第35話

「…これは…」


 寝室に潜り込み彼の夢の中に入り込んだクォーリアが感じたのは…ひどい雑音の嵐。電波の届かないテレビのような砂嵐の中は、そこにいるだけで寒気が止まらない。


「……まさかこれは…歌か?」


 ふと、雑音の中で人の声のような物を聴き取る。規則的に思える似た音が連続で流れたり、変調と甲高い声が鼓膜を刺激するその感覚は…カエルの合唱のように、同じ歌をタイミングをずらしていくつも流しているかのようだ。


 耳を閉じて、外を全て遮断する。聞きたいのは歌で、歌いたいのも歌で。願いに支配されたその世界で、彼は脳内麻薬に酔いしれていた。


「…」


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 理性とは、捨てようと思って捨てられるようなものではない。捨てよう、なんて考えられる時点で理性を持っているのだ。

“捨てていた”。気がついたら。

 そんなことができるだろうか?自分の意思で、触れもせず、心臓を止めるようなことが…?

 それに、”強いストレス”だけが起因として、人間がこのように強くなれるのなら、世界中の非才者は救われるだろう。

 しかしそうならない。それはストレスのレベルの話なのか、それとも神秘のようなこれまた”才能”によるものなのか…その点については未だ不明だが…1つ、答えがあるとするのなら…。


「理性の無い人間が社会に馴染めるわけもない。…犯罪者に堕ちて、囲まれて殺されるのがオチじゃろうな」


 そう。今現在彼が生きているのは一重にクォーリアの尽力あってのことだ。あの場でクォーリアがついて来なければ、街で絡まれた時点で刀を抜いて、数の力で襲われて、騎士団のお縄についていたかもしれない。


「…これが、理性を無くした結果なのか?」


 ――――――――――――――――――――


 何も聞こえない世界。頭が回らない。そのくせ体の調子は良い。いや、悪い?

 ダルいが、心地良いが、心臓が汗をかいているかのような焦燥感がある。


 体は心底眠いのに、心臓だけが飛び出して何処かへ行きたがっている。

“ここは駄目だ。別の宿主の元へ逃げよう”とでも言っているかのように。


 だとしたら、これも理性ではないのか?


 逃げよう、という意思。それは生きるためのもので、つまり彼にも…!


 なぁんて、そんなわけがあるまい。心臓が逃げ出すということは、彼は死ぬということだ。


 何重奏にもなったその歌は、彼も聞いたことがない歌だ。


「のぅ、澪」


「…?」


 ふと、声がして瞼を開く。


 無重力のその夢の世界で眠りながら脳を働かせて遊んでいた彼だったが、心配性に見下ろす少女の姿を見て、無重力のベッドから起き上がった。


「この歌は何なのじゃ?」


「…さぁ……?知らない」


「…好きか?」


「…ああ。なんでか………おちつくんだ」


 ふと、足元が揺らぐような、力が抜けるような感覚。


 後ろ向きに、まるで幼子に袖を引かれるかのようにのんびりと倒れこみ…彼の意思とは無関係に、彼の体が夢の海の底へと少しずつ沈んでいく。


 潜水するように彼を追うクォーリア。その表情は心なしか暗い。


「…クォーリアは」


「うん?」


「なんで、里を作ろうとか、沢山の”理想”を作ろうとか、神秘、不可思議の研究をしようとか…思ったんだ?」


 その、夢うつらの様子で尋ねる彼の姿に一瞬ぽかんとした後、慈しむような目でそっと、彼の袖を掴んで話し始めた。


「…全部、偶然なんじゃ」


「偶然?」


「ああ。ふと、生まれた時には森の真ん中に立っていた妾は、生まれながらに知識を持っておった。自分の力が他の者の夢に関する物であることもなんとなくわかっておって…暫く過ごして、ふと…気になった」


