本人に向かって言ったら引かれてそれこそ愛想つかされるのかな、とか、女の子としてどうなのかな、とか思ってしまって」

「意外とその辺の欲には忠実なのね、ユエちゃん」

 すこし面食らったような表情で王妃様にそう言われて、ユエは一気に不安になった。

「……やっぱり女の子としてダメですかね」

 この思考回路に至ったのも生きる手段としてそういう手を選んで経験した結果で、慎ましやかで初心な女の子のままでいたのなら、今ここにはいなかったし、出会うこともなかった。それでも、初心な方がいいのかなと思わずにいられない。しかし、王妃様からは、意外な言葉が返ってきた。

「いや?いいと思うわよ、あのヘタレには」

「ヘタレって」

「だってヘタレだもの。ユエちゃん、何にも不安にならなくていいからそれ本人にぶちまけてしまいなさい」

「え?」

 ふふ、と笑いながら王妃様が言う。

「あなたが心配しているようなことは絶対ないから大丈夫よ。ね?」

 王妃様は同席していた王子妃の2人に問いかける。すると2人も力強く頷いた。

「義母さまがレイ君のことを一番よくわかっているはずだから、と思って黙っていたんだけど、わたしたちも同じ見立てよ。なにも不安がることはないし、結論はレイ君がヘタレってだけ」

「ええ??」

「大丈夫、もし何かあって泣かされることがあったら責任はとるわ。だから思いっきりぶつかってみなさい。……ま、今日はあの子執務室から出てこないだろうから、寝る前くらいしかタイミングがないかもしれないけれど」

 *

 家族も自分がたまにしか帰らないと分かっているから、執務はほとんど振られることはない。しかし、帰城すると意趣返しとばかりに大量の書類仕事を押し付けられる。簡単だけど量があるので終わらない、というタイプのものだ。今回も例によってそんな仕事が待っていたので、先に片づけてしまおうと自室に引きこもって片づけていた時だった。

「お疲れさん。もう夕飯終わったよ、みんな」

「……ルカ兄さん」

 声をかけられて振り返ると、長兄であるルカが立っていた。

「何か用?」

「とくに用はない。世間話をしに来ただけだよ」

「ああそう……」

 ルカが楽しそうに言うので、レイは多分碌な話じゃない、と直感で思った。兄が楽しそうに自分に話を振ってくるときは、自分がからかわれる時なのだ。昔からそれは変わらない。

「で、弟。最近どうなの」

「どうなのって何が?」

 何を訊かれているのかは表情からして分かっていたが、あえて訊き返した。

「もちろん君の姫君のことだけど?」

 ルカはわざとらしい言い回しで確認を取る。ここで噛みついても労力の無駄なのでスルーすることに努めた。が、スルーしきれなかったらしい。その様子を見たルカに

「顔に出てるよ」

 と笑われた。

「一生かかっても勝てる気がしねえ……」

「末っ子の運命だと思って諦めなさい。して、本題だけど」

 そう言われて、レイはえ?ととぼけた声を発した。

「本題って、からかいに来ただけじゃないの?」

「9割は遊びに来たけど、残り1割はわりとまじめな話だよ」

「なにそれ」

 思わぬ展開に驚きながら続きを待つと、ルカは真剣な顔持ちで話し始めた。何だというのだろう。

「その姫君が、母さんやうちのに昼に悩みを相談したらしい」

「なんか悩んでる雰囲気は前からあったから知ってたけど」

「それがお前に関することでな」

「は?」

 自分に対する不満なら遠慮するなと言ったのに。まあそう言ったからといって話してくれるわけはないと知ってはいるが。自分だって話さないだろうから。

「手を出してくれないことを悩んでたらしいぞ。お前まだ何もしてないの?」

「……確かに何もしてないけど、その悩みは予想外だった」

「え、なに不能なの?」

「いくら兄弟といえ言っていいことと悪いことがあると思うんですが!?ていうか違うし!!我慢してるだけだし!!」

「ほんとに?もう付き合って2年なのに何もしてないなんてそれくらいしか思いつかないんだけど」

「んなの抱きたいに決まってるだろ……」

 唸るようにレイは答えた。決して不能なんかじゃないし、割とヤバいことも結構ある。

「じゃあなんで手出さないのさ。もう結婚できる年齢っていうか適齢期だし、将来の意思も確認取れてんだからその辺のしがらみはないでしょ、君らには。正直お前だったら順番逆になっても国民も受け入れてくれるだろうし」

