第3話 インディアンの太鼓 1

「ここ、4小節目の左手のウン、タン、タン、タン!

 タンはね、これは太鼓の音よ。


 

 この曲はね、インディアンがみんなで太鼓を叩きながら願いが叶うように一生懸命に踊っているのよ。

 例えば雨が降らなくて川の水が無くなって困った時とかに『雨よ!降れー!』って。

 わかるかな?」


 ピアノの先生からそう言われ、美久は小さく頷いた。


 このピアノの先生こと山崎先生を好きだけどピアノを習うのは正直、面倒くさいと思っている。


 ピアノのレッスンに来る度に場違いな所へ来たような気持ちになってしまうほどの広い部屋に2台のグランドピアノが置いてあり、小さめだけどブラウン色の布張りのふかふかのソファーと古楽器を思わせるこれもブラウンのバロック調のテーブルが部屋の隅に置いてあった。


 テーブルの上にある洒落たステンドグラス模様のガラスの器には、レッスンが終わって帰る時にご褒美として貰える一口包みのチョコレートとフルーツの飴が入っている。


 そのソファーとテーブルは一緒に来たお母さんが座っていたり、次にレッスンを受ける子が待っていたり、レッスンが済んだ子がノートに書き込む宿題を忘れて来た時に使うこともあった。

 

 美久は場違いな気持ちを払い除けるように鍵盤を叩いた。

 太鼓のイメージは力強い音だと思ったからだ。


 すると山崎先生が慌てて

「美久ちゃん、そんなに鍵盤をそんなに叩いては駄目よ。いつも言っているでしょう?鍵盤は叩かないで。」


 山崎先生が太鼓を叩きながらと言ったのに、と美久はがっかりした。


 「あのね、太鼓は主役じゃないの。リズムを刻んでいるだけなのよ。右手のラーっていうメロディが消えちゃうほどに強くては駄目よ。」


 美久は今度は左手を弱く弾いてみた。


 すると山崎先生は

「あのね、右手も左手も弱くなってしまったわ。

 左手のタン、タンも太鼓だからそんなに弱々しくはないのよ。

 丁度良い強さで弾かなくてはならないの。

 弱くてもハッキリとした元気な太鼓!

 そして右手の方が良く聴こえるように弾かなくちゃ。

 今日はもう時間がないから、それを考えて来るのが今週の一番の宿題にするわ。」


 美久はうんざりしてしまった。

 意味のわからない一番嫌な宿題なのだ。


 美久にとって何よりも面倒なことは、強く弾けば強すぎると言われ、それじゃあと弱く弾くと弱すぎると言われ、丁度良い強さになったと思っていると今度は左右の強さを変えろとか、音の長さが違うと言われる。

 そして音の長さを考えると、また、強さが違うと言われる。

 そして音の強さを考えて弾くと音の長さを間違えてしまうのだ。

 もうエンドレスの注意を受けてしまうのだ。

 

 仮に音の強さと長さが正確に出来たとしても今度は音色がどうのと言われるし、アクセント(その音だけを強く)やらクレッシェンド(だんだん強く)があるやら、もう混乱の極みなのである。