『人が想う、”人”の理想とはどんなものなのか?』


「へぇ…それは確かに、面白そうだ」


「そうじゃろう?里の形を取って、神秘の研究を行ったのについては…妾と”理想”が生きるのに最善の方法を考えた結果じゃ」


「うん…?」


「む?…理想達はともかく、妾は怪異じゃ。食べ物を摂らねば死んでしまう。死んでしまっては夢を果たせない。それだけじゃ」


「…理想を叶えてやった人間から金を貰うとか。神秘の研究なんて面倒だろ」


「金を要求なんてしようものなら、殺されるかもしれんじゃろう?人を選んで里に入れてはいるが、100%なんて存在せぬ。神秘の研究といっても、理由は”高く売れるから”、”便利だから”じゃ。高くも売れん、役にも立たん、況してや好きでもないことをやりはせぬ」


「…そうか」


 生きるのはやりたいことのため。では、やりたいことがない彼には、もはや生きる理由など無いのだろう。


「別に、やりたいことが無いからといって、死ぬことはなかろう?」


「…そうか?」


「うむっ。目的が無い人生というものも、きっと良い物じゃろう。気ままに旅をして、気ままに好きなことをして…たまに嫌なことをさせられもするが…トータルでは+にならんか?」


「……ならんなぁ」


 今まで。確かに。生きてきて。良かったと思うこと。嬉しかったことは沢山ある。

 師匠に選ばれたこと。夕空と通じ合えたこと。”理想”と出会えたこと。道場破りを果たせたこと。最近のことだけでもこれだけある。好きな歌や好きな本と出会えたことも大きい。

 だが…それ以上に、嫌なことが人生を占め過ぎている。

 流行り病に掛かって死にかけたこと。2ヶ月間の努力が1点届かず無駄にしたこと。うっかりミスで成績をドブに捨てたこと。あらぬ疑いで友好関係を灰にしたこと。理不尽な仕打ちをされたこと。”社会”というものの本性を知った日のこと。

 …これ以上は、考えたくもない。


「じゃあ、ここで打ち切るか?」


 首に触れるクォーリアの小さな右手。…自分以外の手が、命に触れる感覚。

 左手は袖を掴み、まるで彼に添い遂げるかのように。


 共に落ちていく。


「今は“まいなす”なのじゃろう?ここで死んでしまうと、まいなすのまま、人生を終えることになるぞ?」


「それでもいい。これ以上負債を抱えるぐらいなら」


 欲望のままに、胸元に居る少女を抱き締める。閉じこめようとか、一緒に死んでくれとか、そんな欲はないが…ただ、抱きしめたかった。


「……実を言うとな、コレの意味もよくわかっておらんのじゃ」


「コレ?」


「抱擁じゃ。…妾はやはり、人と違うのだろう。…これは、お主にとってどういう行為なのじゃ?」


 真顔で首を傾けて疑問符を浮かべられてしまう。”照れる”なんてリアクションはもう取れない。理性の枷が無いからだ。だから…


「…落ち着くんだ。こうしていると。…どうしようもない気持ちが、身体中に溢れていた嫌気が、体を上っていって…吐き出されるんだ」


「…それは、人じゃなければダメなのか?他の…枕とかとは違うのか?」


「違う」


「誰でもいいのか?」


「いいや。まぁ、人によると思う。小さい方が良かったり、大きい方が良かったり」


「ふぅん?なら、妾はお主のお眼鏡に適った、ということじゃな」


「…ああ。クォーリアの抱き心地は俺に合う。だから…できればずっと、こうしていたいぐらいだ」


 喉と胸に、どうしようもない渇き。

 空白感が生まれた時に…彼はこれまで、喉を抑え、胸を抑え、耳を塞いで眠ってきた。それをまさか、こんな形で埋められるとは…。

 何となく本能で解っていたが、実行できたことはない。理性が有ったからだ。


「…妾はな、れい。お主に選ばれたあの時…嬉しかったのじゃ」


 ぽつり。

 小さな声で白状するクォーリア。瞳を閉じて、無重力に身を任せながら…飾らない言葉で話し始める。


「これまで何十人もの人間を招き、理想を具現化してきた。お主のように理想を拒むものもいた。そういった者は、誰かが残した理想を選ぶ。妾は最初、近くの村の人間の理想を勝手に具現化していたからの。…”余り者”も、おったんじゃ」


