第3話 普通が幸せ。





 窓の下に突っ立ったルアンは、クアロの姿が見えなくなると呟く。


「……アイツ、なにも聞いてないんだな……」


 自分の手を見る。

 クアロのコートは大きすぎて、袖を折り畳んでもらっても、掌は完全に出てこれなかった。

 自分の手を見てから、廊下の天井を見上げる。父親の仕事場、ガリアン。

 ルアンにとってそこは、警察署であり刑務所であり、魔王の城であると思っている。

 この世界に警察機関は存在しないらしい。この街では父親のレアンがルール。この街ではレアンが支配者。だからガリアンは、魔王の城だと思っている。


 レアンは、毎日のように酒を飲んでいる。飲んでいる最中に怒れば、瓶であろうとグラスであろうと投げ付けてくる。幸い現在は怪我人は出ていない。

 妻に出ていかれてから、女性関係は派手だ。性欲を満たすために、あらゆる女性を連れ込んでいる。幸い街のボスの妻の座は、今のところ埋まる予定はないらしい。

 普通の家庭は、レアンの娘になった時点で叶わなかった。レアンは理想の父親ではない。母親も子どもを捨てて逃げ出した。

 普通と言うことが幸せ。

 つくづくルアンは思い知った。

 前世も普通とは言えない家庭だったのだ。

 普通の家庭は実現するのだろうか。目にした記憶がないルアンは疑問に思う。


「この人生だりぃ……」


 壁に凭れて、呟く。小さな身体に重さを感じる。

 前世の記憶はよりいっそう今の失望感を濃くした。今世を生きるには、重すぎだ。


「知らないことも、幸せ……」


 何も知らない子どもは幸せ。

 つくづくルアンは思い知った。

 前世の記憶がなければ、もっと身体は軽く、生きやすかっただろう。

 知らない方が幸せなことがある。それは事実だ。

 いっそのこと死にたいが、自殺の報いで次の来世はもっと悲惨になりそうだから、ルアンは止めておいている。

 問題は今後の人生をどうするかだ。


「……」


 ルアンは、ズカズカと乱暴な足取りで近付いてくる人影に気付いた。

 クアロと年齢が近そうな少年だ。身長は、兄ラアンに並ぶ長身。

 赤毛で左耳の前に三つ編みを垂らしている黒いコートの少年が、睨み付けながら歩み寄る。


「てめぇ、ボスの息子のロアンだな?」


 少年のわりには低い声を放って、問い掛けた。

 ルアンは目を細めて見上げながら、自分の格好を思い出す。クアロに着せられたコートでドレスは見えず、髪が短く男の子に見えている。

 見掛けたことがあるため、ロアンの名を出したのだろう。


「だったら?」


 ルアンは肯定するような発言を返す。

 ギロリ、と少年は睨みを鋭くした。


「コート着てるってことは、ガリアンに入ったのか? その年でそんな才能があるのか? それとも七光りか、ああん?」

「……あー、ガリアンには入ってないけど」


 ガリアンの証のコートを着ているというだけで誤解している。

 言ったのだが、少年は聞かなかった。


「幹部の座を七光りどもに埋められたらたまんねーよ。試させてもらうぜ、てめぇがガリアンに入るに値するかを」


 少年に頭を鷲掴みにされたかと思えば、ルアンはすぐそばの窓から放り出されてしまう。

 ああ、やべぇ、面倒臭いことになった。

 あとから出た少年に引っ張られ、中庭の中心に立たされたルアンは考える。


「誤解だって」

「いいからギアを使って見せろよ、ガキ」

「使えねーし、この単細胞」


 誤解をとくのも面倒臭いルアンは、ギアを使うように言う少年が、心底うざく吐き捨てた。


「いいから使って見せろって言ってるだろ!! このガキ!!」


 プッツンとキレた少年が怒鳴り付けるなり、指で宙を切る。その跡がくっくり残り、紋様が出来上がった。ギアだ。

 ポッ、と三つの光の球が浮かび上がったかと思えば、弓矢のように一つずつルアンに飛ぶ。

 流石のルアンも目を見開き、その場から飛び退き、走って離れた。


「ギアを使わねーと、串刺しになるぜ! ガキ! さっさと使いやがれ!」


 少年は子どもをいたぶることを楽しんでいるのか、笑い声を上げる。

 そこで漸く、クアロがコートを持って戻ってきた。


「ちょっとシヤン!? お前なにやってんだ! そいつはボスのっ」


 子守りを頼まれたクアロは、慌てて窓から出ようとしながら叫ぶ。

 娘と言いかけたが、シヤンと呼ばれる少年は怒声で遮った。


「うるせークアロ!! てめぇはすっこんでろ!!」


 紋様を書き続けて、シヤンはルアンがこれ以上離れないように、前方を光の弓矢で壁を作る。

 逃げ場を失ったルアンは振り返ると、怒りを露にした表情で睨み付けた。


「いい加減にしろよ、この単細胞っ!!」


 負けじと怒鳴り、兄が弟に教えていた紋様を書く。眺めて覚えた紋様を初めて書いた。そして初めて、指から光を放った。

 そのあとは、ルアン本人もわからない。

 熱風を感じた。炎を出す紋様だから、成功すれば出てくるのは同然だ。

 だが、以前兄が見せた炎と違った。

 まるで、爆発だった。

 目の前で目にしたルアンは、一瞬世界が爆発したのかと頭に過らせるほどの大爆発。

 暖色系の色を赤色が飲み込みながら渦巻き、熱風を放った炎は、地割れが起きたような形跡を残して消え去った。

 シヤンはその真横に立っていて、横切る抉れた地面を青ざめた顔で呆然と見つめている。

 そして、ガクガクとぎこちなく顔を動かして、ルアンを見た。

 その目をよく知っている。


 ルアンは、クアロを見てみた。コートを腕にかけたクアロもまた呆然とルアンを見ていたのだ。

 その目をよく知っている。

 父レアンに向けられる恐怖の目だ。


 ルアンはつくづく思い知った。

 普通は幸せで、幸せは普通なのだ。



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