第27話

“時間”は少し、巻き戻る。


 目の前の白人が穴に落ちた瞬間、世界は灰色と化した。目の前の怪異は恐るべき反応速度で穴の縁を掴むと、何事も無いかのようにスッと穴から出る。

 同時にまるで、空気中の水分が凝固し氷の針が出来上がるかのように…モノクロの小さな針が無から出現、今にも水平に射出されんとしている気配を彼は読み取った。

 反射的に投げたブーメランダガー二連。白人は驚愕で動けずにいたが…そのブーメランは白人の横を通り過ぎてしまった。


「…最悪」

 そう、彼が恐れていたのは”コレ”だ。先日の勝利以来、どうにも…体の調子が普通だ。今までが好調過ぎただけ、というのは彼自身が理解していたが…急にこうなってしまった理由は、なんとなくしか推測できない。驕りとか、満足感とか、希望を見てしまったこととか…。


 隣を通り過ぎた刃には気にも留めず、怪異は空中で静止した二本の針に蹴りを一閃。


「夕!リア!」

 戻ってきたブーメランを諦めて鞘にしまいつつ両隣を振り返った彼はそうして漸く…この”灰色の世界”が何なのかを、理解した。


 ――時は、動き出す。


 ――――――――――――――――――――


 白人は今までの戦闘経験から、”弱い奴から狙うべき”ということを理解していた。その場合、思いがけずに強者の方にダメージを与えられるからだ。彼のように時止めが効かない人間は、今までにも見たことがない。

 動けるか動けないか、というのは絶対的な強弱の指標だ。故に動けない仲間の方を狙い、結果…狙い通りとなった。


「なっ…今、何が……」


「澪っ!だ、大丈夫!?」


 思いっきり掌を貫通している針。痛みで叫び声を上げたくなるが、そんなことをしている場合ではない。


「こいつ、とki…」


 ――世界は再び灰色と化す。


 体勢を立て直す隙も与えない、再びの時間停止。同時に刺さっていた針が姿を消す。


 今度は針ではなく、白人そのものが身の丈サイズの槍を出現させ突っ込んでくる。


「くっそが!!」


 大剣を抜刀。迎え撃つも、見た目以上の筋力で、一瞬にして押し返されしまう。


「っ…!」


 反射的に大剣を投げ付けて牽制。ついでに少しでも身軽に。手を大きく横に広げ、2人をキャッチして引きずるように距離を取る。銅像のように硬直した2人だったが、元が軽い為か、怪我をさせないように置き直すことも容易かった。


 一番まずいのは、2人から距離を離されることだ。そのタイミングで先程の針を、そうでなくとも槍で一突きされてしまえば、その時点で終わりなのだ。


 視線をもう一度上げた時、二本…投げ捨てた筈の針が、再び2人に向けて発射された。


 ――時は進み出す。


 …いつもなら、こんな方法じゃなくても防げた。ブーメランダガーで撃ち落とすとか、最悪キャッチしてしまえば良いのだ。

 …ただ、”本来の彼”の実力では、そんなことはできやしない。


 クォーリアは小さい為、横に引っ張ればすぐに移動させられる。手を盾代わりにかざすのとさして変わらぬ速度でその身を守れる。

 …が、夕空はそうはいかない。


 掌が完全に壊れるのを防ぐ為。かつ、自分も、夕空も守る為…彼は両腕を顔の前でクロスさせ、その鋭い一撃を受け止めた。


「――澪っ!!」


 彼女達にとってはこの戦いは一瞬の出来事で、何が起きてるかなんて理解できるはずもない。

 自分が、やらなければならない。

 落ち着け、そもそも、最初に目が合った時、こいつは時を止めてこなかった。それはきっと、回数か、止められる時間か、射程に制限があるからだ。


 血が抜けて、頭が冴え始める。

 死の淵はしかし、それでも絶望を呼び起こさず…彼は素のまま、挑まなければならない。


 ――もう一度だけ、時は止まる。


 針が致命傷にならないことを学んだ白人は槍を構え、彼の元へ飛びかかる。


『っーー頼むっ!』


 ブーメランを二振り投げつける。一本は掌についた血のせいかてんで無意味な方向へ。もう一振りはちょうど顔面に向かって綺麗な放物線で斜め方向に入ったが…あっけない『カキン』という、槍によって防がれた音を灰色の世界に響かせただけ。


 勝負を賭けるなら、彼の手元に残った剣はもう一振りしか残されていない。


 一直線に彼の心臓向けて放たれた渾身の突き。全体重、全速度が乗ったその一撃を、彼は…。




 およそ、人間が到達しうる最速の一閃。正面に相対する怪異の速度に対して行える、唯一の抵抗策。

 僅かに体を逸らし、致命傷を避けつつの一撃は、しかし…勝利とは言い難い、線のような細さの切り口を怪異の左腰上に与えただけ。血は確かに流れているし、普通の人間がその量の傷を受ければ…1日放っておけば意識不明に陥る、ぐらい。胴寸の1/5を切断した、ぐらい。