 考えてもあれこれ注意されるのだから無駄としか思えない。

 いつもピアノは面倒くさくてやめたいと思いながら教室に通っていた。

 それでもギロック作曲の『インディアンの踊り』は初めて山崎先生に弾いて貰った時から気に入っていた。


 初めてこの曲を弾いてくれた時に

「美久ちゃんにピッタリな曲を選んでみたよ。

この曲ならカッコいいしメトロノームにも合わせやすいし、上手く弾けると思うよ。

次の発表会で弾くのにどうかな?」

と山崎先生が言った時、思わず笑顔になって


「この曲にしたい。」

と言ったのだった。


 美久にとって発表会は嫌な思い出しかない。


 特に去年の発表会は散々だった。

当時二年生だった美久はブルグミュラー25の練習曲から「アラベスク」を弾いた。


 山崎先生は、あまりピアノが上手いとは言えない美久のために少し早めに選曲をしてくれてありがたかった。


 美久は毎日練習して意気揚々と発表会に臨んだ。


 ところが年の小さい順に弾くプログラムで、美久が弾く4人前に幼稚園の年長さんが同じ曲を信じられないくらいの速さで鮮やかに弾いてしまったのだ。

 会場は驚きと感嘆で響めき、拍手喝采である。


 先生から発表会前に一緒に発表会を開催する本山先生の生徒さんと曲が被ってしまったことを詫びられてはいたが、あんなに上手いとは知らなかった。


 美久は愕然として頭が真っ白になってしまい、美久の演奏は悲惨なものとなってしまったのである。


 幼稚園児のスピーディーな演奏につられて前奏の左手2小節の和音のテンポは極端に速くなり、メロディが始まってからのテンポは間違えてはいけないと思ってゆっくりになり、繰り返しを1カッコを飛ばしたと気が付いたので弾き直し、そして中間部はたくさん練習したのに左手がついて来ず何を弾いているかわかならくなってモタモタと止まり止まりになり、もう恥ずかしくて最後のクレッシェンド(だんだん強く)はだんだん弱くなりラストの跳躍の低音部のユニゾン、ミレドシラは外れてレドシラソと弾き、当然ラストの決めの和音は場所がわからなくなって、終わればいいやと思った瞬間、右手がドミソの和音を弾いてしまったのだ。


 そのラストの演奏は思わず笑いを誘うほどに面白くて会場が別の意味でどよめき拍手喝采となった。


 もちろん、微笑ましくて笑ってはしまったが『よく頑張った』との意味も込めて観客からの応援の拍手である。

  

 美久は真っ赤な顔をしたまま終わりの礼もそこそこに舞台から降りて早歩きで観客席の母親の隣の席に座った。


 母親は美久に顔を寄せて「もう、仕方ないわね。でも先生も酷いわ。何故あんな小さい子と同じ曲にしたのかしら。とにかく、ちゃんと練習出来ていない美久に一番責任があるのよ。わかってるわね?」と小さな声で美久に言った。


 美久は悲しくなって涙が止まらなくなり、ずっとハンカチで顔を覆って俯いていた。


 発表会が終わった後に母親は山崎先生に苦情を言った。

「うちの子が下手くそなのは仕方ないと思っていますけど、何もあんなに上手なお子さんと同じ曲だなんて。  同じ曲にならないように配慮してくださってもよかったんじゃないですか?」


 山崎先生は深々と頭を下げて詫びを口にした。


「本当に申し訳ありませんでした。

本山先生の幼稚園の生徒さんが少し我儘で、どうしてもアラベスクじゃないと嫌だと言うので仕方なかったんだそうです。

 来年の発表会は曲が被らないように、本山先生と連絡を密にして、他のお子さんに言われても必ず断るようにします。 

美久ちゃん、ごめんね。」


 そこへ本山先生も来て美久と母親に詫びてくれた。

 母親は文句を言うと気が済んだのか、

「美久、もう気にしなくていいからね。」

と言った。


 美久は母親の機嫌が直ったのでホッとしたが、やはり恥ずかしくて俯いていた。


 山崎先生は申し訳なさそうに美久の頭を撫ぜて

「また、頑張ろう!今度は絶対に間違えなくてカッコいい曲を用意するからね。」

と言った。


 そのカッコいい曲がギロックの『インディアンの踊り』だった。この曲は速くて短いので、「ゆっくりした曲と組み合わせる」と山崎先生から言われていたが、美久は山崎先生がゆっくりした曲も易しい曲にしてくれるとわかっていたし、美久の母親はピアノのことはよくわかっていないので少し曲が簡単になっても派手さが有れば騙されるに違いないと山崎先生も美久も口には出さなくてもわかっていた。


 次の発表会は失敗する訳にはいかない。

 

 2人とも同じ気持ちでいたけれど美久の演奏は空回りするばかりだった。

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