第5話 カゴの外。




 ルアン・ダーレオクは、この世界で理解できないものを睨み付けていた。

 父親譲りの翡翠の瞳は、兎を映す。長い耳がピンと立っていて、つぶらな赤い瞳をしている白い兎。

 ルアンにとって、その存在は理解できないものだった。


「何故……アレは、兎なの……?」


 公園のベンチに座って、ルアンは疑問を口にする。


「何故って……兎だからでしょ」


 同じベンチに凭れたクアロは、当然のように答えた。

 その当然という認識が可笑しいのだ。ルアンには可笑しくて堪らないのだ。

 ベンチから降りて、ダークブラウンのブーツで立つ。今日も弟の服を借りて、深緑のチェック柄ズボンとシャツに黒いベスト姿。

 男の子の風貌のまま、ルアンは兎に近付いた。

 兎も気付いて赤い瞳にルアンを映す。目の前で足を止めると、ルアンは兎を見据えた。兎も見つめ返す。

 やがて、ルアンは兎の頭に手を伸ばした。

 そして、耳を掴み引っ張り上げた。


「いたたたたっ!? なにをするんだい君!?」


 兎は涙目になり、痛がる。すぐにルアンの手を退かして兎は自分の耳を撫でた。


「なにやってるのよ!? ルアン! 本当にすみません!」


 駆け付けたクアロはルアンを抱き上げると、兎に謝罪する。

 芝生に膝を抱えて座っていた兎は、しゅんと耳を垂らして会釈だけした。

 彼は5頭身の兎である。人間のように色白い肌を出して、Yシャツと赤黒いジャケットを着ていて、7分丈のズボンとブーツを履いている。人間らしい。

 しかし、頭は兎だ。白い毛並みに包まれていて、耳は頭の上でピンと立っていて、髭もある。

 ルアンにとって兎の被り物をした少年にしか見えない。


「何故……被り物じゃないの」

「アンタ、また訳のわからないこと言って……」


 その存在を理解できないルアンを、クアロは呆れながらもベンチに戻す。


「いや、でも、どう考えても可笑しい。あの頭でかすぎるし、何故頭だけ兎なのよ、身体は人間で頭は兎って不釣り合いだから」

「これだから子どもは……。なんでもかんでも、なんでなんでって疑問をぶつけてくる。そういう生き物なのよ」

「子どもにはまだ理解できないからこそ、なんでなんでって訊くのさ」

「どうせ理解できないでしょ。兎人(うさぎびと)と人間の配合だとか、遺伝子とか、答えられてもちんぷんかんぷんでしょ」

「理解できるように砕けて教えるのは、大人の力量が試される時でしょ」


 ギロォ、とルアンは、まだ芝生の上で膝を抱えて座る兎を見る。クアロは曖昧に相槌をした。

 この世界には、兎人(うさぎびと)と呼ばれる兎の遺伝子を持つ人種がいる。時には頭だけが兎の人間が生まれ、時には全身が兎でも人間と同じ大きさの兎の人間が生まれる。

 特徴としては、人間より優れた聴力と脚力を持つ。また視野が広い。そして年中発情期らしく、街には多くの兎人が住んでいる。

 ちなみに、兎と呼ばれる動物は存在しない。


「……わかった。きっとこの世界は地球が滅んだあとに出来たんだ。人類は滅んだけれど、再び進化して、一緒に兎も進化しちゃったんだ。……あるいは、兎はエイリアンだ」


 ルアンは素で思った。

 一度滅んだあとの地球ならば、時代遅れの秩序も理解できる。時代は中世風。

 罪人を裁いてもらうには、王のいる城へ行き訴えなければならない。騎士達は鍛え上げられているが、城から離れない。

 だから城から離れた街は、自警団が必要。父レアンは組織を造り、治安を守っている。ある意味この街は、父レアンの王国だ。

 あの兎達はきっと宇宙から来て、人間と交配した成れの果てなのだ。きっとそうだ。兎恐るべし。


「アンタは……本当に創造力が豊かというか、ユニークというか……」


 隣で聞いたクアロは、ルアンの真顔に戸惑いながらも感心する。

 そんなクアロを、ルアンは改めて見た。毎日子守りをしにくるクアロは、変わらずガリアンの黒いコートを着ている。この頃の彼の仕事は、主にルアンの子守りだ。

 数日の間、言葉遣いについて口論ながらギアの練習をしていたが、痺れを切らした父レアンがクアロに拳骨を落として止めさせた。

 口論の内容を知り、レアンは「二人で女言葉を使え。そばにいる奴の口調が移ると言うだろ。口が悪いままなら、オレが罰を下してやる」と酒瓶を片手に見下ろしてきたため、二人して女性口調を心掛け今では板につきつつある。