 むしろ、子どもがいる方が行動が落ち着きそうだからさっさと誰かとどうにかなれ、とか思われてそうだよね、なんて言ってルカは笑う。ユエの存在を公式に発表したことはないので、おそらく遊び人と思われている節もあるのだろう。実際は自分で言うのもなんだけど真面目だと思うのに。

「……個人的な信念があるから」

「それで不安にさせてたら元も子もねえだろが」

「そう言われてしまうとぐうの音も出ない……」

 ど正論が直球で返ってくるとかなり痛い。

「……君たち、一回思ってること全部ちゃんと話し合った方がいいねやっぱり」

「やっぱりって」

 そう言われたってこんな話どうすればいいのか。本人が直接悩みを打ち明けてくれなかったのだから、話し合いを始める難易度が高すぎる。しかしルカはそんなことを丸っと無視するかのようにこう言った。

「と、いうわけで連れてきましたので。おいでー!」

 そうルカが呼ばわると、セトに連れられたユエが姿を現した。

「え」

 まさかいたとは。ていうか待て、さっきの話を聞かれていたとしたら割と困る。

「あとは2人で解決してください。お膳立てはしたので」

 そう言うと兄たちはさっさといなくなってしまった。ここで2人で残されても気まずい以外何もないんですが。

「……とりあえず、座ろうか。こっちおいで」

 入り口に突っ立ったまま動かないユエを手招きすると、そこでやっとフリーズが解けたようでのろのろとこちらにやってきた。

 *

 おいで、と言われて連れられたのは執務室の奥、寝室だった。レイの寝室に入るのはこれが初めてで、意味もなく緊張する。その様子を見て、レイが笑った。

「緊張しすぎ」

「だ、だってこんな豪華な部屋が寝るだけに使われてるなんてそんな……」

「アナスタシアだってこんなもんだったでしょ」

「全然違います!」

 一国の王族とそこらの小貴族を比べないでほしい。調度品の格が違うことは見ただけでわかる。

「さて。……じゃあそっちに座ってくれる?」

 と言ってレイが指差したのは、寝台の端。おそるおそる腰掛けると、やはりというべきか、とてもフカフカだった。レイはユエの正面に、スツールを持ってきて座った。

「えーと、じゃあ何から話そうかな……。あ、さっきのルカ兄さんと俺の話、聴こえてた?」

「……若干」

「じゃあそこから話そうか。今まで俺がユエに何もしなかった理由」

 かなり情けない話だから幻滅しないでね、と前置きしてからレイは話し始めた。

「怖かったんだよ」

「怖かった……?」

「そ。この際だからぶっちゃけるけど、俺、アナスタシアに乗り込んだ頃にはユエのことそういう目で見てたんだよ」

「……え」

「あ、引いた?気持ち悪い?」

「い、いえ。……ちょっとうれしいです」

 そんなに前から自分が彼の恋愛対象に入っていたのは純粋に嬉しかった。

「でも、年齢差もあるし、ユエがそういうことを考えられる状態でも年齢でもないのは分かってたから、いいお兄さんでいようと思った。そうやって一緒にいたら、今度はそれが変わるのが怖くなって。ユエの告白から逃げ続けたのもそのせい」

