第1話 リヴァイアサン

「増えた」

 加代は桜の唐突な話の切り出しについて、意味を図りかねていた。

「なにが。貿易赤字の話?」

「違う。ちん写メおじさんの話」

「ああ、そんなのもあったね」加代はカフェで購入した名前の長い飲み物を飲みながら、平坦な声で応対する。

「飽きるのが早すぎない?昨日の今日でしょ」

 桜は、昨夜、加代の計画を実行し、ある一人のちん写メおじさんからのダイレクトメッセージをスクリーンショットで撮影し、自身のタイムライン上で褒めちぎった。ある一人のチン写メおじさんを持ち上げることによって、他の大多数のおじさんの嫉妬心を煽り、おじさん間の分断を狙う作戦だった。が、しかし。

「ちん写メおじさんの数が明らかに増加した。今までごく善良に振舞っていた一般おじさんまでもが、ちんこの写真を送りつけてきた。これはどういうこと?あんたの作戦通りなら、ちん写メおじさんは減るんじゃなかったの?」

「甘い」加代が一喝する。

「この作戦はまだ第一フェーズも終了していない。かのカルタゴのハンニバルは第二次ポエニ戦争でアルプス山脈を越える行軍を敢行したけれど、ローマに進軍する際には全兵力の五割強を失っていた。しかし結果は、ローマへの大打撃。以降ローマはハンニバルという男を強大で畏怖すべき敵と認識することになる」

「ハンニバルのアルプス越えは戦略的には失敗だったという評価もあるようだけど」

「黙りなさい」加代は痛いところを突かれたのか、一際大きな声で制する。

「物事が好転する前には、悪化するという段階もあり得る。これはウィンストン・チャーチルの言葉だけど、今のこの状況をよく表した名言よ。頭によく刻んでおきなさい」

「チャーチルに関しても非合理的な作戦を好んで被害を拡大させたという評価をよく聞くけど」

「うるせえ!!」ついに加代はばん、と机を叩く。

「つまりわたしが言いたいのは、作戦開始一日目から効果が出ないからってガタガタ言うなってことよ。ローマは一日して成らず、千里の道も一歩から、オールザットグリターイズノットゴールド、よ」

「たぶん最後のやつは意味が違うよね」桜は自分の髪をくるくると指に巻きつけている。

「それに、わたしはこの作戦の第一フェーズではちん写メおじさんは増えると初めから踏んでいた」

「マジで?負け惜しみとか後出しじゃんけんとかじゃなく?」

「姫たるあなたがちんこを送る人間を褒めそやしたら、そりゃ、増えるわよ。ここで重要なのは、今までは善良なおっさんだったけど、潜在的にちん写メおじさんになり得る存在を明らかにしたってこと。現状はまだ、狩るべき獅子を見定めている段階にすぎない」

 薄汚いおっさんを獅子と表現する是非については検討の余地があったが、それ以外の部分は加代のいっていることは尤もな話であった。今いるちん写メおじさんを狩り尽くしたところで、ちん写メおじさんに変貌する文化因子ミームを絶たねば根絶には程遠い。いつの間にか桜は指遊びをやめ、加代の話に耳を傾け始めた。

「それで、増えたあとはどうするっていうの?」

「段階を踏んで話そう。まず、当面の間はちん写メおじさんは増加の一途をたどるでしょうね。理由はさっき説明した通り。ここで考慮しなければならないのは人間の本能よ」

「本能?」

「正確には、人間だけではなく社会的動物の本能、というべきか」

「犬とか猿とか、あとは蜂とかのこと?」

「然り。社会的動物は好むと好まざるに関わらずヒエラルキーを形成する。人間が何人か集まればそれはコミュニティで、そこには社会が存在する。そして、社会が存在する以上、ヒエラルキーも同時に確立される。スクールカーストなんかは良い例ね。人間がコミュニティを作る時、そこには必ず階層も同時に併設せずにはいられない悲しい生き物なのよ。スクールカーストにおける奴隷民シュードラの大島桜さんだったら痛いほどわかるんじゃないかな」

「誰が奴隷だ。殺すぞ」桜はメンチを切る。

「ちん写メおじさんがコミュニティである以上、そこに階層は必ず存在する」

「偉いちん写メおじさんと、偉くないちん写メおじさんが存在するってこと?」

「然り。正確には、というべきか」加代はにやりと笑う。

「加代。もったいぶらないでくれる?あんたの悪い癖だよ」

「ここからが本作戦のキモで、今までちん写メおじさんの中だけにゆるやかに存在していた階層を、桜という外部の人間が破壊した。正確には、今まで階層の下にいたであろうおじさんを桜が褒めたたえ、それによって上位層のおじさんは上位ではなくなり、階層は逆転し、社会は消えた。ちん写メおじさん界はホッブズのいうところの自然状態に回帰することになる。万人の万人に対する闘争というやつよ」

 桜の脳内では、全裸の中年男性が互いに殺しあう地獄のような映像が再生されていた。

「それが今のこの現状。そして、当面の間は続くと予想している」

「わたしはどうしたらいいの?」

「簡単なことよ。桜、あなたはおっさんたちのリヴァイアサンになればいい」

 桜の脳内で起こる中年男性たちの殺し合いに、突如巨大な怪獣が現れた。怪獣は火を吹いて、おじさんたちを蹴散らしている。逃げ惑うおじさん。怪獣に踏まれて動かなくなったおじさん。炎に巻かれて助けを乞うおじさん。はらわたがはみ出してもなお死ぬことができずもがき苦しむおじさん。

 桜の頭は、臨界点を迎えつつあった。

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