第4話
妻はボーダーシャツにネイビーのジャケットという会社帰りの格好だった。
時短勤務なのでおそらくこれから娘を保育園に迎えに行くのだろう。
それにしてもタバコを嫌ってこの店には来ないと思っていたが。
「よう」
目の前に座る妻に僕は普段通りに声をかけた。
いや、いつも通りか?
付き合ってた頃はこれくらいの気さくな挨拶をしょっちゅうしてた気がするけど、今はどんな風に話してたっけ。
自分の声を妙に意識してしまう。
「僕死んじゃったよ」
もちろん妻には言葉が届いていない。
しかし今に始まった事ではないような気もしてくる。
妻に話しかけたとき彼女はどんな反応をしてたんだっけ。どんな言葉を返してくれてたんだっけ。
彼女とどう喋っていたかももう今になっては思い出せない。
果たして妻の言葉が僕には届いていたのか?
僕は妻の言葉を聞こうとしてたのか?
「先に死んじゃってごめんな」
月並みな言葉しか出てこない。これも僕の本当に言いたかった言葉ではない気がする。
妻はどんな表情をするんだっけ。
そして僕は今どんな表情をしているんだろう。
自分が情けなくなってきた。
僕は唇を噛んだ。
ずっと一緒にいてくれてた人を、ちゃんと見てないじゃないか。
しばらく目の前の通りを見つめていた妻は、ふと思い出したようにカバンからタバコを取り出した。
そしておもむろに火をつける。
タバコを吸うようになったのか。
いや、それよりも。
僕は思わず自分の持っていたタバコのくしゃくしゃのパッケージを見返した。
僕が死んだ時に持っていたタバコと同じものだった。
すぐに咳き込んで涙目になりながらタバコを灰皿に押し付ける妻。それを見かけた例のメガネの店員が妻に声をかけた。
「それで最後のタバコですか?」
妻は涙を拭うと店員の方に顔を向けて言った。
「はい。これであの人が遺したものは終わりました」
店員は笑って答えた。
「ご無理せずに処分なされた方が良かったんじゃないですか?」
「いいんです。あの人の気持ちに少しでもなれた気がして。…自己満足ですけど」
妻は灰皿を見て言った。シルバーの小さいイヤリングが揺れる。
「旦那さん、よく来られてその席に座られてたんですよ」
「そうなんですね…初めて知りました」
妻はひと呼吸おくと続けた。
「私、彼とずっとに一緒にいたのに、全然彼の事を知らなかったんだなって、亡くなってから気づいたんです。彼のお気に入りの席もそう、タバコの銘柄も、行きつけのお店も。知らなかったというよりかは、日常を過ごしていくうちに忘れてしまっていました。変な話ですよね。死んじゃったあの人を見たときは、もうあの人だってわからない酷い状態で、でも遺影の写真とか、カメラで撮った写真とか見ても、他人のように見えてしまって。私の記憶の中でも、あの人の笑った顔さえはっきり出てこないんです」
妻の声が震えている。目元に涙が滲んでいる。
「すごく後悔したんです。ああ、全然あの人の事をちゃんと見てあげられなかったって。彼がいる生活に慣れてしまって、子供とか仕事の事で手一杯になってしまってて。中学の頃から知ってたから、ずっと変わらないと思ってたのに、結局変わってしまったのは私でした」
後半は消え入りそうな声で自分に語りかけるようだった。
僕は両手をきつく握りしめていた。今すぐ彼女を抱きしめたかった。しかしそうしたところでどうにもならない事もわかっていた。
「そこの席、ずっと空けとくように店長に伝えておきます。店長も彼のことは店の奥で時々見てましたからきっと大丈夫です」
店員ははっきりとした口調で、優しく言った。
「私達は旦那さんの顔をほとんど覚えておりません。会話もほぼしておりませんので、正直声も覚えておりません。ただ、商売上というのもありますが、その席に座ってる姿だけは今でもはっきり覚えています。一緒に過ごされてたのであれば、きっと頭のなかではまだ残ってるはずですよ。ゆっくりでいいので、意識してみてください。ふとした時にまた、旦那さんが顔を見せるかもしれませんよ。思い出の中で」
妻は泣くのを堪えているようだった。顔が真っ赤になっている。
「また気が向いた時にいらしてください」
妻は鼻からゆっくり息を吸うと、少しだけためてゆっくり口から吐き出した。そしてほんの僅かな笑みを浮かべると、小さく、はい、と答えた。
ああ、そうだ。
この表情を覚えている。
冬の匂いがしていた。
「ねえ、この前の返事、まだもらってないんだけど」
「え?…ああ、そうだっけ」
「うん」
「ん…そうだな」
「…」
「今まで通り…じゃダメか?」
「…」
「ごめん…」
「…バカ」
「え?」
「バカ!」
「ごめんって」
「…いいよ、うん」
「ごめん…」
「いいって!ほら!気にしてないから!えへへ」
雲ひとつなく少し肌寒いが晴れた日だった。
僕はそれからも家にいる。
変わったことと言えば、その後タバコがなくなってしまい、全体的に身体の感覚がなくなりはじめている。それでも妻と娘と奇妙な同居生活を送っている。
直接二人と話すことは出来ないが、以前よりも身近に感じるようになった。
妻もどうやらそのようで、帰ってきて僕の仏壇に娘と一緒によく近況報告をしてくれる。その表情はとても豊かで、楽しかった事や腹が立った事などを手ぶりを交えて話してくれる。
僕はそれがとても楽しくて、嬉しい。
いつかこの日常もまた変わる時が来るのだろう。
僕が死んでしまった時のように。
でも今はまだ見ぬ未来をどうこう考えるよりも、この場所にいて二人を見守りたいと思う。
それが死んだ僕にできる唯一の事であるから。
<終>
死んだ僕と生きてる君たちへ ノモンハンすぐる @bookless
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。死んだ僕と生きてる君たちへの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます