約束のあやかし堂 ~夏時雨の誓い~

陰東 愛香音

夏時雨の誓い



 ――……すまぬ。幸之助……すまぬ……。



 納屋の隅で丸くなって寝ていた黒猫は、耳をピクリと動かしてパッと顔を上げた。

 入り口から見える空は満点の星空が広がり、じっとりとした重たい湿気を含み生暖かい風が吹いている。


 黒猫――もとい、幸之助はただじっと空を見上げていた。


 確か主は、今日は夜回り組に行っていたはず。いつもならそろそろ帰ってくるはずだ。

 こうして主の帰りを待つのは、そわそわとして落ち着かない。それに、なぜだか今日は胸騒ぎがする。


 幸之助は落ち着かない様子で立ち上がり、納屋の入り口まで進み出る。

 平屋がまばらではあるものの軒を連ね、そばには清らかな川が流れ静かなせせらぎが聞こえてくる。


 このうだるような暑さを、そのせせらぎが紛らわせてくれるかのようだ。

 どこかからか聞こえてくる風鈴の音も、涼しさを感じさせる。


 だが、この時の幸之助にはゾクリとした寒気に近いものを感じさせるものがあった。

 

 主よ。早く戻ってきてほしい。そして、あなたの笑みと大きな手に撫でてもらいたい。


 その思いで、じっと夜通し幸之助は主の帰りを待ち続けた。




                  ◆◇◆◇◆

    



「お前さま!」


 翌朝。母屋の方から、悲痛な叫び声が聞こえてくる。

 この家の女房で、おヨネと呼ばれる女の声だ。


 幸之助は母屋の角からひょっこりと顔を覗かせると、板の上に寝かされた誰かが見える。上に掛けられたむしろのせいで、ここからではそれが誰なのか分かりかねた。


「何で……? 何でこがな事になったがよ……っ」


 おヨネは、土佐訛りの言葉で寝ている誰かに被さる様にして号泣していた。

 そんな彼女の姿を見て、初めてそこにいるのが誰なのかが分かった。


 彼は……主だ。


 幸之助は突然心にぽっかりと大きな穴が空いたのを感じた。


 主は死んでしまった……。なぜ、あの優しい主が死ななければならなかったのか……。


 呆然としていると、主の亡骸を運んできた役場の侍が淡々とした口調で告げる。


「黒川真吉さだきち殿は昨夜の夜回り中、辻斬りにうた。近頃、誰彼構わず人を斬る狼藉者がうろつきゆう事は、奥さんも知っちゅうろう?」

「何で……? 何でうちの人が斬られないかんがですか? 何ちゃあ悪い事しちょらんのに!」

「……」


 おいおいと泣くおヨネの姿を見ていた役場の侍は、「何も悪い事していない」と言う彼女の言葉に苦々しい表情を浮かべた。


 主は、武士だ。だが、武士らしくない武士だった。

 人を斬る事を嫌がり、刀を持ち歩く事にも嫌悪感を示していた。



 ――人を斬って何になる。それが真っ当な理由であったとしても、人殺しに変わりはない。



 そう言って笑いながら、私の頭を撫でていた主の顔を思い出す。


 彼はとても動物愛護の強い人間だった。そして根っからの平和主義者であった。

 世の為人の為、たとえ自分がどうなろうとも、他人の為に尽くすことが彼の生き甲斐だったのだ。


 武家に産まれながら、武士らしくない主の事を周りが変人扱いし、軽蔑の眼差しを向けていた事は女房であるおヨネも私も良く分かっていた。

 そして今、泣き崩れる彼女を目を眇めながら見下ろしている侍の眼差しがとても冷ややかな物である事も。


「真吉殿は、武家に産まれながら武士としての誇りを持たぬような者やったきねゃ。刀も持たんと歩きよったら、一般人と見られてもおかしくはないろう。脇差でも差しておれば状況も違ったやろうけどねゃ。そんな武士崩れが、こんな目に遭うたとしても別段不思議やないろう」


 吐き捨てるような言葉に、おヨネは侍を睨み上げた。


「何を言うがです!? うちの人に対して、そがいな事言わんといて下さい! こん人は確かに武士らしくない人やったかもしれません。けんど、人としては立派なお方です!」

「……おんし、誰に向かってそがいな口を叩きゆうか、分かっちょらんようやな。それ以上の暴言は、万死に値する事ぜよ」


 そう言いながら、侍は脇差に手を伸ばし僅かに刀のつばを押し上げた。

 僅かにキラリと鈍く光る刀に、おヨネは思わずぐっと口を噤んでしまう。


「本来ならそのままにしておく所を同期のよしみで仕方なくここまで運んじゃったがやき、後の始末は奥さんでせぇよ」


 威勢を無くしたおヨネに、侍は吐き捨てるようにそう言うと颯爽と屋敷を後にした。


 残されたおヨネはぐずぐずと泣き崩れていたが、ほどなくして亡骸を入れる為の大きな桶と人手を借りる為に屋敷を出て行った。


 私は筵に隠れた主の元へ近づき、血の付いたままの固くなった手に擦り寄る。


「……にゃーん」


 甘えたように鳴いて、もう一度主の手に擦り寄った。


 暖かさも何も感じない。この大きな手で撫でられることももうない……。


 私は傍らに座り込んで、小さく頭を下げ悲しみに胸を震わせた。




 ――幸之助。わしはな、生まれ育ったこん村が大好きながやき。どがに冷とうされても、中には気にかけてくれる人もおる。人っちゅうんは良い面も必ずあるきに。どがにバカにされて除けもんにされて、村八分に遭うたとしても、優しい人が一人でもおったら、それだけでもう儲けもんぜよ。



 

 道を歩けば砂を掛けられて、屋敷の前には排せつ物を撒かれて悪い噂を流されても、主はいつもにこやかだった。


 本当に主はバカで、辛い状況に置かれていても笑っていた。でも……やはり彼は幸せな人だったのかもしれない。




 ――こがなわしでも、嫁さんが来てくれただけでもう幸せや。これ以上の幸せがあるろうか。苦労しかかけん武士崩れのわしの所へは来るな言うても、おヨネは嫁に来ると言うて聞かんかった。ほんま、土佐の女は“はちきん”ぜよ。




 苦笑いを浮かべながらも照れ臭そうに笑っていた主を思い出す。

 無精髭を生やしてニッと笑う主が、私も大好きだった。




 ――幸之助。わしは、こん村の為やったら何でもしちゃろうと思う。わしの手の届くところは全部守りたい。皆が幸せに暮らせるようにしちゃりたいがよ。




 ポロッと、私の目から涙が零れた。


 主……。私は、あなたのその願いをあなたに代わって守りたい。あなたや、おヨネや、他の皆の為に、私はここを守り続けたい。この場所と人々を守る事をあなたに誓おう。


 例え死んでも、きっとあなたとの約束を私は果たして見せるから。


 いつまでも五月蠅く鳴く蝉の、いつの間にやら降り出した夏時雨の時だった……。

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