「でも、それだけだと」

 関係が変わった後にどこに怖さを抱いていたかには説明がつかないじゃないか。ユエのその疑問を見透かしていたようにレイは言葉をつづけた。

「うん。……もうひとつは、自分がそういうことをしたいと言ったらユエが嫌でも断らないんじゃないかと思って、怖くて何もできなかった」

「断らない?」

「俺がそういうことをしたいと言ったら、嫌でもまあいいや、って自分の気持ちを蔑ろにする可能性があるだろなって」

「それは……、否定、できないかも」

 そういう雰囲気にされていたら、多分断るのが面倒くさい、と思って流されていただろう。

「そこは否定してよ。あれだけ自分を大事にしなさいって言ったのに」

 レイは苦笑して言った。

「……でも、それはレイさんだからですよ。さすがに見ず知らずの人なら断ります」

「そこは俺でも断ってほしいんだけどな」

 まあそんなわけで、とレイは言う。

「まとめると俺がヘタレで意気地なしだったってことになるかな」

「そう、だったんですか……」

「ヘタレでしょ」

「そんなことないです」

 ユエは首を横に振った。レイはヘタレだと自虐しているけれど、ユエを慮る故の行動だということは嫌でも分かる。

「レイさんは優しいです。……すごく、優しい」

「そう言ってくれると救われるけど、優しくなんかないよ。全然」

「どの辺が」

「だって、座って話すだけなら執務室でも椅子が足りたのに、こっちまで連れ込んでるし」

 そう言うと、レイは立ち上がってユエの肩を少し強めに押した。特に身構えていたわけでもなかったのでユエの身体はあっさりベッドに倒れ込み、さらにその上にレイが覆いかぶさった。いわゆる押し倒されたかたちだ。

「こういう邪な心を抱いてる時点で優しさじゃなくてエゴなんだよ。俺のは」

「それでも優しいですよ。……本当に自分本位なら、ここで押し留まることだってないですから」

「君の経験は特殊すぎるといい加減気づいてくれないかな」

 そう言ってレイは困ったように笑う。

「それでも私はそれしか知らないんだから仕方ないじゃないですか。……ねえ、レイさん」

「何?」

「私、ずっと不安だったんです。レイさんがそういうことをしてくれないのは、私に魅力がないからなのかなって。私の告白に仕方なく付き合ってくれてるのかな、って思ったりもして」

「そんなんだったらあんな確認しないし、そんな不誠実なやつじゃないよ俺」

 あんな確認、とは妃として、のあの話のことだろう。

「わかってます。それでも不安だったんです。だから」

 手を伸ばして、レイの頬に触れる。ベッドサイドにある蝋燭の、風に揺れる微かな灯りを背負った彼はただ美しかった。

「私は貴方にもっと近づきたい。……どうかそれを、許してくれませんか」

「……許すどころか、願ったり叶ったりだよ」

 ふ、と吐息を一つ吐いて、レイは微笑む。ユエが今まで見てきた中でいちばん余裕のなさそうな笑顔で、初めてそんな面が見られたことが嬉しかった。

 *

「……綺麗だな……」

 翌朝、日が昇るより早く起きたレイは、隣で眠る彼女をただ眺めていた。もうすぐ日が昇るころで、窓から覗く空はうっすら青くなっている。

 それにしても、と昨夜のことを振り返ってみると、

「見くびってたなぁこの子のこと……」

 それ以外に感想が出てこなかった。自分から行動を起こしたくないと尤もらしい理由をつけて逃げていた間に、この小さな女の子は自分に体当たりでぶつかってくるまでに成長した。きっと自分はこの先ずっとこの子に振り回されていくのだろう。

