第3話

自宅の最寄りの駅まで戻って来ると、僕は行きつけの喫茶店に自然と入っていった。

そこまで美味しいコーヒーではないが、ここにいると自然と落ち着いた為、妻がまだ恋人だった頃から一緒に通っていた。

子供が産まれてからというもの、タバコの臭いが店内中する、という理由でいつの間にか妻は来なくなってしまったが、その後も変わらず僕は愛用している店だった。


ドアを開けると来客を知らせるベルが鳴った。しかし、いつもにこやかに声をかけてくれるメガネの店員は、こちらを全く見ることはなかった。

わかっていてもやはり気分のいいものではなかった。

反射的にレジに並びそうになったが、よく考えたらコーヒーの注文さえできないな、と諦めてテラスの空いている席に腰掛けて、またタバコを一本咥えて火をつけた。


通りを急ぎ足で歩くサラリーマン、ゆっくり恋人と肩を組みながら歩く大学生、電話をしながら時計を見ている女性、さまざまな人が歩いている。それぞれ皆が自分たちのペースで生きている。それこそ周りなんか見えていないように。

彼らと僕にどれほどの差があるのだろうか。

そんな事を考えてしまうが、やはり決定的な違いが僕と彼らの間には存在する。



生きてても死んでてもほとんど変わらないと思っていた。


しかしその「ほとんど」に含まれている些細な事が、完全に僕から失われてしまっている。そしてその事実が少しずつ、少しずつ僕の身体を通り過ぎていく。降り始めた雨のようにゆっくりと僕を濡らしていく。



本当に、死んでしまったんだな。



何を今さら。


死んでるように生きていたくせに。




僕は肺いっぱいに溜めたタバコの煙をゆっくり吐き出す。

この店のコーヒーがこんなにも飲みたいだなんて。



カラカラと店のドアが開いた。

客はテラス席へ、そして僕が座っている席の向かい側に腰をかけた。

妻だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る