 対する彼の負傷はといえば………ちょうどヘソの隣から胸の下、腰骨の上を結んで作られる三角形をそのままえぐり取られたような物。10秒放っておけば死ぬ、程度。


 時は再び、動き出す。


 横腹を通り抜けざまに斬られ、白人はその日、随分と久しぶりに自分の血を見た。

「――!」

 背後振り返り男を見る。


「澪!澪っ!!」


「な、っ…夕空、傷を塞げ!」


 今度こそ駆け寄り、徐々にバランスを崩し倒れこもうとする彼を抱き止め、考えるよりも先に神秘を酷使する。

 血の池が出来上がるのに数秒と掛からなかったが、出血は夕空の第1神秘によって即座に止められた。

 この時は無意識に行なっていたが…彼女は、彼の肉体を、1つ1つの繊維、血管から神経の伝達分布に至るまで、えぐり取られた肉体をそのまま再現してみせていた。


 クォーリアは北本と白人の間に割り込み、炎剣を呼び出し構える。


『…どう攻めればいいのか、全く見当がつかん。というより、何が起こった?そして、今は何故何もしてこない…?』


 …完全に無力化したが、これ以上時止めを使うのは…リスクが大きい。だが…コイツを生かしておくことも…。


 迷いあぐね、結局一歩、クォーリアへと歩みを進めた白人だったが…首と背中のちょうど中間点に、突如として鋭い痛みが走る。

 意識外からの攻撃に反射的に時を止めた白人はその場所に右手を伸ばし…彼が投げたブーメランダガーを引き抜いた。


「ヅーーッ!」


 完全に、駄目だ。これは。逃げなければ。


 時を止めたまま10秒間、全力疾走した白人は既に、彼女達の視界外、近くにあった森へと飛び込むように逃げ込んだ。

 白人の能力は、彼の予想通り時を止める能力だが…その能力には制限がある。


 ・1時間の自身の”完全停止”で、1分間時を止められるようになる。(他の人に見られていない状態で停止している必要がある)

 ・先程は村の中で1時間停止済み。

 武器は長針。

 ・秒針を2本まで同時に生成できるが、1秒→1本の交換レート。

 ・時を止めている間に命(相手の(未来の)時)を”確定した形で”奪うことはできない。

 ・時間停止の最高射程距離は1キロ程度。


 逃亡の時止めも含め、現時点で使用した時間は42秒。白人の個人的ルールとして、30秒は常に予備としてとっておく、というものがある。


 大幅にオーバーだ。これ以上は認められない。


 出血の止め方が分からない。今日の収穫は全て置いてきてしまった。

 流れ出る血をそのまま残して、ひたすらに距離を取る。

 …後数センチ程上に刺さっていれば、完全にトドメになっていた。


 ――――――――――――――――――――


「なっ…消えた!?」


 忽然と姿を消した怪異。先程まで白人が立っていた箇所には、ブーメランダガーが一振り。加えて、森まで続く血痕。


「追う…?いや、それよりも…!」


 澪の方を振り返ったクォーリア。その様に、思わず目を見開いた。

 傷口は完全に塞がれており、まるで、傷なんて最初からなかったかのように白いプラスチックのような神秘で体が補強されていた。腕に関してもそうで、完全に穴は塞がれている。