「……ま、それでもいいか」

 ユエに振り回されるのなら悪くはない。というか、彼女がそこまで我儘に誰かを振り回せるようになったことがどうしても嬉しいと思うのだ、自分は。

 手持無沙汰だったので髪をずっと撫でていると、程なくして彼女も目を覚ました。

「あ、ごめん起こした?」

「いえ……、おはようございます」

「うん、おはよう」

「……なんか、緊張、します」

「え、なんで」

「こんな寝起きを誰かに見られることなんてなかったから……、全然頭まわってない……」

「確かにふわふわしてるね、雰囲気が。かわいいけど」

 そう言ってやると、恥ずかしそうにレイの胸に顔を埋めた。

「なんでそれで照れる?今更じゃない?」

「女の子は複雑なんです、ほっといてくださいっ」

「はいはい」

 宥めながら抱きしめてやると、彼女は少し身じろぎをした。収まりのいい位置を探していたらしい。

「……レイさん」

「どした?」

「私、いま幸せです。すごく」

「それはよかった」

「レイさんは?」

「俺?」

 幸せかと訊かれたらそりゃ幸せではあるけれども、多分ユエの感じている幸せとは少し違うし、幸福感よりはようやく、という気持ちが強い。まあでも、そんなことを言ってもこの掴みどころのない、でもひたすらに甘い空気を壊しそうな気がしたので、幸せだよ、とだけ返した。

(おわれ)


(6)書きながら砂糖吐いていた朝チュン。

 *

 俺は、崖っぷちに立たされていた。正確には俺の理性が、であるが。

「……おーい、ユエさーん」

 一応呼びかけてみたものの、彼女はうにゃうにゃと何か言いながら余計笑みを深くして再び眠りこけてしまった。これが計算だったらまだしも、ユエの場合残念ながら素であることはもういいかげん分かっている。……だから、性質が悪いのだが。

 どうしたものか、と考えあぐねていると、背後から楽しそうな声がした。

「お困りのようだね、レイ」

「……セト兄さん、なんでここに」

 話しかけてきたのは二番目の兄である。ユエの様子を気にしてやってきたらしい。

「さっき結構飲んでたみたいでふわふわしてたから気になって。はい水、持ってきた」

「ああどうも……。って、見てたなら止めてよ」

「率先して飲ませてたのが父上と母上だったんだが」

「ああ……、うん、ごめん」

 それならば致し方ない。あの二人が組んだのなら止められる人はいないだろう。

 父も母もユエのことをものすごく気に入っていて、こうして連れて帰ってくるたび一緒に食事をするのだが、彼女が飲める年齢になってからは、お酒を飲みかわすようになった。彼女が弱くないことは知っているけれど、雰囲気に流されて飲みすぎる気があるので、普段は近くで自分がその辺を見てやるのだが、今日だけは色々とあってその食事の席に同席できなかったのだ。そして見事に酔わされた彼女はレイの部屋につくや否や、入口のソファに倒れ込むように寝てしまったのである。そのときは机に向かっていて、突然背後で人の倒れる音がしたのだからそれはもうびっくりした。

「……に、しても。ムカつくくらい幸せそうに寝てるな」

 小声でつぶやくと、セトが苦笑する。

「難儀だな、お前も」

「……? どういうこと?」

「彼女が起きたら訊いてみればいいんじゃないか? じゃあ俺はこれで」

 一方的に言い置いてセトは部屋を出ていった。

 *

 とりあえず風邪をひかれては困るので寝室から毛布を引っ張ってきたが、揺さぶってみても彼女が起きることはなかった。

「そんなに楽しかったのかな、今日」

 寝顔を眺めながらそんなことを考える。すると、ユエの瞼がゆっくり開いて、真紅が顔を覗かせた。

「……あ、起きた?」

「……れい、さん」

 いつもより舌っ足らずの声で彼女は俺を呼ぶ。ちくしょうかわいい。

「随分ご機嫌のようですが」

「んふふー」

 ユエはへらへらと笑う。

「たのしかったんです、へいかとおきさきさまとおはなしするの」

 だからこそここまでぐでぐでなのだろう。

「わたしのしらないれいさんのこととか、おしえてくれて」

「それはあんまり聞いてほしくなかったかなぁ」

「あと、わたしもれいさんのことおはなししてきました。それがたのしくて」

「えっ何話したの」

「れいさんがやさしいってはなしです」

 うわー、聞かなきゃよかった恥ずかしい。明日会ったら何を言われるか。

「……でもね、それもたのしくてしあわせだったんですけど」

 ユエはまだ喋る。酒が入るとこの娘はよく喋る。

「このおへやに“かえる”ことができてしあわせだなって」

「……とんでもない殺し文句だね、それは」

 レイはどうにか理性を保っている状態だった。なんかもうここで保っている自分を褒めてほしい。酔ってへにゃへにゃの彼女に「彼氏の部屋に帰れるのが幸せ」などと言われてみろ。破壊級である。

