◆
いつか役立つかもしれないとメモを取りながら、同じく試飲をしていた伊綱に言う。
「伊綱、父さんと母さんに買って行きなよ」
「姉貴が買って渡せばいいよ」
「だって実家に近いの伊綱だし」
「……わかった、持って行く」
渋々、といったふう。別に両親と仲が悪いわけではなく、ただ、両親のテンションの高さがどうも伊綱と相性が悪い。それでも、たまには会いに帰るぐらいはしてあげてほしい。お節介、かもしれないが、伊綱が孤立しないように、という思いがある。今は自分と繋がっているが、もし一緒にどこかへ行くことがなくなったら、伊綱は一人、暗闇の中を進んで行くようなイメージしか湧かなかった。それがどうしようもなく、不安なのだ。
向かい合うように建っているレストランとワイナリー、その真ん中を突っ切るようにしてある広々とした通路を上がっていく。傾斜、目の前に広がる広大なブドウ畑はまさに圧巻、見上げて口をあんぐり開く。すると、珍しく伊綱がスマホで写真を撮り始めた。楽しんでいるのかどうかはわからない。しかし、澄玲はふっと笑う。
(表情、柔らかくなってる)
一見すれば変わらないが長年一緒にいた澄玲はわかった。僅かではあるが表情が柔らかくなっている。いつも気怠そうにしていて、しかし気が緩む微睡の時が唯一、伊綱の落ち着いた表情が見られる。これを知っているのは身内だけ。少し優越感に浸る。解放的な風景に気も緩む。
「ねえ伊綱、異動になったって聞いたけど、仕事のほうはどう?」
スマホを下し、じっと前方のブドウ畑を見上げながら「ちゃんとこなしてる」と簡素な返事。それは良かった、と少しずれた眼鏡をなおす。家族連れがテラスで食事をしている。どうやら子供がアイスを落としてしまったようで、泣き声が響く。レストランからはとても香ばしい匂いが漂って来て腹を刺激する。ワイナリーからほろ酔いの若い女性が出てきて、彼氏だろうか、手を貸してもらってベンチに座り込む。
風が迷い込み――いたずらに背中を押す。
「その、職場の人とは、上手くやれてる?」
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