幸之助と鞍馬と真吉.弐

 それからと言うもの、鞍馬は興味本位に幸之助の様子を見に時々屋敷を訪ねるようになっていた。と、言っても、遠巻きに空の上から見下ろす事の方が圧倒的に多かったのだが。


 ただ静かに黒川家の事を傍観していると気付いたことがある。

 屋敷の前に毎日のように撒かれる汚物。それを何も言わずに片付ける真吉の妻、おヨネ。

 そのおヨネを心無い言葉でなじる村民も少なくはないが、その事に対して彼女は一度たりとも真吉を責めたり、村民たちに食ってかかる事も周りに当たり散らす事もなかった。


 それを不思議に思った鞍馬は、おヨネたちの目を盗んで幸之助の所へとやってきた。

 幸之助はやはり縁側に置かれた座布団の上で丸くなって日向ぼっこをしていたが、鞍馬の気配を感じて耳をぴくりと動かし、顔を上げた。


「おう。幸之助! 元気にしゆうかえ!」

「鞍馬さん。こんにちは」

「っかぁ~! “さん”なんていらんで! 普通に呼び捨てでかまんちや」

「え、でも……」

「でももひったくれもない。わしがえいっちゅうんじゃからえいんじゃ!」

「う、うん」


 さすがにだいぶ年が離れた相手を呼び捨てにすることに抵抗を感じていた幸之助だが、やはり素直に鞍馬の言葉に従う。


「えっと……鞍馬は、今日は何しに来たの?」

「おう。ちっくと幸之助に聞きたい事があってねゃ。この家の女房のおヨネ言うたか。そのおヨネは、何で毎日あげに汚いもんを家に撒かれても文句ひとつ言わんのかが気になってねゃ」

「う~ん。おヨネは別に家でも何も言わないよ。片付けしてる時もし終わった後も何も言ってない」

「……ほうか」

 

 鞍馬は真吉と同じように文句も愚痴すらも言わないでいる事に、顎に手をやった。

 おそらく、すべてはこの屋敷の主でもある真吉の言葉を守り、耐え忍ぶ事が妻の務めとしていたからだ。


 聞けば、おヨネは自分から望んで真吉の元へ嫁いできたと言う話だ。親の反対を押し切って駆け落ち同然で真吉の元へ嫁いできたのだから、それを周りのせいにするのはお門違いというもの。


 自分が決めて選んだこと。その事に責任を持ち最後まで貫き通す。その芯の強さは土佐の女であり“はちきん”と言われるものなのかもしれない。


 一本筋の通った彼女の生き方は、当たり前のようでもそう簡単に出来るものではない。

 そしてそのおヨネをいつも気遣う真吉の優しさもまた、深い物があった。



 ある晩。膝の上で眠る幸之助の頭を撫でながら夫婦が揃って縁側でお茶を飲んでいる時だ。鞍馬は屋根の上に座り込んで彼らの様子を見ていた。


 お茶請け用の漬物を齧っていた真吉は、空を見上げながらふと呟く。


「おヨネ。いつも辛い思いをさせてすまざった。もうそろそろ耐えられんようになったろう。わしの事はかまんき、おヨネは家へ戻らんか?」


 その言葉に、お茶を手にしていたおヨネは眉間に皺を寄せ食い入るように真吉を見つめる。

 真吉は周りが自分だけでなくおヨネにも辛く当たっていることを知っているのだ。だから彼女の事を思うとやるせない気持ちになる。


 おヨネは手にした湯飲みを傍らに置いて、しゃんと姿勢を正し体ごと真吉の方へ振り返る。その眼差しは強く、揺るがないものがあった。


「何を言いゆうがです。私は自分の意志であなたの所へ嫁いだがです。それを追い出すかのように……。そんなに私の事が邪魔ですか?」

「いやいや、そんなこたぁない! ただ、おヨネにはいつも辛い思いしかさせられんき、申し訳ないと思っちゅうがじゃ」

「申し訳ないなんて、そがな事思わんといて下さい。どんな風に周りに思われ、罵られようと私は好きでここにおるがです」


 ぴしゃりと言ってのけるおヨネの言葉に、真吉は無精ひげの生えた顔で申し訳なさそうに微笑んでいた。


 おヨネもまた真吉の事をよく理解していた。自分が何か冷たく当たられることを彼が知らないはずが無いのだ。だから申し訳なく思ってこの話を振って来るだろうと言う予測は立っていたのかもしれない。


