第16話 前世の少女。
【 家族は無情な世界の安息の地。
クリストファー・ラッシュ 】
鮮明に詳細に、全てを覚えているわけではない。それでも、確かに前世の記憶がある。
前世の家族は、安息の地とは程遠い。
親には恵まれなかった。母親は身勝手な美女。離婚したが、すぐに他の男を作った。母親は少女を引きとったわりには、いとこの家へ置き去り。別にいじめを受けていたわけじゃない。だが、独りぼっちだった。
居場所のない家の隅で、膝を抱えていた。孤独で、自分のことにも、周りのことにも、無関心でいるようになり、全てがどうでもよくなった。
感情を切り離してしまえば、楽だった。心を引きちぎって、捨ててしまいたかった。
けれども、暇潰しで開いた本が、かろうじて心を留めた。
少女はきっと、物語に救われていたのだろう。
物語が感情を与え、心を潤していた。
もしかしたら、下手をすれば、少女はイカれたサイコキラーになっていたかもしれない。なにも感じなくなりイカれて、何もかも壊して、それこそダメな人間になっていたかもしれない。
物語に涙する心があるから、少女は――――生まれ変われたかもしれない。
生まれ変われたなら、温かい家庭に生まれたいと願った。それこそ、安息の地と呼べる家庭。
生まれ変わる前に、母親は引き取りに来た。まるで何事もなかったかのように、他の子どもとともに暮らし始めた。
放っておかれて、独りにされて、傷付いたことにも気付かない。
置き去りにしたことを、悪びれることもなく、心情を問うこともない。最低な母親だった。
寄り添えることなんてなかった。もちろん、寄り添わない家族だ。
母親は愛していると言ったが、少女にはわからなかった。母親の愛が、わからない。
――捨てたくせに。
――放っておいたくせに。
――独りにしたくせに。
――何が、愛しているだ。
直接、母親にそれをぶつけたことはない。けれども、責めるような視線を向けた。
母親は居心地が悪くなれば、すぐに逃げる。向き合おうとはしない。その度に、不満も怒りも募った。また置き去りにされる不安も感じ、独りで膝を抱えたトラウマが蘇り、どれほど泣いたかわからない。
空しくて、泣いた。失望して、泣いた。悲しくて、泣いた。
いつしか、泣き飽きた。
嘆くことには飽きた。哀れむことに飽きた。悲しむことには飽きた。泣くことには飽きた。
涙が枯れたと思ったが、物語で涙を流すことができた。いつまでも、物語が救って、支えてくれていた。
物語で涙を流すことは、家族の中では少女だけ。それに、また孤独を感じていた。血が繋がっていても、他は何も繋がりがない家族だった。
心から、寄り添うことのないまま、人生は終わった。
生まれ変われたなら、記憶があってほしいと願った。同じ失敗をしないように、今度は幸せになるように、生まれ変わったら、幸せになれると思っていた。
そんな風に来世に期待を寄せ、現世を蔑ろにした罰。
前世の記憶は、生きるには重すぎる枷になった。その枷を、因果と呼ぶのだろうか。
母親は、前世と同じ、身勝手な美女だった。
ルアンは最初、前世の繰り返しにならないように、兄と弟とそれなりに仲良くしていたと自負している。
物心ついた時には、前世の記憶で把握ができた。生まれた世界を理解しようと、言葉を覚えようと、兄ラアンに本を読んでほしいと頼んだ。父親の仕事を手伝おうと忙しそうにしているラアンに、話し掛けるきっかけは、それぐらいしか思い付かなかった。なるべく、寄り添おうとした。
双子の弟ロアンは、ルアンが本を読んでいない時に、ボールや積み木を持って遊びに誘ってくれた。
上手くやっていけそうだとは思ったが、両親の喧嘩をよく目にするようになり、予感はしていた。
母親は、荷物をまとめて出ていった。元々、正式に結婚なんてしていない両親は、それで離婚となる。
ロアンは、泣いた。出ていった扉に向かって母親を呼ぶが、返事もなく、戻ることもない。
ラアンも、泣いた。泣きじゃくるロアンを、抱き締めて堪えていた。
それを見ていたルアンは、またかと諦めた。
――泣いてたまるか。
――また母親せいで、涙を流してたまるか。
母親に置き去りにされることも、母親に失望することも、もう慣れた。今更、泣くわけがない。
――崩れ落ちて、たまるか。
――二度と泣くものか。
感情を、切り離してしまいたかった。心なんて、破き捨ててしまいたかった。
前世の記憶と、現世の記憶は、酷似しているせいでまざりかけている。前世の母親の顔は、現世の母親の顔でしかない。
同じ身勝手で最低な母親。憎らしくて、憎らしくて。
――だいっきらいだ。
憎むことは、酷く疲れる。だから、感情を捨ててしまいたかった。
逃げ込むように、本を読み漁る。その世界の本を読み尽くして、この人生を終えようと思った。
来世への期待なんて、もうしない。もう何もいらない。
前世の記憶は、重すぎる枷だ。身動きが取れないくらい、深く沈んでしまいそうだった。水の中にいるように息苦しく、叫んでしまいたくて、窒息しそうになる。
それは、前世で流した涙。その中にいるのだろうか。冷たくもなく、熱くもない。
――いや、熱い。
ルアンが目を開くと、見慣れた天蓋があった。嫌な夢を見たのだと、ねっとりした熱さを感じて理解する。
咳をして、ルアンはベッドサイドに置かれた水に手を伸ばす。しかし力が出ず、その手をシーツの上に落とす。
熱に負け、息苦しい前世の涙の夢にまた溺れた。
――泣くものか。
前世の自分の姿も覚えていなく、今の姿が浮かぶ。
髪を2つに束ねたドレスの少女が、1人で立ち尽くす。小さな手でドレスを握り締め、堪える。
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――泣いてたまるか。
もう、泣きたくない。
「泣きなさい!」
後ろからかけられた声は――クアロのもの。
振り返った途端、ルアンは目を開いて夢から覚めた。独りぼっちのベッドルームで、乱れた呼吸を整えようとする。それでも前世よりは、苦しくないと思えた。
涙が溢れて、見慣れた天蓋が見えなくなる。小さな両手で覆った。
――大丈夫、クアロがいる。
――クアロが、寄り添ってくれているから。
――記憶の中の少女とは、もう違う。
心から寄り添ってくれるクアロがいる。この人生の安息の地を、見付けた。
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