「……そう言えば、なんで公園に来たんだっけ?」


 今まで屋敷の庭でギアの練習をしていた。今日は何故かクアロに腕を引かれて、公園にまで連れてこられたのだ。

 街一番の公園には、遊具などない。ただ煉瓦の遊歩道があり、ボール遊びやピクニックを楽しむ芝生があるだけ。


「ルアンが家に引き込もっているからでしょう。家に出るのは億劫かもしれないけれど、少しは敷地内から出て散歩しないと身体に毒よ」


 クアロは背凭れに腕を置いて、諭すように言う。ルアンはきょとんとした。


「別に億劫じゃないけど」

「え?」

「散歩は好きだけど。前まではよく一人でふらついてたもの」

「え?」


 ルアンが答えると、クアロは意外と言わんばかりに目を見開く。

ルアンのことを、外が嫌いな引きこもりだと思い込んでいたらしい。


「散歩したり、木陰で本読んだりするの、結構好き」


 木陰で昼寝をしたこともある。木に登ってドレスを破きメイドに叱られたこともある。

 そうクアロに話した。


「じゃあなんで、ここ数日家から出ようとしなかったのよ?」

「なんでって……そりゃあ……」


 ルアンはクアロから目を背けると、植木のそばで毛布を敷いてランチを楽しんでいる母子を見た。

 ルアンよりも小さな女の子が、母親に笑顔を向けている。


「父親に一人で出るなって、言われたから……」


 一人の外出を禁じられた日のことを思い出す。

 同じ翡翠の瞳はなにか言いたげで、しかし短く告げるだけだった。


 ーー今後は一人で外出するな、ルアン。


 父親を呼ぶ子どもの声を聞き、ルアンが振り返るとフットボールのようなボールで遊ぶ父子(おやこ)の姿を見付ける。


「何よ、何かやらかしたの?」


 父子からクアロに目を戻すと、からかうような笑みを浮かべていた。


「別に、私は……」


 言いかけたが、ルアンは目の前を通る父娘に目を奪われる。一つのアイスクリームをわけあって食べていた。


「なに?」


 クアロもその父娘を目で追いかけたが、すぐにルアンが言いかけたことを急かすように肩を指で小突く。


「知らない方が幸せだと、クアロも思うでしょ?」


 ルアンはそう言った。

 当然、話が読めないクアロは首を傾げる。


「例えるなら、カゴの中のハムスター。快適な寝床が用意されて餌も適量に与えられているカゴの中にいるとする。そんなハムスターが、生まれて初めてカゴの外を出て思い知る。猫や鳥が襲い掛かり、人間に踏み潰される外の恐怖を。知らない方が、カゴの中にいた方が幸せなんだと……」


 例えてみて、ルアンは哀れなハムスターを想像した。

 前世では、記憶を引き継げば幸せになれると思っていた。過去の失敗を学んだ記憶があれば、幸せになる方法がわかってなれると思っていた。

 しかし知らない方がよかったと、ルアンは痛感している。


「ほら、見てよ。この公園にいる子ども達はカゴの中のハムスター。まだ不幸なんて知らないから、無邪気に笑ってる。知らないから、笑うことができる」

「アンタほど悲観的じゃないからよ……」


 フン、と鼻で笑うとクアロから突っ込まれた。

 確かにこの公園の誰よりも悲観的なのだろうと、ルアンは納得する。


「んー。……それ、例え方が悪いんじゃない?」


 凭れてクアロは空を見上げた。澄み切った青い空には、雲が優雅に漂う。


「カゴの鳥なら、案外気楽に飛び回って外を楽しむんじゃない? カゴの中よりも、外の方が気に入るかもしれないわ」


 背伸びすると、クアロは笑った。

 ルアンには、クアロが自分のことを言っているように思えた。

 勘当されて家を追い出されたクアロは、きっとカゴから出た鳥。

 前よりずっと気楽に羽を伸ばして、飛び回っている鳥なのだ。


「カゴの外から出たハムスターだって、案外自分好みの寝床を作っていい生活出来るかもしれないわよ」


 クアロの頭上の空に、一羽の鳥が飛んでいくのをルアンは見付け、顔を真上に向けて眺めた。


「いい天気ねー」


 同じく空を見上げるクアロを横目で見てみると、笑っている。


「そうだ、ルー。アイスクリーム、買ってきてあげる。いい子にして待ってなさいよ」


 ぽん、とルアンの頭を撫でるとクアロは立ち上がり、先程の父娘が来た道を歩ていった。

 ルー。それはいつしかクアロがルアンにつけた愛称だ。

 妙なほど、クアロになつかれた気がする。ルアンは頬杖をついて上機嫌なクアロの背中を見送った。

 ルアンが差別することなく接することが大きな要因だと言うことに、ルアンもクアロも気付いていない。


「……知らないから、笑ってる」


 ルアンはクアロに向かって呟く。

 外の危険を知らないから、子ども達もクアロも笑っていられる。笑うことができる。


「……ああ、なるほど」


 外の危険を知っても、生きることが出来ればいい。

 父レアンがギアを学ばせた理由に気付く。

 飛び方を知れば、空を自由に羽ばたけるように……。

 白い雲を動かす風に撫でられ、ルアンは深く息を吐く。

 久しぶりに感じる。独り。

 目を閉じて、賑やかさを遠くに感じた。


「……」


 間もなくして、近寄る足音にルアンは目を開いた。陰を落とす男がルアンを見下ろして立っている。

 顔も手も灰色の毛並みで覆われたスーツの兎人。

 正直、ルアンは兎人の性別を顔では見分けられない。ドレスを着ていれば、女性。ズボンを履いていれば、男性。服装で判断する。


「君はレアン・ダーレオクの息子、ロアンくんかな?」


 服を着た兎人間が問う名前は、ルアンの弟のもの。

 兎人もまた、服装で判断する。髪が短ければ男の子。ズボンを履いていれば男の子。

 瓜二つのルアンは、弟のロアンと間違えられて話しかけられた。


「そうだよ」


 ルアンは否定しなかった。自分がレアンの息子だと嘘の肯定をする。

 その返答でどんな目に遭うのか、ルアンは知っていた。経験済みだったからだ。

 知っていた上で、ルアンは弟の身代わりをした。

 そして、拉致された。


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