「私にとって、お前さまは誰よりも立派なお方です。だから私はお前さまのところに嫁ぐと決めた。誰が何と言おうと、私はお前さまと最後まで添い遂げます」

「おヨネ……」

「それを、勝手に家に帰そうとせんといて下さい。げに、お前さまはそう言う女心が分かっちょらん」


 むくれ顔をしながら再び湯飲みを手に取り前を向くおヨネに、真吉は「すまざった。ありがとう」と呟き心底嬉しそうに微笑んでいた。


 たとえ村八分に遭っても決して周りを嫌わない真吉の心と、その真吉の心に寄り添い続けるおヨネの強さは、鞍馬も呆れるのを通り越しむしろ感心していた。

 まるで仏のような信念を持った真吉。そして修羅のごとき強い心を持ったおヨネ。珍しいにもほどがある。


「珍しい夫婦がおるもんやな。あの真吉とか言う男、だいぶあのおヨネに救われちゅうねゃ。あの嫁さんがおらんかったら、幾らなんでもおかしくなるにかぁらん」


 普通ならば、と思う。


 そんな黒川家の様子を見ている内に、彼らがどういう末路を辿るのか見届けたくて、気付けば鞍馬は毎日足しげく屋敷に通うようになっていた。


 真吉と言う男は本当に変わり者だ。

 彼の様子を見ていると、周りが囁く言葉も分からないわけじゃないし、気味悪がらない方が不思議にさえ思う。


 人が何か困っていたらすぐに手を貸そうと出向く。その度にきつい言葉を投げかけられて追い返されるものの、彼はいつものようににこやかだ。


「何か困ることがあったら言うてくれれば、いつでも手伝うきねゃ」

「いらんお世話じゃ! もう来んといて!」


 桶に貯められた冷や水を思い切りぶっかけられても、真吉は笑みを崩す事無くその場を後にした。

 それを毎日のように見ていた鞍馬は呆れた表情が戻らない。


「こんだけ冷たくされよるのに、何じゃあの男。ちーっとも堪えてない。追い返されるがぁが分かっちゅうに、何で毎日毎日お節介を焼きに行こうとするがやろう。どう考えたち気違いやろ」


 鞍馬でさえそう思った。

 嘆くことすらしないなんて、おかし過ぎる。


 だがそんなある日、真吉は人目を盗んで空き家の隙間にスッと入り込み頭を抱え込んでいた事があった。


 鞍馬は真吉のそんな姿を初めて目の当たりにする。何日も何日も彼らの様子を見つめていて初めての事だった。

 鞍馬はそっと彼の近くまで下りてきて、彼に一番近い屋根の上に降りる。すると真吉は一人でぶつぶつと何かを呟いているようだった。


「わしが……わしが何とかせんとおヨネと幸之助がより不幸になる。わしが体を張らにゃ被害がでかくなる一方じゃ……」

「……」


 鞍馬はこの時、真吉の本心を見た気がした。

 いつもにこやかに笑っているのは家族の為。家族を守るために自分が体を張って、家族に今以上の被害がいかないように自分が表に立って被っているのだと。

 だが、挫けそうになる自分の心を時間をかけて自ら鼓舞している間にも、真吉の口からは一度も相手を責めるような言葉が呟かれることはなかった。


(人ってのは、げにバカな生き物じゃ。難しゅうてよう分からん。そんなになるぐらいやったら、大人しく武士の道を行けばえいのに)


 しゃがみ込んだ自分の膝に肘を立てて頬杖をつき、冷めた目で見降ろしていた鞍馬はそう思った。何も自分から辛い道を歩むこともないだろうに、と。

 そして何気なく真吉から視線を逸らして、真吉がやってきた方向にある道へと視線を向けると、数人の侍が険しい表情でこちらを見ているのが見えた。


「はて。真吉殿は役人に目ぇ付けられるような事しよっつうろうか……」


 あまりに役人が険しい目を向けているのを見て、鞍馬は首をかしげる。

 最近からとは言え、ここ毎日のように彼の様子を見ている限り盗みを働くことも乱暴することも何一つなかったように思う。それ以外で目を付けられるとするなら……。


「同じ村民からあれこれ言われとるがやろ。不憫な奴やなぁ」


 そう呟いた時、真吉はぱちんと自分の両頬を自分の手で打った。

 驚いてそちらを見れば、自分に喝を入れているようだった。


「おっしゃ。帰るか」


 そう呟いてから、真吉は何事もなかったかのように家路に着いた。

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