『…どんな技術じゃ…』と突っ込みたくもあったが、それよりも…。


 天に突き出された右腕。やがて重力に身を任せるように落ちていき…自身の頬を殴る。

「っーー」

 そうして目を開けたのは、血も体力も等にすっからかんの筈の彼。目を覚ますや否や首を回して辺りを確認。白人がいないことを確認すると、ようやく一息ついた。


「ふぅ…」

「澪、良かった…。…ジッとしてて。王都まで運ぶから」

「あぁ…。…いや、ちょっと、待ってくれ。…あいつは?」

「逃げていった。血の跡を辿ればまだ追いつけるじゃろうが…。…何があったのじゃ?」


 腹の抉られた位置を確認。…どういう原理の物なのか、彼には全く見当がつかないほど精巧なそれを尋ねるよりも、彼自身が話すべきことがある。


「時間を止める怪異だった。どうしてかは知らないが、俺だけ止まらなかったから、戦ってた。…急いで追わなくちゃ」


「何を言っておる!そんな傷でこれ以上戦わせられるか!妾が転移で里まで連れて行く!」


「澪、フラフラでしょ…?能力が分かっただけでも十二分だし、ブーメランの傷もあるから、あの怪異、失血死すると思うよ」


 言わんとしていることは最もだ。身を心配してくれてるなら嬉しい。だが、それでも…行かなければならない。


「逃げたんだろう?ということは…止めれる時間か回数の制限に、引っかかったか、引っかかりそうってことだ。…やるなら、今しかない」


 体に喝を入れ、足に力を込める。心配そうに覗き込んでくる夕空の肩を勝手に借り、なんとか直立で立ち上がり、血の跡が続く森へと、思い瞼を開け、顔を向けた。


「ちゃんと倒さなきゃ報酬も貰えないし、夢見も悪い。…クォーリアも、時を止める神秘…放っておけないだろう?」


 残された時間は少ない。体が酸素不足を訴え、鋭い頭痛が襲いかかる。

 返事も聞かずに、彼は散らばった武器を拾い集め、2人を気にする余裕も無いまま、歩き始めた。


 ――――――――――――――――――――


「…しかし、何故澪だけ止められなかったんじゃろうか」


 その問いの答えは全くもって見当付かないが…そんなことは最早どうでもいい。何故って殺せば、そんなことを気にしても意味など無いのだから。


 歩くこと10分と少し。目的の相手は、既に目と鼻の先だ。


 ―――――――――――――――――――――――


 1時間は歩いたんじゃないだろうか。なんて、そんな錯覚を白人が覚え始めた頃。


 視界の先に映る、銀色の短い髪。人間の姿に一瞬警戒するが…腰に付けた小袋の中からはみ出た薬草の姿を見るや否や、白人の目付きが変わった。


 気がつくと、気配を消すことすら忘れて走り始めていて。残りの距離5メートル、という所で、白人はもう一度時を止めた。


 ――――――――――――――――――――


 急に走り出した怪異。その先には、短い銀髪の後ろ姿。

 最早それだけで、彼も全力で走り出す。

 急に力を込めたせいか一瞬コケたが、それでも、ギリギリ…間に、合う…筈。


 再びの時間停止。

 動こうとして、しかし…まるで磔にでもあっているかのように、その場を動けない。

「ッーー!?」

 しかし意識は残っており、がむしゃらに彼は抗う。


 何が悪いんだ!?何がどうして今更!?


 一度強引に地面を蹴って…体が”何に”貼り付けられているのかを理解した。

 夕空の直してくれた箇所。両腕と脇腹だ。


『――こいつ、神秘を停止させる力か!?』


 しかし、今更そんなことを理解した所で仕方がない。

 考えておけばよかったのだ。先程までの10分間の間で。そうすれば、せめて両手の止血を解除していれば…ブーメランダガーに賭けることが出来たのに。


『ッーー!動け!動け動け動け動け動け!!!』


 願いは虚しく、今の彼には、目の前の少女が襲われるのを、ただただ無力に見つめていることしかできない。


 ――――――――――――――――――――


 ……神秘の気配については先程の通りだ。匂いの強さ、嗅覚の強さ、そもそもの匂いへの知識。


 白人は時間を停止し、自身の全速力を持って、薬草を奪おうとしていた。

 命は、時止めの原則に則って奪えないが…そんなルール、襲われる側にも見ている側にも解るわけがない。

 後4メートル……後3メートル…2メートル、1メートル!!

 興奮冷めやらず…いや、生への固執が、焦燥感を駆り立てていた。


 視界が、ぐらつく。

 突然のことに意味がわからず、急なブレーキに体が追いつかず、そのまま地面に倒れ込む…ことすらできずに、転がり落ちる。

 彼の生涯の中で最も不幸な出来事の中で…しかし最期に唯一幸運だったのは…自分の体を細切れにしたものの正体を視界に捉えられたことだ。

 ――最も、既に機能停止した彼の思考回路には、そんなことは理解できるはずも無いのだが。


 ――――――――――――――――――――


「…は?」


 少女への距離が1メートルまで迫った時…突如として、白人の体はバラバラに分解された。それこそ、糸こんにゃくかのように。

 …少女の周囲1メートルには、切れ味抜群な、風の刃が展開されていたのだ。それはまるで殺人トリックに使われるピアノ線のような細さであり、神秘の気配など、1ミリも感じ取れないほどだった。

 故に…彼にも今の状況が理解できていない。

 ただ…血まみれの地面の中に落ちる二本の針と一本の長槍だけが、あの怪異の生きた証だ。


「…?」


 振り返った銀髪の少女。ジトっとした目の、何というか…生気の薄い感じの少女。だが…その雰囲気だけは、そこらの剣士では太刀打ちできないものであることはよく分かった。


「……これは、貴方達の獲物ですか?」


「あ、ああ…」


「……そうですか。ごめんなさい、取っちゃって」


 それだけ言うと興味も無さげに立ち去ろうとする少女。


「あ、あのっ…!」


 遅れて現れた2人。夕空の声に振り返る少女。


「貴方は…それに、その神秘は…」


「……」


 夕空の問いには眉1つ動かさない女性だったが…何か思い出したようで、彼の顔をじっと見つめる。


「……もしかして、北本澪?」


「…え?……あ、ああ…」


 名前を言われ思わずドキリとしてしまう。そんな彼をよそに少女は彼の腹部、腕の傷。血で汚れた服と、地面に転がった怪異を見比べると、


「……”夕空逢"には気をつけて」


 耳元でそう囁いて、風に乗って飛んで行ってしまった。

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