「ねえれいさん」

「何」

「いっしょにねたいです」

「えっ」

 思いもよらぬ発言にものすごく変な声が出た。

「……だめですか」

「駄目じゃないから困ってるんだけど。でも今日は早く寝た方がいいんじゃない?」

 さすがにこんなに酔いの回っている相手をどうこうするのは気が引ける。し、現状今すぐにでもまた眠りこけそうなくらいなので大人しく眠っていただきたい。しかしユエは退かなかった。

「いやです~~」

 ユエはいつの間にか引っ掴んでいたレイの服を引っ張って、こちらの体勢を崩させた。前屈みさせられるように倒れたので、彼女の顔が目の前に来る。すると彼女はうっとりするように微笑んでから、レイに一つキスをした。

 ……うん、もうダメだ。レイは、自分の理性の糸が切れる音を聞いた気がした。

「どこで覚えてくるの、そんな技」

「れいさんにしかやりません」

「噛み合ってないね。まあいいや、寝室まで移動できる?」

「はこんでください」

「どこまでもわがままだなぁ今日は」

 言いながらレイはユエを横抱きに抱きかかえた。所謂お姫様抱っこである。

「あまえたいきぶんなんです。こんなわたしはきらいですか」

「残念ながらそういうところも大好きですね」

「よかった」

 くふふ、と笑うユエの吐息が耳にかかる。もうすべてが煽る材料にしかならなかった。

 *

 翌朝。レイが目覚めたのはまだ陽が昇る前だった。隣ではユエが眠っている。彼女は肌が白いので、昨夜の痕はよく目立つ。いつもは服を着て隠れるようなところにしかつけないけれど、魔がさして、1つだけものすごくよくわかる所につけた。独占欲の顕れとしてご理解頂きたい。

「うう……ん」

 唸りながら眉を顰める。程なくして、彼女が目を覚ました。

「おはよう」

「おはよう、ございます」

 挨拶を返すと、ユエはまたもそもそと布団へ潜る。

「……頭痛い……」

「昨日けっこう飲まされたってね」

「……ごめんなさい」

「なんで謝る」

「だって、昨日すごいだる絡みした……」

 ユエはどれだけ悪酔いしても記憶は飛ばない。だから痴態をはたらいた時もきっちり覚えていて、酔いが醒めるとこうして凹んでいる。今のところ、酔ったユエに振り回されることがあるのはレイだけなのだが。

「謝ることじゃないよ、可愛かったから」

「レイさんは優しすぎですよ」

「ユエって意外とひねくれてるよね。いつからそうなった?」

「レイさんのせいです」

 布団に顔まで埋めているので表情は分からないが、声色だけで不貞腐れているのが分かり、レイは小さく笑った。すると、胸元にか弱い打撃が飛んできた。

「笑わないでくださいっ」

「ごめんごめん」

 謝りながらレイは身を起こし、ベッドサイドのテーブルに置いておいた水を飲む。すると、

「あ、ずるい」

 いつの間にか布団からひょいと顔を覗かせてユエはそんなことを言う。

「何がずるいの、飲みたいなら飲めばいいのに」

「起き上がれないです」

「仕方のない姫様だね」

 言いつつレイは水を口に含み、それをユエの口に流し込む。こくり、と彼女の喉が鳴ってから、レイは唇を離した。

「ごちそうさまでした」

 息のかかる距離で、ユエはそう言って笑う。それに合わせてレイも笑った。

(おわり)

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