第17話 安息の地。




「これで三回目だ……」


 ルアンが風邪で倒れたのは、三回目。ルアンが限界まで堪えるようになったきっかけを、ラアンは知っている。

 風邪をこじらせて寝込んでいた3歳のルアンは、母親を呼んだ。しかし母親は風邪を移されたくないと、メイドウ達に看病を任せて、ルアンの部屋に入らなかった。医者が許可するまで、ルアンには顔を見せようともしなかったのだ。

 母親はルアンが風邪で寝込んでいる間も、街の名家の夫人達を呼び、お茶会を開いていた。それを部屋の窓から見ていたルアンは、二度と母親を呼ばなくなった。

 それから喉を腫らしても、熱で倒れるまで風邪を引いたとは言わなくなった。人前で咳をしないように、堪えることもしていた。

 ラアンも、酷い母親と思ったが、それでも母親だ。たった一人の母親。代わりなんていない。

 こういう母親だと割り切るしかないとラアンは思えるが、子どものルアンには無理な話。

 ルアンは、母親が嫌いだ。ラアンは知っていた。


 ルアンの部屋の改装は、ほとんどメイドウの趣味である。気を抜くと黒一色になりかねないほど、ルアンの選択はいい加減なのだ。

 以前はピンク一色だったものを、最近、緑色を基調に変えた。厚手のカーテンは暗緑色。ベッドの天蓋から垂らされているベールのカーテンは、鉄色と淡い若緑色の二種類だ。若々しい木を思わせるベッド。

 それを意味もなく整えてから、ラアンはベッドそばに置いた椅子に腰を下ろして、ルアンの額を撫でて前髪を退かす。

 そして掌を、額に重ねて熱を確認する。一時間以内で、かれこれ五回目だ。熱はあまり変わらない。

 熱で出た汗をそっと拭い、氷水に浸けたタオルを絞り置いた。呼吸は荒く、苦しそうだ。そんな妹を見るのは心苦しく、ラアンは小さな手を握った。


「んっ」


 ルアンが呻く。身をよじり、ラアンの手を握り返した。

 ラアンの胸の中が、きゅんと締まる。戸惑うが、ルアンを起こさないようにじっとした。


「……クアロっ」


 ルアンの口から溢れた名前に、顔がひきつる。この小さな掌が求めているのは、クアロだ。


「……クアロ……っ」


 ラアンはビクリと震えるはめとなる。ルアンが目を開いたのだ。潤んだ翡翠の瞳は、クアロを捜す。


「あ、えっと……オレだ。ラアンだ」


 一応、掴んでいる手はラアンのものだと教える。今のルアンに、起き上がる力はなさそうだ。

 しかし、繋がっていた手は振り払われた。


「ゲホッ、ゲホッ」


 ルアンはその手で口を押さえて咳をすると、ラアンに背を向ける。やがて落ち着いて、咳が止んだ。


「……クアロなら」


 ルアンの温もりが消える右手を、握り締めてラアンは呟く。


「他人ならいいのかよっ……」


 ルアンは家族を嫌っている。

 そう感じたラアンは、逃げるようにルアンの部屋を飛び出した。




 ゲホッ、とまたルアンは咳を漏らす。


「知るかよっ……」


 枕をきつく握り締めて、ルアンは吐き捨てた。喉の渇きが限界にまで達したため、水を求めて手を伸ばす。小さな腕では、届かない。


「……っ」


 仕方なく起き上がると、目眩に襲われて顔を押さえた。気持ち悪さが増す。


「……ああ、もうっ……知るかよっ」


 髪を握り締めて、もう一度、吐き捨てたルアンは、ベッドサイドのナイトテーブルに手を伸ばした。掴み損ねて、グラスは床に落ちて割れる。


「くそっ!!」


 風邪のストレスで限界を迎えたルアンは、声を上げると倒れた。

 酷い目眩に襲われ、世界が回るように感じる。目元を押さえて、込み上がる吐き気にも、ルアンは必死に堪えた。




「ほら、ルアン、水よ」


 少しの間、意識を失ってしまったが、ルアンはその声に反応して目を開く。


「水、飲みたかったんでしょ?」


 ベッドに腰掛けたクアロが、水の入ったグラスを差し出していた。


「クアロ……」


 安堵の息を漏らす。


「アンタの弟とちょっと遊んだけど、いい子じゃない。ちょっとは構ってあげなさいよ」


 言いながらクアロは、ルアンの身体を起こしてグラスを口元に運んだ。ルアンはすぐにそれを飲み干した。

 ベッドに横になると、ルアンはクアロの手を握り締める。放さないと言わんばかりの今出せる強い力。


「元気そうね」


 とクアロは笑う。

 息を深く吐いたルアンは、そのまま眠ろうとしたが、すぐに瞼を開いた。


「ラアンと……子守りを交換してたの?」

「ええ。ラアンがルーの看病をしたがったから。一時的にね。さっき仕事に戻るって言って、ロアンを連れてガリアンの館に戻った」

「……ふぅ……ん」


 クアロは答えると冷えたタオルをルアンの額に置く。

 すりすりとクアロの右手に、ルアンは頬擦りした。そんな仕草を、クアロは笑う。


「まだ熱いわね、寝てなさい


 クリクリと、もっちりしたルアンの頬を指でこねた。

「風邪移してやる」とルアンは、細やかな抵抗をする。

「お嬢様と違って、風邪に強いから怖くないわ」とクアロは存分に笑った。

 それでもルアンは、クアロの手を放そうとしない。


「聞いたわよ。アンタ、前にロアンをいじめた名家の子をやっつけたんでしょう? ロアンが自慢したわ。あの子、いい子ね。アンタが好きだって」


 クアロはルアンが眠るまで、話し掛けることにした。クアロの優しさだ。


「……安息の地、か」

「?」


 また安堵の息を吐くルアンは呟く。


「ねぇ……また、寄り添えるかな……ラアンに……家族に」


 ルアンのか細い声を聞き取ろうと、クアロは顔を近付ける。


「……愛せるかな……」


 家族を愛せるか。


「……当たり前じゃない」


 クアロは優しく答えた。


「他人を愛せない……ダメ人間でも?」


 握る手を見つめて、囁くように問う。すると、クアロが吹き出したように笑った。


「私を愛しているくせに」


 愛したいなら、先ずは寄り添う。

 クアロに寄り添い、受け入れてもらえた。ルアンはそのクアロの右手を自分の顔に重ねる。涙声を出す顔を見せないためだ。


「……少しだけ……」


 誤魔化すために、咳をした。


「そばにいて……」


 子どもらしく弱々しい声を聞いて、優しく見つめているクアロは静かに返す。


「朝まで一緒にいるわよ」


 その掌を、決して退かさなかった。


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