第4話 和樹
小学3年生の美久は前の年の発表会で盛大な失敗をしてからというものピアノをやめたくて悩んでいた。
習い事は習字とピアノの2つ。
習字は母親の希望で小学1年生から。
ピアノは5歳から。
母親が5歳の子どもにピアノが弾きたいかと聞いて「うん。」と答えると
「やるなら絶対にやめてはいけない。」
と言われ、
「絶対にやめない。」と答えさせられ、
「頑張るのね!」と言い、
「頑張る!」と答えるしかなかった。
5歳の美久はピアノはカッコいいと思ったけれど、こんなに難しいものだとは知らなかった。
習い始めこそは母親に厳しく言われ美久は毎日練習してピアノ教室に通ったけれど楽しかったのは一年生までだった。
随分とレベルの高いピアノ教室だったと大人になってから気が付いた。
美久の住んでいる町の中では生徒をコンクールにたくさん入賞させることで名の知れた先生だったのだ。
たまたま、そのピアノ教室が近所だったこともあり母親が子ども一人で通えるからと決めたのだった。
ところが習い始めてみると、一人で通っているのは美久くらいで他の生徒たちは皆、母親と一緒に来て先生のレッスンを一緒に受けて母親専用の楽譜を用意し書き込みをしているのである。
次のレッスンでは先週受けた注意は、ほぼすべて直されており美しく演奏され先生に合格をもらっていた。
そして次の曲へと毎週進み、あっという間に教則本を終えるのだ。
美久だけが1人でレッスンを受け、毎週同じ注意をされ何週間も同じ曲を弾いている。
美久だけ同じ学年の他の子に比べて教則本も進んでいないし簡単な曲を練習をしていた。
いくら頑張っても、上手く弾けたと思っても褒めてもらえないので練習する気も起きなくなり、だんだんと練習をサボるようになって注意ばかり受けるのだ。
終いには恥ずかしくて音の間違えさえ分からなくなる始末だった。
そして余計に注意を受ける。
ある日、レッスンが終わって落ち込みながら先生の家の玄関で靴を履いていたら美久と同じ年くらいの男の子と母親らしい人が「こんにちは。」と玄関のドアを開けて入って来た。
ピアノ教室は先生の自宅だけれど、約束の時間になったら勝手に入って来ても良いことになっているのだ。
男の子は「近藤和樹くんだ。」と美久は気が付いた。
発表会の時にドビュッシーの「小さな黒人」という曲を弾いていたのを覚えていた。
メロディはよく覚えていないけれど軽快でリズミカルな曲で自分には絶対弾けそうにない曲だと思ったのだ。
和樹は美久に声をかけてきた。
「ねぇ、美久ちゃんでしょう?
あのね、僕、美久ちゃんが前に発表会で弾いていたアラベスクが好きだったよ。すっごく面白くてカッコ良かった。」
美久は驚いた。「あんな酷い演奏を面白いのはわかるけどカッコ良かったなんて。この子は変わってる。」そう思った。
「美久ちゃんは1人でレッスンに来るんだね。僕も1人で来れるよ。へへへ!」
その割には、横にお母さんらしき人が立っている。
「今日はね、先生とママがお話しがあるから一緒だけど、今度からは1人なんだよ。僕、いつも木曜日に来てるんだ。」
「うん‥。」
美久は恥ずかしくて上手く喋れなかったけれど、話しかけてもらえてすごく嬉しかった。
「私はいつも水曜日。」と小さな声で言うと、
和樹は
「ママ、僕も水曜日に来たいな!1人で!」
和樹の母親は少し驚いた顔をした後でにっこりと笑った。
「そうね。水曜日なら他の習い事も無いし来れるわね。先生にご相談させていただきましょうね。和樹がピアノを続けてくれるのならママも水曜日に賛成よ。」
和樹はピアノをやめたいと言っていたのだとわかったけれど、まさか美久と同じ水曜日に来ていいならやめないというのは、まるで自分のことを好きみたいだなと悪い気はしなかった。
和樹が
「美久ちゃん、またね!」
と笑顔で言ったので、自然に美久も笑顔になって
「うん、またね。」と言えた。
美久は嬉しくて、歩いて15分ほどの距離をスキップしながら帰った。
「優しそうなお母さんでいいなぁ。ピアノやめたいって言えるんだ。すごいなぁ。美久ちゃん、またね。って言ってた。ふふふ。」
そして、ピアノの練習は発表会前しかしないはずの美久が珍しく帰ってすぐにピアノに向かった。
和樹の前でいいところを見せなくちゃいけないと思ったのだ。
珍しく言われなくても練習をし始めた美久を不思議そうに母親はチラリと見た。
次の週のピアノ教室の日、和樹は美久を待っていた。
15時30分から美久のレッスンが始まる。
ワンレッスンは40分程度だった。
和樹のレッスンは16時10分からなのに美久がレッスン室に入ると和樹はレッスン室のソファーに座って居て美久を見ると嬉しそうに微笑んだ。
そして「美久ちゃん、僕も水曜日だから、えへへ!」と、嬉しそうに笑った。
美久も嬉しくてはにかんだ笑顔を見せた。
美久はピアノ教室に通うのが楽しくなると思い始めていた。
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