 表情を見ようと視線を下げるが、俯いて彼の胸に額を押し付ける少女の顔は知れない。


『余り者』その言葉が、胸の底に重く落ちる。


「妾は…今年で500年生きたことになる。お主の25倍じゃ。凄いじゃろう?」


「500…」


「その間様々な別れを見てきた。理想は、一度受肉するとお主達と同程度にしか生きれん。そして、妾と最長の付き合いの者は120年程じゃ。あの長代理じゃな」


「妾はな……500年、ずっと……”余り”続けておったのじゃ」


「妾が願ったことじゃ、誰かの理想が見てみたいと。嫉妬なんぞ湧く筈もない。彼奴らは確かに誰かの理想ではあるが、妾は誰の理想でもない」


 自分勝手なことを言っている。その自覚が、少女を戒める。自分の手で最上のものを作り上げたくせに、その最上より自分が上じゃなきゃ嫌、だなんて。矛盾してるにもほどがある。


 …だけど、それこそが……その”矛盾”こそが、’生きている”ということなんじゃないかって。


「それでも…寂しかったのじゃ。500年、過ぎていく時間の流れを見続けるのは」


「外に出ようとは…」


「外に出たこともある。だが…外も此処も同じじゃ。結局のところ、妾の孤独が埋まることはない」


「なら、それこそ自分の神秘で理想を…もしくは、可愛い子には旅をさせなければいい」


「…お主は、500年もの間、親の都合で勝手に作り出され、自由まで拘束されることを許せるのか?」


「………」


 ……許せるわけがない。それはそうだろう。例えば”永遠閉じ込められていても空気さえ吸わせてくれれば何でも許しちゃう子”を理想としたとして…それは最早完全に”人形”だろう。不自由を許し、望むままに動かない。それは…理性の強いクォーリアには行えない行為だろう。

 ネアは違う。彼女は間違いなく、彼の願いだ。しかし人形ではない。彼がyesと言って欲しい時にyesといい、noと言って欲しい時にnoと言うとしても…ネアを取り巻く環境は変化していく。ネアはネアの人生を往く。部屋に閉じこもることを人生と言わない、と言っているわけではないが…活きてはいないだろう。望まれたから望んで動かない、というのは…やはりどうしても、彼女には認められないものなのかもしれない。


「妾は…ヒトではない。抱擁の良さも解らぬし、この身体は…幼子のままだ」


 顔を上げ、ふわりと、波に流されるかのように彼から離れるクォーリア。


 自身の胸元に手を当て、斜め下に目線を逸らす。


「それでも…お主の妾に望んでくれた事、全てに応えてみせよう。だから……妾が其方の理想でなくとも………」


 それから数秒、口の中でもごもごと何か躊躇い…しかし、もう、喉まで出てきたその願いを止めることはできない。彼へ、真っ直ぐな視線を突きつけた。


「…妾の為に、生きてはくれぬか……?」


 ――――――――――――――――――――


 …彼女が言っていることは、例え夢うつつの意識であろうともはっきりと理解できた。

『私の為に生きて』と、そう言われた。


 クォーリアと過ごした時間は、まだ一月程で、今まで話してきた中で、彼には自分が好かれる要素が思い浮かばなかった。

 ただ…彼女の気持ちは、彼も知っていた。

 …『私の事が好きな人が好き』ということなのかもしれない。

 彼にとってはクォーリアは、ネアの次点の理想。可愛らしく、何となくからかって、甘やかしてあげたくなる存在。そして…彼の” “を埋められる存在。


「…解った。この命を、お前に託そう。だから、その代わりに…お前の全てをくれ」


 両手を広げると、間も無く彼の胸に飛び込んできたクォーリア。

 世界は回る。文字通り。

 感覚は変わらず、落ちている感覚。しかし向きは、先程までとは真逆。

 心地良い腕の中の感触、吐息、匂い。

 理性を取り戻すための理由は得た。理性そのものさえも手に入れた。後はそれを…在るべき形に収めるだけだ。

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